歴史

やっぱり信玄が悪い!

 平凡社 丸島和洋著、「武田勝頼 試される戦国大名の「器量」」の感想です。

 平山優氏の「武田氏滅亡」とかぶっている部分も多いですし、その時にも思いましたが、今回改めて、武田信玄は従来過大評価され過ぎで、内政や制度(軍事含む)には見るべきものがあるものの、外交や戦略は、自分勝手で、ダメダメ。武田氏滅亡の原因は信玄が作ったとしか思えない、と思いました。
 後継者をきちんと育てていないと滅亡しますね。織田の場合、信長が後継者である信忠共々討死したという不幸があったので織田が事実上ほろんだ原因は後継者問題によるものとは言えません。豊臣は・・・・以前なら、武田同様後継者育成失敗で滅んだと言うところですが、秀次事件はどうも秀吉が意図したものではなさそうなので、運が悪かったと言っておきます。が、秀次が健在なら徳川に奪われないですんだかもしれません。路線対立から義信を死に追いやったのは信玄ですし、私から見れば、義信の親今川路線が正しいでしょう。実際、そうなったように今川を攻めれば北条とも対立しますし、外交、戦略上の大失敗でしょう。
 義信の死後、現代でも評価が定まっていないように信玄の後継者としての勝頼の立場は不明確です。甲陽軍鑑は勝頼は陣代であり、信勝が後継者だとしていますが、そういう話が後から出てきても通るほど、勝頼を明確に後継者と位置付けなかった信玄に問題があると思います。信長もそうでしたし、氏政もそうでしたが、早々に隠居して、家督を勝頼に譲っていれば、この問題が生じなかったと思います。出家した際にそうすべきだったのではないでしょうか?もちろん、外交・軍事上の主導権はそのまま信玄が持ち続ける訳ですが、そうしていれば、史実のように信玄が急死後、勝頼はより対応しやすかったと思われます。
 更に本書で明らかにされていますが、従来、一般的に考えられていた、武田信玄による織田包囲網というのは正しい言い方ではないようです。信玄は逆に将軍足利義昭を織田と共に支えていたと考えらえます。この関係が破たんしたのは義昭と信長の対立もありますが、逆恨みから徳川を攻めたことでしょう。しかも、それで織田と手切れになるとは考えていなかったふしがあります。状況判断が甘いとしか言えません。信長は信玄の裏切りに激怒して、それにより、後に勝頼が織田と和睦を試みても受け入れられません。
 今川攻めにせよ、徳川攻めにせよ、自己の欲望、感情により行ったもので、同盟国との対立を招いています。仮に織田・徳川と戦うにしても、今川を攻めずに、甲相駿同盟を堅持していれば、結果は違ったのではないでしょうか?
 そうして徳川攻めを行い、織田と手切れになり、状況を悪化させた挙げ句、本人はぽっくり死んでしまいます。勝頼は必ずしも立場は明確ではない上、信玄の遺言によりその死を隠すことを強いられます。最悪の状況です。この危機を乗り切れずに武田が滅んだ責任を勝頼に求めるのは酷というものでしょう。
 もちろん、滅んだ時の当主は勝頼ですから、責任は勝頼にもあります。武田滅亡の直接の原因は、やはり高天神城陥落であるというのが著者の考えです。これは平山氏と一致しています。これにより武田は自陣営の国衆を保護する力が無いことを露呈してしまい、離反が続いて短期間で崩壊しました。降伏を認めなかった信長の策略を平山氏は強調しますが、仮に開城し、退去出来たとしても、後詰出来なかったことには変わりはないので、やはり武田は滅んだのではないでしょうか?
 高天神城を救えなかった原因は勝頼にあると言えます。御館の乱での中途半端な行動で、結果的に北条との同盟が破たんしたのが原因でしょう。仮に北条と共に景虎を支援していれば、甲相越同盟が成立したことでしょう。そうなれば、武田は基本的には対徳川=遠江、三河戦線に専念出来ます。美濃は守勢に徹すれば、上方の情勢が落ち着くまで、史実通り、織田から攻めてくることはないでしょう。景虎が越後国内を早期にまとめ上げることが出来れば、越中から能登方面へ攻勢をかけることも出来たでしょう。
 とはいえ、勝頼の外交・戦略上の失策はこの点だけだと思います。織田包囲網を作り上げたのは信玄よりも勝頼といっても良いでしょう。対立してしまった北条に対しても佐竹などと結んで、包囲網を作り上げます。どこまで本気だったかは別にして一度は北条傘下に入っていた里見も同盟へ加えています。最終的には敗北しましたが、長篠の合戦で大敗した後にここまでやった勝頼の手腕は評価すべきでしょう。
 改めて感想を一言で言えば、「やっぱり信玄が全部悪い!」です。

 なお、丸島氏の著作はいつも読みやすいですが、今回は何故かちょっと読みにくく感じました。それと一部人名にミスがあるのでは?と感じられた部分もあります。勘違いかもしれませんが。

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今川・家康の最新研究

 今回は 内容に関連性がありますので以下の同じシリーズ二冊の感想をまとめて。

洋泉社 歴史新書 大石泰史編「今川氏 研究の最前線 ここまでわかった「東海の大大名」の実像」
洋泉社 歴史新書 平野明夫編「家康 研究の最前線 ここまでわかった「東照神君」の実像」

 これは色々な人がタイトル通り、最新の研究成果を紹介する文章を一冊の本にしたものです。

 まず一番は「おのれ、にっくき戸田康光め!」が幻だったらしいということ。ああ、これは小学生の時にエジソンの次に買ったのが徳川家康の伝記で、それに出てきた竹千代を戸田康光に奪われた時に広忠が言ったセリフです。子供の時から妙に気に入っていて、誰かにむかついた時に独り言で良く言っていました(笑)。通説では。家康は今川へ人質としていく途中、戸田康光により織田へ売られたということになっていますが、どうやら、松平が織田に降伏して最初から織田に人質として差し出されたようだということが分かってきたそうです。これはまったく知りませんでした。いやいや家康ファンを名乗っちゃいけませんね。

