書籍・雑誌

最近読んだ本

 光人社NF文庫 雨倉孝之著「海軍ダメージ・コントロールの戦い 知られざる応急防御のすべて」
 余り類書がないので貴重です。色々問題はあったものの、太平洋戦争前に急いで改善し、なんとか間に合ったが、まだ不十分だった、というところでしょうか。
 もっとも米並の間接防御(ソフトハードともに)だったとして、どれだけ救えたかは?比叡と霧島は救えたかもしれません。でも、霧島は厳しいかな?ミッドウェーで赤城は救えた可能性はあると思いますが、残りはどうでしょう?火災が鎮火したとしても日本まで生還できたかどうかは?
 それに結局、戦争には勝てないのですとねえ。海上護衛戦、本土防空戦。後知恵で言えばもっとやりようはあったとは思いますが、結局、戦争に負けるのは同じ。負けないためには戦争をしないか、組み合わせを変えるしかなかったと思うとむなしいです。
 さて、海自はどうでしょうか?旧海軍の戦訓と米海軍からの技術・知識導入により大幅に改善されていると・・・期待したいですが。

以下は小説なので、ネタバレになるので感想が書きにくいですが。 

中公文庫 大石英司著「神はサイコロを振らない」。
 なんで今頃読んでいるの?と言われそうですが、ぽっかり抜け落ちていました。面白かったのですが、一つだけ矛盾があります。まあ、矛盾というか、設定上あり得ないことが一つ。しかもそれがかなり重要なポイント。何か誤解しているかなあ?でも、やっぱり、これはあり得ないよなあ。それ以外の結末は私好みです。

ハヤカワ文庫 林譲治著、「出雲の兵站1-4」
 第1部完を記念して軽く。うん、いいですね。カーリーさん節炸裂。「敵」の正体は1巻を読んだ時の予想は一部当たり一部外れ。うーん、そうきたかあ、です。時には強く、時にはおまぬけに思える敵ですが、確かにこういう設定なら納得です。第2部で敵がより詳しく描かれると思いますが、本当の正体は?「異星人」ではない、と予想しておきましょう、敢えて、裏を読んで。

ハヤカワ文庫 鋼大著「天空の防疫要塞:
 なんというえばいいのでしょう。うーん、SFというとちょっと。でも、スペオペでもありません。ハードスペオペ?かな?まあ、でも、一部スペオペっぽい部分を除けば、十分SFで通用すると思います。とりあえず読みきりですが、とても面白かったです。具体的に何か書くと読んでつまらなくなるかもしれませんので辞めておきます。続きはまだありそうです。期待します。

 日本のSFはレベル高いですね。「女王陛下の航宙艦」なんかと大違い。やはり航空宇宙軍史シリーズがあるからでしょうね。

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最近読んだ本

 最近といっても、ちょっと通勤中の読書時間が余り取れず、ここ一ヶ月位に読んだ本です(苦笑)。まあ、雑誌も読んでいるというのもありますが。

角川新書 大木毅著 「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨
 良書です。極力客観的に史料から事実と考えられることのみを選んで記述しています。私は英軍ファンなので、ロンメル将軍は優れた戦術・作戦指揮官に過ぎないという評価ですが。本来中隊から大隊程度の指揮が最適で師団長ですらもはや危ういと思っています。「ロンメル」をよく知らない人はこれ一冊読めば十分だと思います。

中公新書 元木康雄著「源 頼朝 武家政治の創始者」
 ちゃんとした歴史研究者らしい著作です。過去に信じられていた俗説はほとんど事実に反するとしています。例えば戦国時代と比べると一次資料が少ない時代であり、「吾妻鏡」や「平家物語」に頼らざるを得ない部分が多いのですが、その吾妻鏡の記述について、これは信じられる、これは虚構だとする著者の判断は説得力があります。「吾妻鏡」にしろ「平家物語」にしろ、バイアスというか、意図を持って書かれています。
 著者は義経と頼朝の決裂は従来言われていたよりも後であるとしています。決定的な決裂は亡父義朝の落慶供養を鎌倉で行い義経を招いたが拒否されたことであるとしています。義経が挙兵後支持を得られず没落したのは、武士団のとって義経を支持する理由がないというのもありますが、武士社会の論理に反するというのはあったでしょう。

中公新書 坂井孝一著「承久の乱 真の「武士の世」を告げる大乱」
 源実朝は実権の無いお飾りの将軍、後鳥羽上皇は無謀な倒幕を試みて流されたというイメージがありますが、必ずしもそうではないというのが著者の主張です。承久の乱は倒幕ではなく、北条義時追討が目的であったとしており、それが倒幕とされたのは幕府側がすり替えたとしています。全般的には良いと思うのですが・・・・なんか読みにくいのですよね。すっと入ってこないというか。何故でしょうね。一つは、まあ、源実朝と後鳥羽上皇を過剰に高く評価しているように思えるから、でしょうか。

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千利休は切腹していない?

