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10/5/19’:桶狭間の戦い 新迂回奇襲説:その2:今川が撤退するとしたら?

 著者が主張するように今川は撤退中に攻撃を受けて負けた可能性はあるでしょうか?撤退が予定通りとはとても考えられません。しかし、何か別の理由で撤退を余儀なくされた可能性はあるでしょうか?元々は鳴海城の付け城も排除する計画だったのが、予定外の状況が生じ、止む無く撤退を開始したとすればつじつまはあいます。前衛が佐々らを打ち破り、義元が謡をうたった後でに緊急事態が生じ、急遽撤退を開始、信長がそこに攻撃をかけて、豪雨もあり、混乱する中、義元が討ち取られた、これならありえるでしょう。
 では、緊急事態とは何でしょうか?史料にはそれらしいことをうかがわせるものはありません。そのようなことは無かった可能性は高いです。しかし、史料に残っていないもののあった可能性を考えてみると・・・一つ思い当たりました。

 ポイントは刈谷城(面倒なので表記は現代のまま)です。岡部元信は鳴海城を開城し、駿河へ戻る途中で刈谷城を攻めたといわれています。落城云々は別にしても刈谷城を攻めて、城方に被害が出たというのは信じられそうです。では、何故、ここを攻めたのか?帰路にあった敵方だったから?当時の道が私にははっきりとわかりませんが、帰路にあるとは言えません。なので、敢えて、ここへ向かい、攻めていると思われます。

 刈谷城は水野氏の城です。「水野氏」といっても、元々は一枚岩ではないでしょうが、一般的には、当時は織田方だったとされています。 しかし、今川が大高城と鳴海城救援作戦を開始する際に、水野氏が少なくとも中立を保つように交渉した可能性はあると思います。知立から沓掛という経路から刈谷は離れてはいますが、側面には違いありません。ここが敵方であるとすれば、何らかの手当ては必要です。
 もう一つ。何故、大高城へ兵糧を運び込む際に先に、鷲津砦と丸根砦を排除しなかったのでしょうか?逆に何故織田側は妨害しなかったのでしょうか?丸根砦を攻撃ぜずに大高道を通過出来るのでしょうか?一つの回答は、大高道を通らず、知多半島側(南側)に迂回して入った、ではないでしょうか?水野氏が敵対していなければ可能でしょう。 p54の図にも大高城南側に二つの砦が描かれていますが、これが本当に実在したのかよくわかりませんが、少なくとも戦闘は起きていないようです。そうすると、当時、そこには無人だったかまたは敵対していなかったと思われます。ですから、 鷲津砦と丸根砦のみを攻撃したと考えられます。

 水野氏とは松平氏を介して関係がありますから、交渉は可能でしょうし、水野氏にしても大事なのは知多半島を中心とする自領の維持です。織田についたり、今川についたりしても不思議ありません。織田についたのは今川に攻められたためでしょう。ですから、織田不利、今川有利と見れば、今川の誘いに乗ると思われます。
 
 しかし、その後、刈谷の水野氏が再度調略され織田についたとしたら?その知らせが義元に届いたとしたら?刈谷から後方を脅かされます。大高城からも松平勢らをそのまま鳴海方面へ押し出すことも出来なくなります。鳴海城への補給は海路可能であったとすれば、最低限度の作戦目的は達成したので、作戦を打ち切って撤退することはあります。いや、単なる撤退ではなく、刈谷攻めに向かうこともありえるでしょう。

 もし、岡部元信がこれを知っていたまたは開場後に知らされたとしたら?帰路に刈谷城を攻めるのは極めて自然です。刈谷の裏切りで作戦は失敗し、義元は討たれ、鳴海城も放棄せざるを得なくなったのですから。私が岡部元信でも、怒りで何か仕返ししないと我慢できません。
 
 水野氏が今川についたことをうかがわせる話はいくつかあります。三河物語にも信元が松平と連絡をとっていたとする記述もありますし、刈谷の信近が今川についていたとされる話もあるようです。織田が勝ったので建前的には刈谷だけが一度今川についたと主張し続けるかもしれません。幸い?信近は岡部元信に討たれたとされていますので、死人に口無しです。

 明確な証拠はありませんが、味方・・・少なくとも敵ではないはずの水野氏が再び敵になったと情報が入れば、退路を絶たれる恐れがありますから、作戦中止し、急遽引き上げるということは考えられます。もし、著者の言うように今川が撤退中に攻撃を受けたのであるとすれば、このような状況だったのではないかとも思います。

 他に何かあるか?思いつくのは義元の急な体調悪化です。信玄や謙信のように突然倒れたら?そうしたら今川は撤退する他ないでしょう。その場合、敵方に漏れると大変ですから、味方に対しても、「義元が倒れたから作戦中止します」と通知することなく、とりあえず急いで撤退すると思います。大高方面にはとりあえず大高城に戻って次の連絡を待てと知らせるだけで良いでしょう。もしかすると急死していた可能性すらあります。真相を知っている武将らは織田に討ち取られているので、もはやわかりません。義元の首をとった織田の武将にしても寝ていた義元の首をとったとは言わずに戦って討ち取ったと虚偽の報告をしたかもしれません。真相を知りえる人数はそう多くありません。敵の大将の首を取るなどという大手柄は滅多にありません。だったら、臥せっていようが既に死んでいようが気にせず、討ち取ったと報告してしまうでしょう。

 想像たくましく言えば、織田の謀略も考えられます。具体的な手段は別にして、偽の謀反の知らせを義元へ届ければ撤退する可能性はあります。どこまで引くかは別にして、真偽を確かめるまで、織田とのこれ以上の戦闘は避けるべきでしょう。配下の武将でも良いですし、武田でも良いです。完全に信じなくても良いのです。リスクがあると判断してくれれば十分です。

更に言えば、本当に松平が今川と手切れして、織田についた、という可能性もゼロではないでしょう。神君家康公がそんなことをした・・・なんて記録に残せるはずがありません。証拠は隠滅されるでしょう。まあ、ただ、織田と同盟を正式に結ぶまで、八百長をやり続けたことになってしまいますが、さすがにそれは長すぎるかな??

 まあ、なんにしても、タイムマシンか何かが開発されないと確かめようはありません。今後、新史料が発掘される可能性は低いと思われますし。

 その3に続きます(少し後で)。

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