 面白いのは三河一向一揆は、「今川」側では反今川、親今川の戦いという側面が強調されているのに「徳川」では、最近そう言われているが、とはいえ、宗教的側面が大事と主張されています。

 最近ようやく従来よりは今川氏は評価されてきていますが、氏真は何もせずに領国を奪われた無能者ではないということが言われてきています。領国を失い、徳川に身を寄せた後にも旧臣が仕官してきたりしており、それなりに慕われています(仕官するに値すると思われている)。実際、三河こそ奪われたものの、遠江は一度は反乱を鎮めています。武田の裏切りがなければどうなったかはわかりません。

 徳川(松平)と織田の同盟も現代のわれわれがイメージするものと異なり、境目の確定と精々不戦条約程度のものだったと考えられるようです。ただし、ある時から、家康が信長に従属しているのでそこからはかわっていますが。いずれにしてもそれまでは家康は独自の外交を展開していますので、納得出来ます。ドラマなんかでは(女城主直虎もそうですが)、早い時期から信長に従属しているように描かれることもありますが。

 松平の系譜についてもだいぶわかってきているようですね。信光の業績は通説に近いようですが、英雄とされている清康は実際にはそこまでの業績を残していない模様。家康との関係で、持ち上げられていたのでしょうね。なお、最初は清孝だったとか。父親の法名から取られたようで、兄弟三人x孝だったようです。へー。

 信光の時代には伊勢氏(そう、所謂、北条早雲の家)の被官だったそうで。京都とのつながりがあったようです。それも踏まえて、所謂、初代とされる人物は、新田の血を引く人物では勿論なくて、京都方面から流れてきた(京都に人脈のある)人物でそれを養子に迎えたことで、一土豪だった松平氏が発展したのではないかと推測されています。

 全部は紹介しきれませんが、新書でそう高くも厚くもないので、一読をお勧めします。

 さて、平凡社から最近出た「徳川家康」と「武田勝頼」を読まないと。読む終ったら同シリーズの他のも!

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国衆の戦国史

 洋泉社 鈴木 将典 著「国衆の戦国史 遠江の百年戦争と「地域領主」の興亡」の感想です。これも、まあ、女城主直虎、便乗本の一つと言えなくもないでしょう。大河ドラマが直虎でなければ世に出なかった可能性はありそうです。そういう意味では大河ドラマのおかげで私が読むことが出来たので感謝すべきでしょうね。

 タイトル通り、遠江の国衆について書かれた本です。一口に国衆といっても、今川一族から元守護の吉良氏の家臣など、土着系など様々です。徳川勢の攻撃を跳ね返した天野氏なんて余り知られていないでしょう。もちろん、井伊氏も登場します。著者は直平以降はそれ以前の井伊氏の主流とは違うのではないかとしてます。まあ、資料が少なく何とも言えない部分が多いのですが、直平から(大河ドラマでの反今川姿勢と異なり)今川に従属したようです。
 そして、直虎が女性であったと考える根拠はないとしています。次郎法師は恐らく幼名(幼名をxx法師とする例は他にもありますので)であり、元服して次郎直虎と名乗ったのではないかとしています。残されている書状は漢文調であり、次郎法師のものは黒印、直虎のものは花押が書かれています。当時の女性の手紙は基本仮名で印判を使ったもので、花押を使ったものは残されてないそうです。今川の寿桂尼もそうです。もちろん、直虎が例外であった可能性を完全には否定出来ませんが、当時の常識からすれば男性です。直盛が討死した段階で、嫡男次郎法師は元服前でその後、元服して直虎と名乗ったとすれば辻褄はあいます。ただ、その直虎が直盛の実子か養子なのかは資料なく不明ですが。
 では、何故、直虎は女性とされ、直親の子、直政の後見人とされたのでしょう?ここは推測になってしまいますが、徳川が遠江を攻めた時に井伊氏の主流は敗北して没落(か死亡)し、傍流の子だった直政があたかも嫡流であるかのように見せかけるために作られた話ではないかとしています。直虎とされる女性は存在しており、死亡した記録はあります。これは井伊氏の誰かなのでしょう。そもそも次郎法師が法名であれば戒名が祐円なのはおかしいでしょう。一度還俗したからと言えばそうかもしれませんが。
 また、著者はそもそも直親が実在した証拠はないとしています。そう、書状などが残っていないのです。もちろん、残っていないだけで実在していた可能性はありますし、今後発見されることもあるかもしれませんが、現段階では後世につくられた資料にしか登場しません。前述の通り、直政(というか、その子孫というべきか)が正当性を主張するために作り出した話の可能性があります。私はそれが正しいのではないかと思えます。直虎の祖父とされる直宗も実在した証拠はないようです。このように後世に作られた系図ではしばしば誤りや架空の人物が登場していることがあります。直親の父親である直満は弟直義と共に小野の讒言により今川に誅殺されたとされている訳ですが、この話の信ぴょう性も疑わしいです。小野父子は親今川派だったのでしょうが。
 井伊氏の男子は大河ドラマでは虎松=直政しか残っていないように描写されてますが、実際には例の徳政令の時に反対する井伊主水佑という一族と思われる人物がいたことを示す書状が残っています。
 その辺も考えると小野父子は実際には忠臣(大河ドラマでも必ずしも奸臣として描かれていない)であり、徳川に逆らったので奸臣扱いされてしまっただけかもしれません。むしろ、弟の家系の方が井伊氏から離反して徳川へついた=直政側についたということやもしれません。当然、井伊谷三人衆も裏切り者でしょうね、それが正しければ。
 徳政令の関しては、今川が悪く言われ過ぎているとしています。全体的に見て、今川は強権的で国衆を力で従わせたように言われていますが、必ずしもそうではなく、基本的には国衆の自主性を認めているとしています。徳川は今川から離反して独立した訳ですから、江戸時代に今川氏は悪く言われても仕方ありません。
 感想は井伊氏中心になってしまいましたが、比較的マイナーと言える遠江の国衆について書かれた良書です。(^^)