 朝日新書 中村修也著「千利休 切腹と晩年の真実 新史料を読み解き、実像に迫る。利休は切腹せず、晩年を九州で過ごした!」の感想です。前半は良いです。が、後半が(苦笑)。
 千利休といえば「わび茶」といわれますが、それは後世(江戸時代)の人間が作り上げた話であり、当時はそういう風にはいっていないし、わび茶でもないという説明がまず続きます。茶道はよくわかりませんが、納得出来る説明です。
 次に切腹したと確認出来る史料はないと主張します。切腹についてふれられている当時の史料は二つあります。
 まずは、「多聞院日記」。ただし、最初に腹切りしたと書かれていて、その後、高野山に上がったとも書かれています。当時の人が書いたものですが、「伝聞」です。なので、これを切腹するように言われたが、最終的には追放ですんだと解釈することは出来ます。
 もう一つが一般的には千利休が切腹したという根拠になっている「北野社家日記」。首を斬って、木像と共に磔にしたと書かれています。ただし、前田玄以と山口げんばからの伝聞だと書かれていますので、日記を書いた本人の目撃ではありません。
 著者は他の三つの史料を示し、いずれにも千利休の木像が磔になったとかかれているので、これは事実だろうとしています。このうち、伊達藩家臣が国元へ送った手紙では、木像が磔は前代未聞だと書かれています。しかし、三つとも千利休本人が切腹したり、磔になったとは書かれていません。その一方で逐電したと書かれています。
 ほぼ同時に奈良で、「売僧」が鬼の扮装をして強盗を働き、つかまって磔になったという記録が複数あることを指摘しています。千利休が秀吉の怒りをかった原因として茶道具を高値で売りつけていたというのがあり、この行いも「売僧」と呼ばれています。なので、奈良の「売僧」の磔と千利休事件が混同された可能性があるのではないかとしています。
 千利休が切腹した話はやっぱり江戸時代になっていろいろと盛られて伝えられているようです。余りに描写が詳しいのは逆に怪しい証拠でしょう。千利休は見事に切腹したと言いたいので書かれた文章に思えます。
 「わび茶」にせよ「切腹」にせよ。どうやらこれもまた江戸時代に話が作られて、それが事実だとして広まった可能性は高いように思います。
 問題はその後です。千利休が切腹せず、追放されただけだとして、その後どうなったか?著者は九州で暮らしたと主張しています。根拠は秀吉の手紙に二度「りきう」が登場することです。一つは大政所へ名護屋城に滞陣中に「りゆうの茶を飲んだ」と書いていること。従来は千利休が切腹しているという前提で、これは千利流の茶だと解釈されていたとしています。しかし、そもそも千利流の茶というものは当時確立されていないというのが著者の主張でそれは納得出来ます。もう一つは聚楽第の際の指示の手紙で「りきうのこのみ」という部分があることです。これもまた従来は千利休風という解釈がされていたが、そもそもそれは何だ?千利休が生きていて、文字通り千利休が好きなよう風に作れという指示ではないかというのが著者の主張です。どちらも相応に説得力があります。千利休が切腹したという事実がないのなら、そう解釈することも出来ます。ただ、明確に千利休が生きていたとするにはやや弱いです。
 問題はその後です。細川が千利休の嫡子・道安に隠居領を豊後高田で与えたという史料が残っているのですが、これは名目は息子だが実際は千利休本人に与えたものだとか黒田孝高が千利休を助けて九州でかくまったとかいう主張は根拠がありません。せっかく、それまで従来の主張は根拠があやふやだ、思い込みがあるから、そう解釈するのだと言っていたのに自分でも同じことをしてしまっています。まあ、ありがちですが、残念です。
 
 千利休は切腹しておらず、逐電したか、追放された可能性は十分あるように思います。逃げた可能性が高いかなという印象を受けます。なので、木像を代わりに磔にしたのでしょう。そしてそれは珍しいので複数の人が記録しています。その一方で千利休本人についてはそれらでは触れられていませんから、やはり、磔になったのは木像だけの可能性が高いとは思います。しかし、その後は不明としかいいようがありません。もし、秀吉が千利休を許して、復権していたら、そのことが他の史料に明確に残っているはずです。それがないのは、逃亡してそのままだった可能性が高いのではないでしょうか?

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外れも混じっていた(苦笑

 熊本で買った本シリーズ第三弾です。
幻冬社 荒木道信著 「蒙古襲来の新諸説」
の感想ですが・・・・外れでした。買う時にタイトルと帯しか見なくて、出版社を確認していませんでした。他のと同様のローカル系だと思い込んでました。帯には「帯に「勝因は「神風」ではなかった!? 九州地方の神社に伝わる古文書や水中遺跡をもとに蒙古軍撃退の謎を明らかにし真実の扉を開く!」」とあり、真実の扉が引っかかるものの面白そうだと思ったのですが・・・。

