« ASM-3はやはり生き残れず | トップページ | 哨戒艦の記事 »

千利休は切腹していない?

 朝日新書 中村修也著「千利休 切腹と晩年の真実 新史料を読み解き、実像に迫る。利休は切腹せず、晩年を九州で過ごした!」の感想です。前半は良いです。が、後半が(苦笑)。
 千利休といえば「わび茶」といわれますが、それは後世(江戸時代)の人間が作り上げた話であり、当時はそういう風にはいっていないし、わび茶でもないという説明がまず続きます。茶道はよくわかりませんが、納得出来る説明です。
 次に切腹したと確認出来る史料はないと主張します。切腹についてふれられている当時の史料は二つあります。
 まずは、「多聞院日記」。ただし、最初に腹切りしたと書かれていて、その後、高野山に上がったとも書かれています。当時の人が書いたものですが、「伝聞」です。なので、これを切腹するように言われたが、最終的には追放ですんだと解釈することは出来ます。
 もう一つが一般的には千利休が切腹したという根拠になっている「北野社家日記」。首を斬って、木像と共に磔にしたと書かれています。ただし、前田玄以と山口げんばからの伝聞だと書かれていますので、日記を書いた本人の目撃ではありません。
 著者は他の三つの史料を示し、いずれにも千利休の木像が磔になったとかかれているので、これは事実だろうとしています。このうち、伊達藩家臣が国元へ送った手紙では、木像が磔は前代未聞だと書かれています。しかし、三つとも千利休本人が切腹したり、磔になったとは書かれていません。その一方で逐電したと書かれています。
 ほぼ同時に奈良で、「売僧」が鬼の扮装をして強盗を働き、つかまって磔になったという記録が複数あることを指摘しています。千利休が秀吉の怒りをかった原因として茶道具を高値で売りつけていたというのがあり、この行いも「売僧」と呼ばれています。なので、奈良の「売僧」の磔と千利休事件が混同された可能性があるのではないかとしています。
 千利休が切腹した話はやっぱり江戸時代になっていろいろと盛られて伝えられているようです。余りに描写が詳しいのは逆に怪しい証拠でしょう。千利休は見事に切腹したと言いたいので書かれた文章に思えます。
 「わび茶」にせよ「切腹」にせよ。どうやらこれもまた江戸時代に話が作られて、それが事実だとして広まった可能性は高いように思います。
 問題はその後です。千利休が切腹せず、追放されただけだとして、その後どうなったか?著者は九州で暮らしたと主張しています。根拠は秀吉の手紙に二度「りきう」が登場することです。一つは大政所へ名護屋城に滞陣中に「りゆうの茶を飲んだ」と書いていること。従来は千利休が切腹しているという前提で、これは千利流の茶だと解釈されていたとしています。しかし、そもそも千利流の茶というものは当時確立されていないというのが著者の主張でそれは納得出来ます。もう一つは聚楽第の際の指示の手紙で「りきうのこのみ」という部分があることです。これもまた従来は千利休風という解釈がされていたが、そもそもそれは何だ?千利休が生きていて、文字通り千利休が好きなよう風に作れという指示ではないかというのが著者の主張です。どちらも相応に説得力があります。千利休が切腹したという事実がないのなら、そう解釈することも出来ます。ただ、明確に千利休が生きていたとするにはやや弱いです。
 問題はその後です。細川が千利休の嫡子・道安に隠居領を豊後高田で与えたという史料が残っているのですが、これは名目は息子だが実際は千利休本人に与えたものだとか黒田孝高が千利休を助けて九州でかくまったとかいう主張は根拠がありません。せっかく、それまで従来の主張は根拠があやふやだ、思い込みがあるから、そう解釈するのだと言っていたのに自分でも同じことをしてしまっています。まあ、ありがちですが、残念です。
 
 千利休は切腹しておらず、逐電したか、追放された可能性は十分あるように思います。逃げた可能性が高いかなという印象を受けます。なので、木像を代わりに磔にしたのでしょう。そしてそれは珍しいので複数の人が記録しています。その一方で千利休本人についてはそれらでは触れられていませんから、やはり、磔になったのは木像だけの可能性が高いとは思います。しかし、その後は不明としかいいようがありません。もし、秀吉が千利休を許して、復権していたら、そのことが他の史料に明確に残っているはずです。それがないのは、逃亡してそのままだった可能性が高いのではないでしょうか?

|

« ASM-3はやはり生き残れず | トップページ | 哨戒艦の記事 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« ASM-3はやはり生き残れず | トップページ | 哨戒艦の記事 »