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丸島和洋氏の著作

 最近、大河ドラマ「真田丸」の歴史考証担当者の一人である 氏の著作を続けて読みました。真田丸では、過去に読んで素晴らしかった平山優氏ともう一人黒田氏の三人で担当しています。 氏だけこれまで著作を読んだことがなかったのですが、真田信繁の書状を読む、を読んでみて素晴らしかったので他のも続けて読んでいます。丸島和洋氏の著作は何が良いかというとするすると読めるということです。普通?いえいえ、なかなかそうはいきません。大概はどこかでひっかかり、あれ?と思って読み返してみたり、本当に?と思うことがあります。が、丸島和洋氏にはそれはほとんどありません。あれ?と思うことがあっても、そういうことかとすぐ納得出来ます(あ、著者のミスや校正漏れの場合もあります。そういう時には、これは誤記だなとぱっとわかるということです。) 平山優氏ですら時々ひっかかりますし、それ以外の方の場合にはもっとひかかります。相性が良いというべきでしょうか?なので、他の方が読んでも同様に感じるかはわかりませんが。

「真田信繁の書状を読む」:星海社新書
 書状入門と言っても良いです。当時(概ね戦国時代)の書状の形式、書き方、紙、花押や朱印などについて知ることが出来ます。当時、月日は記しても、年を記す習慣が無かったので(何年と書いてあれば良い方)、いつの書状かを比定する作業が必要であることそのやり方についても書かれています。
 もちろん、残されている(原本不明で写しのみのも含む)真田信繁関連書状を個々に取り上げて現代語訳と解説がついています。少ないと感じるかもしれませんが、真田信繁クラスの人物のしては多く残っている方だそうです。考えてみれば、講談で幸村として有名になったとはいえ、元々は国衆の次男坊に過ぎません。辛うじて大名級、または小名(当時使われていない訳ではないのですが、個人的には「小名」という表現は好きではありません)級の所領を有していたとはいえ、まとまった土地ではなく城もなく、「給料」としてもらっていたに過ぎない人物です。表舞台での活躍も限られます。そういうレベルの人物としては豊富に残っていると言われると納得出来ます。
 なお、幸村と署名された書状が残されていますが、花押や戦死直前にも真田信繁と著名した署名した書状があることから、後世の偽造だろうとしていますし、同意出来ます。
  真田信繁の生年はいくつかの説がありますが、通説では早すぎるということを書状から示しています。信幸(信之)と歳の差は相応にあったと思われます。

「真田四代と信繁」:平凡社新書
 三代ではなくて?と思われるかもしれませんが、信綱は家督を相続していますから、幸綱、信綱、昌幸、信幸(信之)で四代です。なお、一般的に昌幸の父は、幸隆とされていますが、誤りで、幸綱であると示しています。幸隆と書かれた書状は残ってはいますが、一徳斉と一緒に書かれており、「ゆきたか」ではく、「こうりゅう」であろうとしています。これは現在ではほぼ定説になっているようです。

 真田氏も信綱までは一国衆に過ぎませんから、それほど一次資料は残されていません。江戸時代に作られた家系図には誤りが多く(特に実名)、親子関係が間違っていることが分かった事例は他にもあります。幸綱は長男だとされていますが、弟(次男)矢沢頼綱が三男であるとされた資料があり、綱吉という庶兄の存在を指摘しています。右馬助 という官途名を幸綱の父(頼昌とされる)が称しており、それを引き継いだ人物がいます。であれば、それが長子である可能性は高いでしょう。また、幸綱の母親は滋野氏娘とされていますが、そうではなく、幸綱の正室が滋野氏ではないかともしています。そうであれば、幸綱が家督を継いだのはその関係によるものと推測されます。なお、その場合、信綱以下の母親である河原氏は当初正室であったのが側室扱いにして正室として滋野氏を迎えたことになるでしょう。信幸と同じです。

 昌輝、昌幸らの「昌」はどこからきたのか私はよくわからなかったのですが、飯富虎昌の「昌」と同じく信晴からもらった(偏諱)のですね。晴信の「晴」は彼が将軍からもらった文字ですから、与えられず、武田ゆかりの「昌」の字を与えていたそうです。嫡男には「信」をもらって、通字の「綱」と合わせて、信綱とし、次男以下には「昌」をもらったのでしょう。昌幸は長男、次男どちらにも「信」をもらっていますが、これは昌幸が晴信(信玄)の側近だったので、もらえたのでしょう。武田家では格が高いと「信」、それより落ちると「昌」をもらっていたようです。なので、長男と次男以下では差がつくでしょう。

 実名(諱)は資料により異なっていたり(誤りだったり、途中で変わっていたり)する訳ですが、一次資料と状況、通字などからどれが後世の誤りかを確かめていく必要があります。現代でも、通説で実名が誤っている人物は少なくありません。幸綱と幸隆もそうです。さすがに幸村を実名と考える人はもう少ないでしょうが。悪いのは適当な家系図を作った江戸初期の人ですが(苦笑)。まあ、信幸ですら祖父の実名の間違いに気が付いていない位なので仕方ありません。ああ、何故そのようなことが起きるかといえば、当時一般的には実名で相手を呼ぶことはなかったというのが大きいでしょう。仮名か官途・受領名で呼ぶのが普通でしたから(家族でもそう)。信繁であれば、仮名が「源次郎」」、官途が「左衛門佐」なので、身内など親しい人であれば、源次郎、そうでない場合には、左衛門佐と呼ばれます。書状などでは、略して、真左、なんてこともあったようです。お互いわかっているので、区別出来れば良い、という書き方です。また、漢字も当て字が使われることも多々あったようです。これは恐らく、祐筆に口述筆記させるので、聞いた祐筆が、この漢字だろうと思って書く際に間違いが生じたのでしょう。音があっていれば余り気にしていないので、そのままになっていることもしばしば。偉い人が漢字を間違えるとその字に改めた例もあるようですね(真田関係ではないですが)。

「真田一族と家臣団のすべて」:新人物文庫
  真田一族及びその家臣人物伝を一般的に書かれた本です。良い本ですが、冒頭に真田四代の歴史を簡単にまとめた部分と歴代当主の項目で重複が多いのがちょっと気になりました。冒頭部分は編集側に言われて追加したものでしょうか?