 まず、中身がばらばらの文章の列挙で、趣旨がいまいちよくわかりません。勝因とやらは明確にかかれていません。汲み取れたのは以下の2点
・文永の役で、蒙古軍は有明海に侵入し、干潟に兵を下ろし、その後満ちてきたので全滅した。
・蒙古に征服された高麗人や漢人(南宋)が日本が勝てるように手助けしてくれた。
です。前者は「あほか」としか言えません。仮に干潟を陸地を間違えて上陸してもずぶずぶだからすぐわかります。あなた肥後の人間の癖に干潟を見たことがないの?としか言えません。後者の内、高麗人がわざと有明海へ誘導したとありますが・・・。具体的な証拠は何もしめされていません。有明海に蒙古軍が侵入したと受け取れる文章が肥後の神社に残されているという程度です。
 ですが、それもどれだけ信頼できるか?後半に
・九州年号和水歴
・倭国(九州)王朝の公年号奴国
・神代文字で書かれた「上記」
などというのがあり、もう、アウトとしかいいようがありません(苦笑)。どっかの古墳を卑弥呼の陵墓と断定しているし(読み返すのも面倒でどこだったか確認していません)。私は邪馬台国は九州(恐らく北部九州)に存在した派ですが、卑弥呼の陵墓が特定されたとはまったく考えていません。そうでないか?とされるものはいくつかあるようですが(近畿の含めて)、天皇ですらきちんと特定されていないのが多いことを考えれば、仮に存在(現存)していたとしても、特定は不可能でしょう。それをさらっと卑弥呼の陵墓だと言い切るだけで、この本は、駄目です。ついでに言えば、邪馬台国は九州にあった国の一つにすぎず、後の大和朝廷(政権)とは直接関係ないと思っています。九州にあったクニの中で有力だったものの一つ、という程度でしょう。このクニは集落程度の規模にすぎなかったでしょうし。それが地理的に近いため、大陸と通交しており、たまたま記録に残っていて、なんとなく「やまと」に近い名前なので、当時の日本最大の国みたいに言われているだけではないかと思っています。
 話がそれました。更に個人的なとどめは、豊後宇佐八幡宮、豊後中津というのがあると書かれていること。豊後のどこかにも宇佐八幡宮があるんだ。分社かな?後者は旧中津江村かいな?・・・な訳ないだろうが!肥後の人間の癖に許さん!私は豊前人です!豊前の人間は豊後と一緒にされることは嫌うの!

#ついでにいうと、別の本ですが、日田を豊前と書いていた人がいたけど、あれもかなりやばい。日田は天領意識が強いしねえ。

 なお、 「水中遺跡をもとに」とあるのですが、少なくとも勝因に関する部分ではそのような文章はなく、水中で発見された蒙古の遺物があるというていどで、有明海で調査すれば、私がいうことが正しいことがわかるはずだ(沈んでいる蒙古の軍船があるはず)と書いているだけです。

 見た目よりも中身も薄いし、帰りの電車で読み終わりました。もう、大失敗。ちゃんと出版社と著者の略歴を確認してかわないと駄目だな。

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肥後国衆一揆

 熊本出版文化会館 荒木 栄司著「増補改訂 肥後国衆一揆 肥後戦国武将たちの最後の戦い」
 前回同様に九州旅行にいった時に熊本の書店で買った本の紹介です。

 同じ著者の本ですが、こちらは2012年と比較的新しいですが、これは増補改訂版で、元は1987年なのでこれまたかなり古い本です。 肥後国衆一揆は有名で、佐々成政の失政により一揆が勃発し、単独での鎮圧に失敗し、援軍を得てようやく鎮圧、佐々成政が責任を取らされて切腹して終結、とまあ、一般的な認識はそういうものでしょう。しかし、本書を読むと必ずしもそういう理解は正しくないと思いました。そもそも、これは「一揆」というのは不適切に思えます。
 一連の戦いの根本原因は国衆側と豊臣政権側の認識の違いにあったと言えそうです。豊臣軍が島津を打ち破った後、ほとんどの国衆は秀吉から安堵状をもらっています。ですので、佐々成政が肥後の領主になったとしても、従来の菊池、大友、島津などが佐々になっただけで、従来通りという認識でしたが、豊臣政権側は仮の安堵状で、正式には後日、検地をした上でそれぞれの石高などを確定するという認識でした。著者は豊臣政権の方針は中間支配層(国衆はこれ)を無くし、実際に耕作するは百姓から直接年貢を徴収することであったので、「国衆」は存続で出来なくなっていくとしていますが、それが一揆の直接の原因とはしていません。何故なら、国衆や百姓側にその認識はなかったと思われるからです。
 争いの原因は、簡単に言えば、秀吉から安堵状をもらっているのに佐々成政が検地だなんだというのは納得出来ない、ということです。現在なら裁判で・・・ということになる訳ですが、当時は簡単に武力・自力で解決ということになりえます。

 さて、「一揆」が不適切という思うと述べましたが、これは、「一揆」といえるように連帯していないからです。ほぼ、個々の国衆が別々に争っています。連携が見られたのは、益城郡の国衆中心の軍勢が隈本城を攻めた戦い位です。後は、縁者が援軍にいったという程度で、国衆が連帯して佐々に反抗したとは言えません。訴状や決議状のようなものを作成しての決起ではありません。契約、盟約もありません。ですから、これは「一揆」とはいいがたように思えます。

 序盤は兵力不足もあり、佐々側が苦戦しますが、増援を得て、個別撃破されていきます。個々には色々なエピソードが伝えられています。謀略裏切り、弁明にいこうとして謀殺などなど。落ち延びるものもいますが。

 佐々の後は、よく知られているように加藤清正と小西行長に分割されていますが、相良はそのまま領土を維持しています。肥後の国衆の中で相良だけは豊臣、徳川を通じて大名として存続していますね。また、小西行長が宇土城の普請を天草の国衆(肥後国衆一揆にはかわらなかった)に命じた際にも同じような戦いが起きています。天草の国衆も秀吉から安堵されているので従来通りという認識で、小西の与力なので、豊臣政権としての軍事行動では小西に従うが、城の普請は小西の私事なのでやらされる理由はないと応じなかったので、秀吉に指示をあおいだところ、「六ヶ敷ことを言う奴輩は殺してしまえ」と言われたので攻め滅ぼされてしまいます。