 当主ですら資料が少なくはっきりしない点が多い(という断片的にわかっているに過ぎない)のですから、一族や家臣となるとわからないことだらけです。一次資料だけではどうにもならず、比較的信頼できると思われる二次資料も使われています。

 本来、真田家を継ぐはずだった信綱とその弟の子供らは小説などではほとんど登場しません。もちろん、真田丸にも登場しませんでした。しかし、信綱には与右衛門という息子がおり、越前松平家に使えています。昌輝の子(信正)も同様に越前松平家に使えています。与右衛門の子とされている人物は実は信正の子ではないかとしています。信綱が有していた書状類は昌幸には伝えられず、昌輝の子孫に伝えられているのがその傍証です。知られていない当主の兄弟もいるようです。綱吉は既にふれましたが、昌幸の子は他にもいた可能性があるようです。
 家臣になると更に資料は少なく良くわからなくなってきます。矢沢頼綱や頼幸の生年すらはっきりわかりません。矢沢頼綱は幸綱の弟、頼幸はその息子とされているのですが、没年(これは資料が残っている)から考えるとどうも微妙で、矢沢頼綱は長命で有名ですが、没年67歳という説もあるようです。1597年没なのですが、一般的には1518年生まれとされており、それだと79歳、しかし、67歳だと1530年生まれ。父とされる頼昌は1523年没と伝えられているのでありえなくなってしまいます。

 並べてみると
 綱吉:1510-1571
 幸綱:1513-1574
 矢沢頼綱:1518-1597
 常田降永:?-1572?

 信綱:1537-1575
 昌輝:1543-1575
 昌幸:1547-1611
 信伊:1547?-1632
 矢沢頼幸:1553-1626

 1518だとすると確かに幸綱の兄弟でしょう。しかし、嫡子頼幸が生まれたのは35歳の時で当時としてはかなり遅くなってしまいます。一方、1530年生まれなら23歳ですから、自然です。このように頼綱と頼幸の年齢差があり過ぎる気がします。もちろん、頼幸には嫡子がおらず、弟が継いでいるので、子供が生まれにくい血統だった可能性もあります。頼綱は当初綱頼を名乗っていました。勝頼による偏きも考えられますが、60歳位で改名するでしょうか?それなら息子ではないかと思えますが・・・・。
 では、間に一人いて、1518年に生まれた綱頼、生年不明の頼綱、1553年生まれの頼幸だとどうでしょう?当時十代で子供が生まれるのは普通です。ちょうど間をとって、1535年生まれとすると、綱頼17歳の時の子、18歳で長子頼幸誕生なので不自然ではありません。1585年頃から頼幸と連署し始めていますが、仮に1535年生まれだと1585年は50歳なのでちと早いかもしれませんが、32歳の息子に家督を譲っても不思議な年齢ではありません。
 まあ、単に子供が生まれるのが遅かったので、結果的に高齢になっても第一線で働き続けただけなのかもしれませんが・・・・。もしかすると今後新たな資料が発見されて、事実が分かるかもしれません。

 矢沢頼綱ですらその調子ですから、他の家臣の情報はもっと少ないです。真田丸で有名になった出浦昌相が忍の頭とされているのは「忍城」攻めで活躍したことが誤解されたのではないかとしています。ありそうな話です。まあ、忍の頭の方が物語としては面白いですが。

 下駄を投げつけられて歯がかけたとされる河原綱家は当時大阪にいたので犬伏にいるはずはなく、誤伝であると明確にされています。真田丸ではやや影が薄かったですが、実際には筆頭家老というべき存在だったようです。

「戦国大名の「外交」」:講談社選書メチエ
 戦国大名間の外交について述べられた本です。付随して戦国大名と国衆間の関係についても述べられてます。また、外交には書状がつきものなので、書状についても述べられています。これまでこのようにまとまった本は読んだことはなく、良く理解出来ました。
 外交は「取次」と呼ばれる存在が担います。一般的には重臣(城主級)と側近がペアになり取次を務めます。相手に出す書状は大名当主が出しますが、取次の副状がないと機能しません。一般的に後世の人間が考えるほど、戦国大名には専制君主と言える存在ではなく、家臣団の合意が重要であるからです。なので、「家臣もこの方針に同意していますよ」と示す副状が大事です。
 また、取次は相手から所領を与えられることもありました。これにより、外交関係が破たんしないように取次が働くという効果もあります。
 取次は外交関係が破たんして戦になった場合、その戦を主導することも多かったようです。ある意味、責任を取る、ということです。それもあり、取次は相手方よりになってしまうことも多かったようです。当主の方針と食い違ってしまった例も紹介されています。島津では虚偽の報告をしてまで取次がやりたいようにもっていこうとした例が報告されています。
 一般的には外交ルートは一つですが、北条氏と上杉氏の間では二つ併存した事例も紹介されています。これは北条氏側の事情によるもののようです。
 従属している国衆との間にも類似の関係、やり取りがありますが、この場合には、指南と呼ぶことが多かったようです。取次と異なり、その国衆のいる地域または隣接する地域による重臣が指南を務めたそうです。

 戦国時代に興味がある方は必読の本だと思います。

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しかみ像

 徳川家康が三方ヶ原の合戦で負けた後、自戒のために描かせたという肖像画を見たことがあると思います。しかめっつらで片足をあげて座っている例の絵(しかみ像とも言われる)です。しかし、あれはその時の絵ではないという論文が出されていました。

原 史彦著 徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎
http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/