 全体的に見て、「秀吉が悪い」という印象を持ちます。そもそも最初の安堵状が説明不十分ですし、佐々成政も責任を押しつけられて自害させられています。天草にいたっては、秀吉から「普請の手伝いをせよ」と命じればなんの問題もなく片付いたことでしょう。

 なお、前回、甲斐宗立=親秀と甲斐親英は別人物としていると述べましたが、同じ著者ですが、本書では 親秀と親英を同一人物として扱っています。何か新しい史料が見つかってそう確認できたということでしょうか?全国国衆ガイドやWikiなどもその説を採用しているので、まあ、そういうことなのでしょうね。同じ人物が複数の名前を持つ(改名する)事例は多く、実名が混乱したり、取り違えられたり、別の人物と思われていたが実は同一人物だったということは過去いくらでも事例はありますので。主題ではないのでさらっと書かれているだけです。親秀=>鎮降=>親英という改名をした可能性もあるかもしれませんね。大友の支配から抜けたので「鎮」を捨てたかも。今後、新たな史料が見つかって、実は別人物でした、ということがあるかもしれません。個人的には親直(宗運)=> 親秀(宗立)=>親英と家督相続されたという仮説が正しいといいなあと思いますが(あくまで私の思いです)。

 それから、天草での戦いの中で加藤清正が木山弾正と一騎打ちをして、組み伏せられて首を取られかけた時に木山弾正の家来がやってきて、助けようと声をかけたら、木山弾正はぱっと言葉が出ず、加藤清正が「俺は下だ」と言ったので、木山弾正が殺されたという伝承があるそうです。事実はどうかはわかりませんが、興味深い話です。もし、これが事実で、この時、加藤清正が討ち取られていたら歴史は変わったでしょうか?まあ、多分、これは創作でしょうが。ただ、加藤清正というと武勇で有名ではありますが、実績を客観的に見ると朝鮮出兵の時位ですよね。後は肥後、天草の国衆との戦いと関が原位。これらは強力な敵と戦ったとは言えません。加藤清正は武勇優れるというのはイメージに過ぎないかも?とふと思いました。

 一連の戦いの記述が本書に占める割合は余りなく、3割位が資料集です。関連資料も記載されていますが、秀吉の「六ヶ敷ことを言う奴輩は殺してしまえ」という指示の史料は残念ながらありませんでした。「むつかしき」を「六ヶ敷」と書いているので秀吉の書状っぽいのですが。

 これも一部誤記や混乱らしいのもありますが、肥後国衆一揆について詳細に書かれた本は見たことがないので貴重な本だと思います。

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甲斐宗運を知っているか?

 熊本出版文化会館 肥後戦国史双書 荒木 栄司著「甲斐党戦記」
 九州旅行にいった時に熊本の書店で買った本の紹介です。一部記述の混乱や誤記らしい部分もありますが、良書だと思います。

 

 甲斐宗運という戦国時代の武将をご存知でしょうか?全国的にはほとんど知られていないと思いますが、あるゲームのファンなら、ああ、肥後の有力武将と思い出すかもしれません。Wikiにページがちゃんとありますし、ぐぐれは他にもヒットするので国衆レベルの武将としてはまあ知名度が高い方といえるでしょう。

 

 この本は甲斐宗運ではなく、甲斐一族について書かれた本ですが、残っている史料の関係で甲斐宗運が主人公になってしまっています。なお、Wikiの記述と異なっている部分もありますが、どちらが正しいのかは私には判断出来ません。初版が1989年と古いので、その後、新しい史料が見つかっており、Wikiの方が高いかもしれませんが。

 

  甲斐氏は日向の土持及び三田井氏の領域で勢力を広げ、その後、肥後の阿蘇氏の家臣になるものが出て、その中で有力な系統が二人あり、一つは御船近辺に領土を得た系統、もう一つが隈庄近辺に領土を得た系統です。同じ一族でどちらも阿蘇氏の家臣といいながら、この二つの系列はお互いにしばしば争っています。甲斐宗運は御船系です。宗運じゃ出家後の名前で、当初は親直と名乗っていたようです。親直の父親宣の時代には阿蘇氏の有力家臣になっていたようです。御船に領土を得たのは親宣の時代という説もあるようですが、確定したのは親直の代からのようです。隈庄系も同様に敦昌からで、敦昌と親宣は従兄弟同士です。

 

 甲斐氏は甲斐から日向にやってきて甲斐氏を名乗ったようですが、元々は菊池氏だという伝承があるようです。菊池武房の死後、家督を長男の隆盛の子時降と隆盛の弟である武本が争い、斬り合いになりどちらも命を落とし、武本の子武村が甲斐へ移住し、その子孫が南北朝期に日向へ移り住んだとされています。ただ、明確にそれを示し史料はなく、まあ、ありがちな粉飾のような気がします。阿蘇氏の家臣になり、肥後へ進出した頃に元々は肥後の菊池氏の子孫だと主張した、というのはありそうな話です。