  リンク先からPDFを落とせます。みればわかるようにこれはあの絵を所蔵している徳川美術館の学芸員の方です。実は最近のものではなく、2015年でした。まったくそれに気が付いておらず、先日、前述のリンクから落として読んで知りました。まったくうかつでしたが・・・何故もっと広く報道されなかったのだろう?気が付いていないだけかな?なので、今更、ではなりますが、重要な話なのと私のメモもかねて書き込むことにしました。

 内容は簡単に言えば、絵そのものは家康の肖像画として尾張徳川家に伝来していたものですが、江戸時代には三方ヶ原の合戦後に描かせたものだとはされていなかったのです。では、何故そのように言われるようになったといえば、ずっと後の時代、昭和11年に対談で当時の尾張徳川家の当主がそう言ってしまったのが広まったのだとか。
 いやはや、これは参りました。服装がおかしいとかこれまでも突っ込みは入っていた絵であり、当時のものではなく、後世の人間が描いたものである可能性はあるだろうとは思いましたが、元々は関係無いものだったとは。いやあ、所謂「定説(通説)」が確認すると根拠が薄かった・なかったというのはこれまでも良くありましたが、ほとんどは江戸時代に確立していた話で、まさかつい最近(家康が生きていた時代と比べると)に作り上げられた話とは思いもよりませんでした。やってしまったのが事実上の所有者(苦笑)。
 元々は紀伊徳川家に伝来していて、尾張へ嫁入りした際に持ってきたもののようです。その段階で家康の肖像画とされています。その後、長篠の合戦時の肖像画とされ、明治時代には尾張徳川家初代義直が父・家康の「苦窮」を忘れないために描かせた「長篠敗戰の像」とされてしまいます。根拠はないようです。多分、この後、長篠は勝利だったので、敗戦と言えば、三方ヶ原なので、「尾張徳川家初代義直が父・家康の「苦窮」を忘れないために描かせた」を正しいと考えて、 「三方ヶ原敗戦」に訂正したのが昭和11年なのでしょう。この段階で描いたのは狩野探幽だとしています。ただ、最初は家康が後に狩野探幽に描かせたとされてて、その後、尾張徳川家初代義直が描かせたに変わっています。
 では、何故、その後は、家康が描かせたことになってしまったのでしょう?徳川美術館の蔵品図録でそのように解説してしまっています。これが昭和47年。どうやらこれ以降、そういうことになってしまったようです。

 では、いったいこれはなんなのか?18世紀後半までは紀伊徳川家にあったらしいということ以外はさっぱりわかりません。家康の神格化を意図して製作されたと思われますが、それを明確に示すものはありません。恐らく今後も見つからないでしょうね。実は別人である可能性も否定は出来ませんし。

 なんにしても所有者である徳川美術館がそうだと言っていたのでその後は長い間誰も検証することなくそのままになっていた、ということです。もちろん、違うのではないかと指摘する研究者は論文にあるように出てきてはいますが、調べてみたら、昭和11年よりも前はそういう説明ではなかったということが明確に示されたのはこの論文が初めてと思われます。

 肖像画の類は伝承が間違っていることが多く、教科書に載っているようなものでもひっくり返った事例は多くあるのですが、今回は何せ、徳川家に伝来していたため、私も含めて信じてしまったのでしょうね。

 繰り返しになってしまいますが「歴史」にはこのようなことがしばしば起きます。定説(通説)が確認したら実は根拠がない(一次資料や信頼できる二次資料にかかれていない)ということはこれまでも何度もありました。ある時誰かが言い出したのが気が付いたら事実と思われてしまう、広まってしまう、そういう事例にこの家康の肖像画も入ってしまいました(苦笑)。

 自分のところの解説文を否定する論文を書いた著者とそれを認めて掲載した徳川美術館は立派だと思います。

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高志書院 「関ヶ原合戦の深層」谷口央編

 かなり前に買った本ですが、ようやく読了しました。以下の内容の論文集です。

総論 関ヶ原合戦の位置づけと課題…………………………谷口 央(首都大学東京 准教授)

 第1部 政権の中枢
増田長盛と豊臣の「公儀」-秀吉死後の権力闘争-………石畑匡基(九州大学大学院博士後期課程)
軍事力編成からみた毛利氏の関ヶ原…………………………光成準治(県立広島大学非常勤講師)
上杉景勝の勘気と越後一揆……………………………………片桐昭彦(練馬区郷土資料調査員)
【コラム】佐竹氏と関ヶ原合戦………………………………森木俊介(茨城県立歴史館)

 第2部 政権の周辺
関ヶ原合戦と尾張・美濃………………………………………山本浩樹(龍谷大学文学部准教授)
関ヶ原合戦と長宗我部氏のカタストロフィ…………………津野倫明(高知大学人文学部教授)
島津義久〈服属〉の内実-関ヶ原への道程-………………黒嶋 敏(東京大学史料編纂所助教)
【コラム】
真田と上杉を結んだ道-戦国・織豊期の沼田と会津-……竹井英文(東北学院大学文学部専任講師)

特論「関ヶ原合戦図屏風」-作品の概要と研究の現状-…高橋 修(茨城大学人文学部教授)

 第一部と第二部にまとめられてはいますが、基本的にはそれぞれは独立したものです。ただし、増田長盛は長宗我部とも絡んでいます。一番興味深かったのも「ヶ原合戦と長宗我部氏のカタストロフィ」です。信親の死後、最終的には盛親が家督を継ぎますが、何故「「盛」親」なのかはこれまで考えたことがありませんでした。「信親」の「信」は当然ながら「信長」の「信」です。豊臣氏に屈服した後に元服したのなら「秀親」でおかしくないのですが、そうはならず、その家臣(所謂、五奉行の一人とはいえ、大身ではない)にすぎない増田長盛を烏帽子親にして「盛親」とはずいぶん落差があります。が、豊臣政権に正式に世継ぎとして認められていなかったのなら不思議ではありません。しかし、そんなこと気にしたことがありませんでした。迂闊でした。
 「軍事力編成からみた毛利氏の関ヶ原」での毛利の兵力の推測も興味深いです。まあ、やや強引かなとも思いますが、結果的にはだいたい近い数字にはなっているようにも思えます。一般的には毛利秀元は吉川広家に邪魔されて行動出来なかったとされていますが、そういえる根拠はないのですね。
 毛利もそうですが、佐竹も結局、家中の意見統一がとれていないが故に満足に行動出来なかったのであり、また、岐阜城があっさり落ちたのも、それらの遠因は豊臣にあると読めました。そうすると皮肉な話です。大名が鉢植え化され、支配期間が短いと住民(あえて現代風にこの語を使います)の支持、協力が得られなかったため、攻撃に対して脆かったのですから。当然、徳川はこの辺を見て、外様大名を転封させたりしたのでしょうね。
 いずれも論文と言えるものなんで、ある意味では「真相はこれだ!」「xxの真実!」という風には書かれておらず、物足らなさもあるかもしれませんが、安心して読めます(途中で、強引さが他者攻撃が嫌になったりしない)。
 簡単な感想ですが、関ヶ原の戦いに興味がある方にはお勧めできる本です・。

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黒田官兵衛 作られた軍師像

 講談社現代新書、渡邉大門著「黒田官兵衛 作られた軍師像」の感想です。来年の大河ドラマのため、ぞろぞろと官兵衛が出ていますが、この本は一次資料を中心にして、一般的に言われている話が正しいのかどうかを検証というか、述べています。なので、黒田官兵衛の謎を解く!というような内容ではなく、推測を余り述べておらず、一次資料で確認出来る出来ないで述べているので、わりと地味です(苦笑)。なお、通常は私は黒田孝高と呼んでいますが、今回だけは、官兵衛に統一します。
 一般的な黒田官兵衛本に余り出てこない内容もあります。例えば名前。官兵衛は通称というか、自称官途で、本名は孝高です。が、最初から(幼名は別にして)、何度か変わっており、文書の署名の変化でおいかけています。名前が変わるのはそれそのものは珍しいことではないですね。徳川家康も、元信、元康、家康と変わっています。最初は祐降。「よしたか」と読むことは出来ます。次は「考降」。これは「よしたか」とは読めないので「孝降」の書き間違いか?その後「孝降」になり、そしてやっと「孝高」。まあ、今の我々の感覚よりも当時の人の漢字表記の感覚は、良く言えばおおらか、悪く言えば適当ですからね。「おと」が同じなら漢字が違っても余り気にしていないと思われることがあります。とはいえ、自分の名前の漢字を間違えるかといわれると?ですが。祖父が重降、父が職降なのに、読むは同じ「たか」でも、何故か、「孝高」になったのは何故でしょう?これは「孝降」のままの方が自然に思えます。でも、著者は何故については述べていません。また何時かについては小野寺から独立した時ではないかとしています。「降」が小野寺と関係あるとは思えませんが。もっとも曽祖父が高政で、弟も利高なので、何かの理由で「高」にしたのでしょうけれど。考えて見たことがありませんでしたが、なかなか興味深いです。
 中国大返しや賤ヶ岳の合戦の際の大返しは言われているほどのペースではないというのも示しています。とある文章に小野寺とあって、従来は官兵衛だと考えられていた人物は実は叔父であるということを他の資料を基に説明しています。万事そんな調子です。おお、凄い!というようなものはありませんが、細かく、一次資料を見ればこれは違う、ということを述べています。
 ただ、ある意味、どうでもいいことまで一般的に言われていることが一次資料と一致しないということを述べている部分もあり、なのにそれが大きな違いだと主張している記述もありますが・・・。
 官兵衛は軍師と良く言われますが、当時、今我々がイメージする軍師は存在しないというのは、ちょっとこの時代に興味を持っている人には良く知られていると思いますが、それについても、一般向けを意識してか色々と述べられています。黒田家譜はそのまま全部信用したらいけないよという説明にもかなりページを割いています。そんなの当たり前、と思いますが、これも一般向けを意識してのことなのでしょう。
 また、よくあるエピソードは後世の創作としながらも、その元ネタがあるということを述べています。関ヶ原の合戦の際に天下を狙ったという話がありますが、息子の黒田長政が遺書で徳川の天下取りにこれだけ貢献した、やろうと思えば、天下を自らとれたというようなことを述べています。この話を元に後に天下を狙ったのだという話が作られたとしています。
 一次資料を全部確認することは出来ないので、この著者を信じるしかないというのはありますけれど、でも、全体としてなかなか良い本だと思います。

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倭の大王は百済語で話す

 金容雲著「日本語の正体 倭の大王は百済語で話す」を読了しました。著者は戦前生まれ(1927年)の数学者だそうです。なので日本語も自由に使えて、本書の翻訳ではなく、本人が日本語で書いています。
 以前、大野晋氏の「日本語の起源」でタミール語に由来するという説を読んでなるほどと思ったのですが、韓国語との関係がすっきりしませんでした。何故、文法はほぼ同一なのに単語や発音がこれほど違うのか。しかし、この書がそれをすっきり説明してくれました。
 帯にこう書かれています。「百済語が日本語で、百済語を投げ出したのが韓国語だった。」。この書は一文で言えばこれです。中身はその細かい説明です。
 カラ語という表現を使っていますが、これは北方系ではなく、南方系の言葉で、古代韓国語と言っても良いかもしれません。で、そのカラ語の方がタミール語との関連は深く、タミール語は半島経由で日本に入ったのであろうといっています。そういう意味では、日本語の起源の一つがタミール語であるというのは間違いではないでしょう。

 従来、必ずしも関連性がないとされていきた数詞(これは半分程度は関連性がとなえられていたとうですが)や基本語のほとんどに関連性があることを説明しています。

 ざっくり言えば、最初に半島南部の加邪(かや)の人々が半島から日本列島へ渡り、その後、白村江の戦いの前までに新羅系が東日本に、百済系が西日本に入っており、国家を形成していき、日本では百済系が主導権を握って日本語の原型が成立します。なので、加邪語が原型で、それに百済語と新羅語が混ざり、百済語が中心になって日本語になっていったという訳です。一部には新羅語も主に東日本に残っています。アイヌ系の言葉は半島からきた勢力に駆逐され、東北から北海道にかけてアイヌ系が残存していた地域の地名などを除けば、日本語には残りません。つまり、先住のアイヌ系民族が半島を経て大陸からやってきた民族に駆逐され、半島からきた民族が現代日本人(語)の先祖になったのです。