 

 宗運の時代のその菊池氏は弱体化し、最後は大友から送り込まれた人物が家督を継ぎますが、後、大友本家と対立し、追い出されます。阿蘇氏も内紛があり、それらの過程で甲斐氏は活躍し、所領を増やしていきます。阿蘇氏は大友に属し、宗運も義鎮から「鎮」を賜り、 親直から鎮直に改名し、長男も親秀から鎮降に改名したと著者はしています。出家後の宗運ももちろん、大友宗麟の「宗」で、長男も出家後は宗立を名乗っています。
 大友の弱体後、北から龍造寺、南から島津が侵攻してきて奪い合いになり、龍造寺に起請文を出しているのですが、その一方で島津に属していた時期もあります。相対的には阿蘇氏そのものが小勢力に過ぎませんから、阿蘇氏や甲斐氏存続のために宗運は奔走したようです。島津に降った際には条件に阿蘇氏の奪われた所領を返してくれとか、引き伸ばしとしか思えないようなこともやっており、また、武略(この場合、謀略)に優れた武将と当時の人に評価されており、真田昌幸を連想します。
 ただ、甲斐氏は一枚岩ではなく、前述の通り、隈庄との争いもあり、宗運の子でも離反するものもあり、二男、三男、四男の3人まとめて粛清したと思われる話も伝わっています。
 島津が龍造寺と激しく争っているさなか、宗運は死去します。正確な年齢はわかりませんが、70歳代だったと見られます。
当然長男の親秀(鎮降=宗立)が跡を継ぐですが、武将としては能力が低かった人物とされており、同族と思われる甲斐兵庫頭(実名不明)との連立体制になったそうです。兵庫頭は宗運の弟かもしれませんが、伝わっている系図には登場しない人物なので不明です。小西時代に岩尾城に甲斐兵庫頭秋政という人物がいたという伝承はあるそうです。宗運の死後、島津方の花山城を甲斐氏が攻め、肥後の史料では甲斐相模守親秀、豊後では甲斐刑部大輔鎮降、島津では甲斐相模守が率いたとしています。
 肥後で鎮降という名前が史料に出てこないのは、父親の鎮直も含めて地元では使っていなかったか、改名後、すぐに出家してしまい、広まらなかったのかもしれません。

 

 その後、島津は龍造寺に打ち勝ち、九州統一寸前までいきますが、ご存知の通り、秀吉に屈します。その過程で甲斐氏は没落します。最終的には肥後の甲斐氏は佐々氏がやってきた後の肥後国衆一揆に加わり、親秀が死にます。なお、親秀とほぼ同世代と思われる阿蘇氏家宰、甲斐大和守親英という人物がいて史料に名前が残っていますが、これも系図に登場しないため宗運の系統なのか、それとも隈庄の敦昌の系統なのか、それとも更に別の系統なのかは不明です。Wikiでは、親英を宗運の長男としています。この本を読んだ限りでは親英と親秀は別人物に思えます。親英という名前からすると親直系統の人物に思えますので、親直の息子で、親秀の弟かもしれませんし、もしかすると親秀の息子かもしれません。宗運が70歳代で死去したとするとその長男は60歳前後でもおかしくありませんし、50歳代と考えるのが自然です。若くても40歳代でしょう。また、父と一緒に出家したとされていることを考えれば、その際に御船甲斐氏の名目上の家督は親秀の息子に譲っていた可能性はあります。そうすると阿蘇氏家宰と書かれていることから、親英は御船甲斐氏家督であってもおかしくはありません。素人の勝手な推測ですが。「全国国衆ガイド」には宗運の後、親英が家督を継いだとされています。つじつまが合う解釈は、宗運=>親秀=>親英でしょう。

 

 なお、日向に残っていた甲斐宗摂が秀吉の仕置きによりやってきた高橋元種に属して地位をたもっていましたが、朝鮮出兵期に謀殺されています。なお、宗摂は名前からして出家名でしょう。そうすると、宗運、宗立と同様に宗麟が出家した際に一緒に出家したものと思われます。宗摂について記述が混乱しており、和泉守、長門守を称しいたとうのは同じですが、本文の150ページでは、宗運や親昌の父親達の弟である誠運が長門守を称していたのでその系列ではないかと書いておきつつ、巻末では、敦昌の弟誠昌が長門守を称していたことから、誠昌の系統と思えるも書いています。二種類の系図があるのかもしれませんが。いずれにしても実名不明ですからわかりません。

 

 なお、宗運には毒殺せずがあります。親秀の妻がその父親(黒仁田豊後守)が離反し宗運に討たれたため、娘=宗運の孫に命じて毒殺させたという話です。一次史料では確認出来ない話ですが、状況的にはあり得なくもないと言えます。ただ、高齢になってから毒殺というのは不自然で、急死したので毒殺説が後に流布されたのではないかと個人的には思います。

 

 甲斐氏はその主家の阿蘇氏そのものが国衆レベル(戦国大名に分類する人もいますが、肥後の統一は果たしていない。阿蘇氏と争った相良氏は「大名」として生き残ってはいるけれど、戦国期には国衆に分類すべきでしょう)なので、それを考えれば、史料が残っている方でしょう。であるが故にゲームにも登場した(出来た)のだと思います。

 

 地元の本屋に立ち寄った際に地元の歴史本コーナーがあり、そこで選んで買ったのですが、昔、あのゲームをやっていた時代を思い出しました。実に懐かしい。ああ、あのゲームとは、それはシステムソフトの天下統一シリーズです。プレイした時間で言えば、大戦略シリーズと双璧。天下統一シリーズと比べると信長の野望シリーズはお子様向け(失礼)。いやあ、久しぶりにやりたくなったなあ。でも、動くかな、98(苦笑)。Win版を買ったような記憶もあるけれど。

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最近読んだ本

新潮選書 池内恵著 「【中東大混乱を解く】シーア派とスンニ派」
 少し前の本ですが、良作、お勧めです。中東のぐちゃぐちゃがよくわかります。ああ、よくわかるといっても、紛争・混乱の原因はこれだ!とすぱっとわかるという意味ではありません。「ぐちゃぐちゃ」であることがよく理解出来るという意味です。
 原因は宗派対立か否かとかかげて、結局、YesでありNoでもあると著者はしています。教義の違いというよりも、宗派を中心とした集団同士の対立であると説きます。また、シーア派は一般的には少数派とされますが、中東に限ればそうではないとしています。
 イラクでは民主主義が結果的に相対的に少数派であるスンニ派に不満を抱かせ、紛争を激化させたとしつつも、アメリカのやり方にも原因があるとしています。レバノンの宗派に配慮した独特の民主主義を説明し、その限界・崩壊も説明しています。
 著者は現状を、「まだらな状の秩序」ということを試みとして提唱していますが、言いえて妙でしょう。また、拒否権パワーが大きくなり、関係する大国・地域大国が、自分の譲れない分野だけで拒否権を行使するのでいつまでたっても紛争が解消しないとしています。

 素人(失礼)の変な本も多いですが、これはその筋の専門家による優れた著者です。厚さもたいしたことないですし、ぎりぎり通勤電車でも読めます。某有名ジャーナリストの本など読むよりこれを読みましょう。ただ、スパッと求めている回答は得られません。何故なら、実際にそういうものは存在しないからです。そういう原因を一言で表して欲しい人には向かないでしょう。でも、そんなもの、ほとんどの場合、ありませんよ?

光人社NF文庫 森史朗著「空母瑞鶴戦史[ソロモン攻防篇]ソロモン海の戦闘旗」
 読むのが辛いです。古い本という訳ではないのですが、古いスタイル。文中の会話が証言によるものか、著者の創作想像なのかの区別がつきません。印象からするとほとんどが著者の創作だと思えます。内容そのものが古いとか必ずしも思いません。山本連合艦隊司令長官(当時)への批判はありますし。ただ、南雲長官(当時)を無能と印象付ける描写が余りに多いのには気分がよくありません。問題点は確かにありますが、それだけではありませんし、主な責任は他にあることも多いです。ところで高木提督をわりと評価しているように思えるのは新鮮でした。へー、著者はそう思うんだ。

光人社NF文庫 鈴木五郎著 「ドイツ空軍の最強ファイター フォッケウルフ戦闘機」
 元々が昭和54年のサンケイ出版社刊「フォッケウルフ戦闘機」に加筆、訂正し、2006年に出た単行本の文庫版。元が古いので、これも、正直、読むのは辛いです・・・。通勤時読書用にとりあえず買ってみましたが・・・。オリジナルはどこかで埋もれているかも?なお、なんとなく、フォッケウルス=川西っぽいと思いました。

光人社NF文庫 白石良著 「特攻隊長のアルバム B29に体当たりせよ!「と龍」制空隊の記録」
 空対空特攻要員(五三戦隊 震天制空隊)になりながら生き残った人が残したアルバムと日記を元にした本。屠龍では、B29の迎撃どころか体当たりすら困難というのがよくわかります。震天制空隊は11人中8人戦死、うち体当たりは3人です。まあ、それでも高高度でなければ撃墜した人がいるんですから、凄いです。
 途中で効果がないと判断されて、特攻は取りやめになり、その後、教官になって終戦を迎えます。著者が実戦に参加して生き残った熟練搭乗員(空中勤務者)は貴重だったと書いているのですが・・・キャリアは一年半程度で、開戦前なら、ジャクに過ぎない人です。それが昭和20年になるともはや熟練搭乗員扱いされるのですから、戦争には勝てませんね。

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最近読んだ本

 久しぶりの読書感想文(短)です。

橋場日月著、祥伝社新書 「明智光秀 残虐と謀略 一級史料で読み解く」
 悪くはないです。問題提起としては良いと思います。しかし、一級史料で読み解くとしつつも、解釈・結論に著者の主観が入り過ぎています。まあ、こういう言い方はしたくないですが、その辺が作家と研究者の違いかなあと感じます。

美川圭著 中公新書 「公卿会議 論戦する宮廷貴族たち」
 まったくしらない分野。イメージと全然違いますね。無駄とも思える手順を踏んでいることもありますが、思ったよりも、機能しています。面白かったです。

井上寿一 講談社現代新書 「機密費外交 なぜ日中戦争は避けられなかったのか」
 皮肉なことに全てでははないですが、戦前の外交機密費の領収書が残っており、それを元にした本です。官官接待ばかりしています(苦笑)。外務省内部でも方針の違いが色々とあることが分かります。とても面白い本でした。