 だから、紀元7世紀までは半島と倭はほぼ同じ言葉を使っていた、というのが著者の主張です。ただし、新羅語と百済語はまったく同一ではなく、単語や発音に差異があったようです。半島では、新羅が百済を滅ぼし、倭も半島から追い出され、日本列島で孤立というか、半島とは別の歴史を刻みだし、半島は中国=漢字の影響が強くなり、固有名詞の発音まで中国風に変えていき、その結果、音韻が元々の原型から中国風にへ変化していきます。現在、日本語の70程度ですが、現在の韓国語では2000を越えます。これはこの過程で生じたものです。母音と母音が連続する場合、日本語はほとんどそのままですが、韓国語では、それを一つにして合成母音が作られ、結果的に音韻が増加していった、という訳です。
 また、日本語自体の音韻も当然、変化しています。ですから、オリジナルから二つに枝分かれして、それぞれが変化していった結果、現在の枝の両端を比べると欧州での言語の変化のように単純に音韻法則が成立しないのは当然で、音韻法則が成立しないから、対応していないとうのは間違いだというのが著者の主張です。

 著者の主張する主な変化を簡単に並べてみます。

1.南方語と北方語(それぞれは別の言語)が融合し、半島から日本へ渡った。それらの言語間には音韻対応はまたくない。
2.母音変化する。日韓語間だけではなく、日本語間でも生じている。
3.日本語は語頭の母音化傾向がある。日本語の語頭の子音が脱落したり、母音がついたりする。
4.清音が濁音または破裂音に変わりやすい
 例 k->g(カ行ー>ガ行)  

5.母音衝突で変化
6.えびかに現象。一つの単語が二つに分裂。同じ意味の言葉が続いて一つの名詞になっている場合があるが、それが分裂して、現在の日韓語のそれぞのれ名詞になっている
 例 手 : ソンテ => 日:テ、韓:ソン  : ソンテは現代韓国語では「手伝い」の意味
7.r、lの子音が不規則に変化

 このような変化の結果、現在の日本語と韓国語の音韻はすっかり異なってしまい、西洋風の音韻法則がほとんど成立しなくなった、というのです。

 もう一つ、熊襲はアイヌ系と私などは思ってしまうのですが、著者は半島の南方系が先に九州に入り、後から更に北方系が入り、南下し、行き場がなくなったので、「東征」したのではないかと考えており、隼人は、南方系の人々だったのではないかといっています。鹿児島弁が現在の日本語よりも韓国語により近いのだそうです。ただ、まあ、熊襲と隼人が同一でないとすると、熊襲はアイヌ系で、隼人は初期に九州に入った半島系ということも考えられそうです。ただ、ちょっと気になるのは、鹿児島弁はかなりユニークですが、それらは土地の民衆の言葉だったのか、それとも東国から入った御家人が持ち込んだ言葉かか、です。著者は東日本には新羅系の人が多くいて、方言にもそれが残っているといっています。であれば、元々その地にあった言葉ではなく、関東から持ち込まれた言葉の可能性もあるかなとは思いました。著者自体も似ているということを「いっぺごっぺさるもしてすったいだれもした」を例に説明していますが、この中の「すったい」=「すっかり」が韓国語の北方の方言「すった」に近いと書いています。南方系の言葉が残ったのなら、これは少しおかしい気もしますが、後述のように言葉の北方・南方と場所は必ずしも一致しないようです。ただ、いくつかは東国に住み着いた新羅系が持ち込んだ言葉を御家人が持ち込んでいる可能性はあるのでしょう。元々の地元の言葉と東国の御家人らが持ち込んだ言葉が融合して出来たのでしょうから、これは逆に一部は東国から持ち込まれた(東国ではその後、使われなくなった)言葉が残っているということかもしれません。ただし、これも私の基礎知識の不足により、そう感じたというだけですが。

 ここの単語の説明で知らなかった・興味深かったことをいくつかあげておきます。

1.カラが国、奈良も国
 加邪語や百済語で国を示すのは「カラ」で、これが
 karaーkona-kuni
 と変化して、クニになったと主張しています。
 一方で新羅で国は「ナラ」です、奈良は先に新羅系の人々が定着し、そこに国を作って、その地を国の意味で、ナラと呼んでおり、後から百済系が入った後、地名として、「ナラ」が残ったのではないかと。ただし、元々は加邪系が先にきていて、国自体を表す言葉は「カラ」が使われていたので、途中で「ナラ」が国を表す言葉にはならなかったようです。

2.村は新羅語
 新羅語では大きい村の意味で、「クンムラ」が首都を意味する言葉だったそうです。ムラ=村ですね。
 韓国語で、「ウル」は日本語の「うち」になったもので、垣の意味だそうです。垣が広がると村になり、これが「マウル」。更に広がると村郡になり「ゴウル」。その上が「ソウル」で、更に上は「ナウル」=国で、更に上は「ソラ」=空だそうです。郡を「ごおり」と発音する場合がありますが、これは「ゴウル」からきているのだといっています。

3.ソウルは固有名詞ではなく、首都の意味?
 京都みたいなものなんでしょうね。元々は、新羅で「ソラボル」、百済で「ソブリ」だったそうで、bが脱落して、「ソウル」になったと。ただ、前述のように新羅語では首都は「クンムラ」だといっていますので、「ソラボル」は固有名詞だったのでしょうか?ただ、「ウル」ー>「ゴウル」->「ソウル」ー>「ナウル」の変化の方が自然ですから、「ソブリ」が「ソウル」だとすると「ゴウル」も元々は違う発音だったのかも?