黒田基樹 洋泉社 歴史新書 「北条氏康の家臣団 戦国「関東王国」を支えた一門・家老たち」
 ある意味、北条は織田・豊臣系よりも整った制度をもっていたと言えますね。でも、進んだ制度を持っているから勝ち残れるとは限りません。元々私は北条びいきなのですが、改めて評価しました。ちょっとだけ流れが変わったら生き残れたんじゃないかなあ。

前野孝則 新潮文庫 「ホンダジェット 開発リーダーが語る30年の全軌跡」
 正直、ホンダジェットには今まで興味がほとんどありませんでした。ホンダという会社の製品とはいえ、USで開発製造されているものです。ホンダにしてもトヨタにしてももはやグローバルな企業ですから、日本と関係なく開発製造される製品があるのは当然ですし、そうあるべきです。ただ、それをなんか国産みたいにマスコミが取り上げていたりしたので。それとこの手の飛行機には元々余り興味もありません。
 しかし、日本人の抜きではホンダジェットは成立しなかったであろうことを理解しました。ホンダでなければこれは無理でしょう。実にホンダらしいです。ただ、そのホンダらしさは過去のものであり、現在のホンダから失われているように思えます。

佐藤暢彦著 光人社NF文庫 「海軍陸上攻撃機の誕生から終焉まで 一式陸攻戦史」
 ありそうで余りない一式陸攻本。個々の内容のほとんどは既知ですが、知らなかったのが航空機雷。結果的には失敗作だったようですが、日本にもあったんですね。これ、もう少し早期にもっと有用なのが開発できていたら・・・それが出来るなら戦争には負けないか(苦笑)。しかし、雷撃の方が容易といわれる航空機雷って。(^^;

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最近読んだ本

 最近読んだ本の中から紹介したものの感想を述べます。

洋泉社 歴史新書 石村智、谷口栄 蒲生眞紗雄  「海の日本史 江戸湾」
 地形が変わっているというのを頭においておかないととんでもない勘違いをしてしまいます。江戸湾というか、江戸そのものも埋め立て、川の付け替えなどで頻繁に姿をかえていることがわかります。歴史書ではありますが、地形の変化に軸をおいているのは面白いです。
 家康が入府した段階で江戸は片田舎だったとされていることも多いですが、必ずしもそうではないことも述べています。ただ、その段階では海はずっと奥まで入り込んでいたのですね。東京は海抜0m地帯などとも言われるように低い場所が多いですが、それらの過半は当時は海か湿地。江戸が発展するにしたがってどんどん埋め立てられていますね。

講談社現代新書 山内 譲著 海賊の日本史
 別著者の主に西洋の海賊についての本を読みましたが、これは日本の海賊についての本です。狭義の意味でというか、「海賊」を厳密に用いており、資料上「海賊」と呼ばれた場合のみ「海賊」とするという立場です。
 その上で、日本の海賊をいくつかの分類しているのですが、個人的には同じではないかとも思います。時代により変質した部分はあるとは思いますが、同じ流れに属しているように思います。単なる、海の強盗、ではないというのが私の理解です。大小はあり、次第に大きな勢力に統合され、それは最終的には大名の家臣や大名になっていきますが。
 所謂「海賊」行為を行っていなかったのは海賊と呼ぶべきではないとしていますが、その一方で、東国と西国で「海賊」のニュアンスが異なり、東国では海賊=水軍に等しいとも書いています。そして、昔の資料に海賊行為をしない勢力を海賊と呼ぶべきではないという人に対して、ではなんと呼べばよいのかと聞いたら答えられなかったという話があるのを紹介しています。また、「水軍」は江戸時代に出来た言葉である、戦国以前にはなかったとしています。
 それも踏まえて個人的には。海上戦力(勢力というべきかも)全般を広義の海賊、通行料や警固料を取るなど、日本における一般的な「海賊行為」を行った勢力を狭義の海賊と呼べばよいのではないかと思います。

中公新書 比佐 篤著 「貨幣が語る ローマ帝国史 権力と図像の千年」
 専門外なので世界史の教科書レベル以下の知識しかないのですが、とても興味深いです。色々なコインがあるのですね。それも権力者が自分の好む絵柄にしているという訳では無く、比較的格の低い発行責任者が好きにしていることが多いと。面白いです。自分の家を顕彰してみたり、時の権力者をよいしょしてみたり。コインだけでローマ帝国史が語れるほどの種類があるのも!面白い!
 しかし、この頃、日本は弥生時代・・・なんというか、悲しいというか・・・・悔しいというか・・・・。

中公新書 梶谷 懐著 「中国経済講義 統計の信頼性から成長のゆくえまで」
 良書だと思います。中国物は偏りがどれも多いように思いますが、これは客観的な視点で中国経済の現状、問題点、今後について述べられています。
 統計の信頼性は怪しいが、言われているほど酷いものではないようです。

 中国内の格差は広がっているというイメージを持っていますが、実は2005年頃がピークでその後は格差は縮まっているようです。これは先行して発展してきた地域に他の地域が追いついてきたからのようです。ただし、格差そのものがやはりまだ地域により大きいようですが。

 中国もユーロ圏の罠にはまりつつありようです。先進地域が独仏のような国、遅れている地域がギリシャなどのような国に該当。違いはEUと違って離脱出来ないこと。

 戸籍問題(農民と都市民)は簡単に解決しないことも示されています。単に廃止すれば良いという訳ではないようです。また、都市部で受け入れられるようになりつつありますが、その条件が都市の規模により異なり、大都市民になるのはハードが高すぎて結局、農民のままということも多いようです。その農民にもメリットがあるので、それを捨てずに出稼ぎを続けることも多いようです。

 内容を紹介していると切りがないので、とにかく読んで下さい。

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驚異の集団

 また、台風ですね。秋だから仕方ないですが、週末、雨が多いなあ。

 さて、集英社新書 佐藤賢一著 「テンプル騎士団」の感想です。

 帯に「知っているようで知らない」と書かれていますが、まさにその通り。十字軍の時代に誕生した騎士団の一つでイスラム教徒との戦いで活躍、という程度しか知りませんでした。が、読んでびっくり。単なる狂信者(失礼)の集団ではなかったのですね。
・明確な指揮命令系統を有する常備軍
・統一された装備・軍装
・明確な階級(役付き、騎士、従士、トルコ式歩兵)
とまあ、これだけでも、当時の軍隊(封建軍)とはまったく違い、言わば、極めて近代的な組織です。貴族でない場合は、騎士にはなれず、従士にしかなれないのですが、その場合でも能力と働きによって、旗手、トルコ式兵長、軍務長補になれ、例外的なものではありますが、アッコンの支部長への道も開かれていました。試験などによる選抜ではなく、身分=生まれによるものなのは前近代的ではありますが、士官と下士官兵の区別とほぼ同じです。兵として入隊しても准士官までは出世できます。
 更に
・強固で広範囲に設けられた管区や支部という組織
・強固な経営地盤:寄進された土地へ権利だけではなく、商売でも稼ぐ
・強力な兵站組織:西方から前線である東方へ物資、人員、資金を輸送
ととても12-14世紀の組織とは思えません。戦いためにではありますが、とにかくお金を稼いでいます。そのために街道まで整備しています。更に巡礼の人々を便乗させ、当然お金をもらっています。
 更に驚くべきは
・世界初の近代的銀行!?
・諸侯の財務管理代行
 です。戦うために資金がいるので稼いで、そのお金を送るために工夫しているうちに他人からも預かるようになり、貸付や送金まで。貸付は建前としては利息は取れませんが、手数料名目で、ある事例では二割ほどとったとか。日本と比べると良心的な金利ですね。
 そして、テンプル騎士団の支部にお金が蓄えられており、例えば、パリでお金を預けた後、それを東方で引き出すことが手形だけで出来るようになっています。また、東方でお金を借りて、西方で返すことも。何せ、各地に支部があり、それは城郭であり二線級かもしれませんが、騎士・兵士がいて安全です。
 手数料は取られますが、テンプル騎士団に預ければ安全でかつ便利となれば皆が利用します。諸侯(フランス王やイギリス王なども含めて)までお金を預ける始末。更には管理まで委託しています。

 なんなんですか、この組織は?そんな組織だったと高校の世界史の教科書には書いていた記憶がまったくないのですが・・・・・。

 しかし、余りにスーパーすぎて、フランス王フィリップ4世により、つぶされてしまい200年程度で歴史を閉じます。まあ、ねえ、戦力・経済力含めて、当時欧州最強集団ですからねえ。王としては目障りでしょう。まあ、異端をでっち上げて一斉検挙したフィリップ4世の手腕もほめるべきでしょうが。
 拷問で嘘の自白をさせたのもえげつないです。いや、それそのものはいつの時代でもあるのですが、後になって、強要され嘘の自白をしたのですというと、罪が重くなるというのが(苦笑)。異端審問では異端の事実を認め、悔い改めれば、「和解した物」として罪は軽くなり、悔い改めないと終身刑。が、もし、一度、悔い改めたのに前言撤回して、異端に戻れば、最堕落として死刑、火あぶり決定。それも念頭においての自白強要だったのでしょうね。

 無論、テンプル騎士団側にも問題はありました。十字軍は終了し、東方もイスラムに奪われ、戦いはほぼ終わっていましたから、テンプル騎士団本来の存在意義は失われていました。民衆も含めて皆に嫌われてきていました。そうでなければ、フィリップ4世もつぶせなかったことでしょう。
 とはいえ、存続していたらどうなったんだろうと思わざるを得ません。私はこの頃の欧州が必ずしも先進的地域だったとは思いませんが(中国の方が進んでいた面は多々あると思う)、テンプル騎士団は異常な位先進的です。

 ただし、元々が狂信者(失礼)の集団ではあります。それ故、戦争では強かった(恐れずに戦う)ものの、無茶な突撃で大損害をこうむったことも多々あります(総長以下、戦死・全滅・捕虜になるなどなど)。

 それにしても最初は信仰心で東方へいった騎士が始めた小さな集団が何故これほど近代的かつ強力な集団になれたのでしょう?経済基盤は寄進によるものではありますが、この当時にあれだけの組織・仕組みを考えて実現することが出来たのは何故なのでしょう?それはこの本では説明されていません。滅ぼされて、資料(文書)が廃棄されたというもあるのでしょうが・・・。それを知りたい、そう思いました。

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