 なお、背振山という山が福岡と佐賀の間にありますが、これは「せぶり」です。だから、これは首都を意味する「ソウル」がなまったもので、吉野ヶ里遺跡は国の首都であったことを意味するのではといっています。なまりだとすると「ソブリ」ー>「せぶり」な気もしますが?

 

 百済と倭の関係がどうであったか、です。神話の記述から著者は百済の王族の一部が新天地日本へいき倭という国家をつくり、本国百済が滅んで、分国の倭が残ったと歴史的な国家の成立についてもふれられていますが、それらについての評価はここではしません。理由は簡単で、私にその時代の知識が不足しているので評価が出来ないだけです(苦笑)。ただ、倭が半島へ介入したのは本国救援の意味もあるかもしれませんが、ノルマン王朝がフランスの領有権を主張したのと同じような意味合いもあったということも書かれているのは興味深いです。

 半島の歴史に詳しくない(半島どころか日本の戦国時代よりも前の時代の歴史自体に詳しくなく、一桁世紀はさっぱり)なので、わかりにくい部分も多いのですが、著者の説明を読んだ成り立ちについての私の理解は以下の通りです。
 新羅は半島の東南部にあり、百済は西南部、北部に高句麗がありました。百済と高句麗は言葉は同じ系統のようで、北方系です。百済と新羅の間に加邪があり、これは南方系の言葉だそうです。高句麗はともかく百済は南方系に思えますが、これは高句麗は北方の所謂騎馬民族系でそれが南下していって、百済をつくったということなのでしょう。言い換えると加邪や新羅の方が元々の原住民ということでしょう。ただし、支配者階級は加邪も新羅も北方系らしいので、住民は南方系、それらが北方系に征服されて出来た国。高句麗や百済は北方系の民族ごと南下(原住民は南へ駆逐?)した国ということでしょうか?場所柄百済の住民は現住の南方系も相応に含まれていたのでしょうけど。
 言語だけみれば、百済は北方系、新羅や加邪は、南方系の言語に北方系の構造が融合したもの、だったと言っているように理解出来ました。なので、構造はいずれも同じ=アルタイ語系ということのようです。

 最初に日本へ渡ったの場所から考えても当然の話ですが、加邪系だったようです。半島南部、対馬、北九州一帯に加邪国家群が成立し、新羅としばしば戦っていたようです。金印の時代ですね。で、次に邪馬台国が登場します。これは今度は新羅と結んで、魏(三国志の)に朝貢しています。当時、百済は呉に朝貢していますから、百済と対立していたということです。百済は狗奴国を支持しており、これは邪馬台国と対立していますから。続いて歴史の空白期間があり、親百済の応神朝が登場します。
 日本の神話と半島の神話を交えて考察し、天孫光臨の神話をもたらしたのは加邪の傍流の王子らで九州南部から瀬戸内海を経て大和に入り、王朝を樹立します。これが神武天皇。
 ただ、それとは別に新羅系の物部氏が先に大和に入っていたようで、奈良=ナラ=国の語源となった国は彼らが作ったのでしょう。
 その後、百済系の応神が加邪系を征服してこれにとって代わり、以降、百済系が中心になって倭から日本へと成長していったと、と以上が著者の説明・主張と理解しました。

 新羅系は九州には行けず、日本海経由で山陰などへ渡ったのでしょうか?ある時期は中国(山陰)以東の地域に先住のアイヌ系を駆逐しつつ広く広がっていたのは、加邪系?新羅系?先に奈良地方に国を作ったのは新羅系でしょうか?新羅系は加邪系に東国へ追いやられ、東国の言葉に新羅系の語彙が残った、とまあそういうことなんでしょう。

 だから、結果的に言えば、半島では一時北方系に征服されかけたものの、最終的には南方系が中国と手を結ぶことにより、盛り返して半島を統一し、現代韓国語の元になり、日本は北方系が南方系を駆逐して、現代日本語の元になった、と、まあ、そういうことでしょうか。ただし、両者も両方の言葉が混ざり合っているので、新羅語=現代韓国語、百済語=現代日本語、とは言えないのでしょうけど。
 日韓がもっとも近い国・民族でありながら、仲が悪いのは昔からの歴史的な流れ?韓国=新羅=南方系から見れば、日本=百済=北方系に半島でも列島でも何度も侵略されたことになるので。(^O^;

 それから、著者の主張が正しいとすると邪馬台国は親新羅ですから、奈良にあった新羅系の国家であると考えられますが、ただ、そうだとすると対立していた百済が支持する狗奴国は熊本にあったのだろうとしている訳ですが、この時、先からいたはずの加邪系の国はどこにあったのでしょう?それもふまえると、邪馬台国は北部九州に存在しており加邪系で、それに対抗して九州のどこかに百済系の狗奴国があったと考えた方が自然ではないかと思えます。
 もしかすると百済系に押されて、北部九州から南下して瀬戸内海へ進出というか脱出し、大和へ到達し、先住の新羅系を駆逐し、勢力を確立、反撃に転じて九州の百済系国家を征服、そういうことかもしれません。そうすると隼人は意外にも百済系?そうすると大和説の人達がいっている国家は新羅系の国だったということになりますね。出雲も新羅系でしょうか?言葉を調べればわかるのでしょうけど。

 基本知識不足の上に長文癖がでたのでわかりにくい文章になってしまいましたが、著者の主張に同意する・しないは別にして、一度、読んでみることをお勧めします。日本語から従来余り興味のなかったこの時代の歴史に私が大いに興味をそそられましたし。
 ただ、こうなると次は、カラ語、百済語や新羅語の起源が気になってきます(笑)。

日本語の正体 倭の大王は百済語で話す
著者 金容雲
出版社 三五館
ISBN978-4-88320-476-2 

P.S.繰り返し述べているようにこの時代についての知識は不足しているので、著者が明らかに事実と異なる主張をしていても気がついていないかもしれません。著者の主張を全て認めている・同意したという訳ではないこともここにお断りしておきます。ただし、日本語の起源の説明としては、過去読んだもののなかで(後から出てきたものであるので当然ですが)、もっともすっきり納得出来るものでした。

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