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甲斐宗運を知っているか?

 熊本出版文化会館 肥後戦国史双書 荒木 栄司著「甲斐党戦記」
 九州旅行にいった時に熊本の書店で買った本の紹介です。一部記述の混乱や誤記らしい部分もありますが、良書だと思います。

 

 甲斐宗運という戦国時代の武将をご存知でしょうか?全国的にはほとんど知られていないと思いますが、あるゲームのファンなら、ああ、肥後の有力武将と思い出すかもしれません。Wikiにページがちゃんとありますし、ぐぐれは他にもヒットするので国衆レベルの武将としてはまあ知名度が高い方といえるでしょう。

 

 この本は甲斐宗運ではなく、甲斐一族について書かれた本ですが、残っている史料の関係で甲斐宗運が主人公になってしまっています。なお、Wikiの記述と異なっている部分もありますが、どちらが正しいのかは私には判断出来ません。初版が1989年と古いので、その後、新しい史料が見つかっており、Wikiの方が高いかもしれませんが。

 

  甲斐氏は日向の土持及び三田井氏の領域で勢力を広げ、その後、肥後の阿蘇氏の家臣になるものが出て、その中で有力な系統が二人あり、一つは御船近辺に領土を得た系統、もう一つが隈庄近辺に領土を得た系統です。同じ一族でどちらも阿蘇氏の家臣といいながら、この二つの系列はお互いにしばしば争っています。甲斐宗運は御船系です。宗運じゃ出家後の名前で、当初は親直と名乗っていたようです。親直の父親宣の時代には阿蘇氏の有力家臣になっていたようです。御船に領土を得たのは親宣の時代という説もあるようですが、確定したのは親直の代からのようです。隈庄系も同様に敦昌からで、敦昌と親宣は従兄弟同士です。

 

 甲斐氏は甲斐から日向にやってきて甲斐氏を名乗ったようですが、元々は菊池氏だという伝承があるようです。菊池武房の死後、家督を長男の隆盛の子時降と隆盛の弟である武本が争い、斬り合いになりどちらも命を落とし、武本の子武村が甲斐へ移住し、その子孫が南北朝期に日向へ移り住んだとされています。ただ、明確にそれを示し史料はなく、まあ、ありがちな粉飾のような気がします。阿蘇氏の家臣になり、肥後へ進出した頃に元々は肥後の菊池氏の子孫だと主張した、というのはありそうな話です。

 

 宗運の時代のその菊池氏は弱体化し、最後は大友から送り込まれた人物が家督を継ぎますが、後、大友本家と対立し、追い出されます。阿蘇氏も内紛があり、それらの過程で甲斐氏は活躍し、所領を増やしていきます。阿蘇氏は大友に属し、宗運も義鎮から「鎮」を賜り、 親直から鎮直に改名し、長男も親秀から鎮降に改名したと著者はしています。出家後の宗運ももちろん、大友宗麟の「宗」で、長男も出家後は宗立を名乗っています。
 大友の弱体後、北から龍造寺、南から島津が侵攻してきて奪い合いになり、龍造寺に起請文を出しているのですが、その一方で島津に属していた時期もあります。相対的には阿蘇氏そのものが小勢力に過ぎませんから、阿蘇氏や甲斐氏存続のために宗運は奔走したようです。島津に降った際には条件に阿蘇氏の奪われた所領を返してくれとか、引き伸ばしとしか思えないようなこともやっており、また、武略(この場合、謀略)に優れた武将と当時の人に評価されており、真田昌幸を連想します。
 ただ、甲斐氏は一枚岩ではなく、前述の通り、隈庄との争いもあり、宗運の子でも離反するものもあり、二男、三男、四男の3人まとめて粛清したと思われる話も伝わっています。
 島津が龍造寺と激しく争っているさなか、宗運は死去します。正確な年齢はわかりませんが、70歳代だったと見られます。
当然長男の親秀(鎮降=宗立)が跡を継ぐですが、武将としては能力が低かった人物とされており、同族と思われる甲斐兵庫頭(実名不明)との連立体制になったそうです。兵庫頭は宗運の弟かもしれませんが、伝わっている系図には登場しない人物なので不明です。小西時代に岩尾城に甲斐兵庫頭秋政という人物がいたという伝承はあるそうです。宗運の死後、島津方の花山城を甲斐氏が攻め、肥後の史料では甲斐相模守親秀、豊後では甲斐刑部大輔鎮降、島津では甲斐相模守が率いたとしています。
 肥後で鎮降という名前が史料に出てこないのは、父親の鎮直も含めて地元では使っていなかったか、改名後、すぐに出家してしまい、広まらなかったのかもしれません。

 

 その後、島津は龍造寺に打ち勝ち、九州統一寸前までいきますが、ご存知の通り、秀吉に屈します。その過程で甲斐氏は没落します。最終的には肥後の甲斐氏は佐々氏がやってきた後の肥後国衆一揆に加わり、親秀が死にます。なお、親秀とほぼ同世代と思われる阿蘇氏家宰、甲斐大和守親英という人物がいて史料に名前が残っていますが、これも系図に登場しないため宗運の系統なのか、それとも隈庄の敦昌の系統なのか、それとも更に別の系統なのかは不明です。Wikiでは、親英を宗運の長男としています。この本を読んだ限りでは親英と親秀は別人物に思えます。親英という名前からすると親直系統の人物に思えますので、親直の息子で、親秀の弟かもしれませんし、もしかすると親秀の息子かもしれません。宗運が70歳代で死去したとするとその長男は60歳前後でもおかしくありませんし、50歳代と考えるのが自然です。若くても40歳代でしょう。また、父と一緒に出家したとされていることを考えれば、その際に御船甲斐氏の名目上の家督は親秀の息子に譲っていた可能性はあります。そうすると阿蘇氏家宰と書かれていることから、親英は御船甲斐氏家督であってもおかしくはありません。素人の勝手な推測ですが。「全国国衆ガイド」には宗運の後、親英が家督を継いだとされています。つじつまが合う解釈は、宗運=>親秀=>親英でしょう。

 

 なお、日向に残っていた甲斐宗摂が秀吉の仕置きによりやってきた高橋元種に属して地位をたもっていましたが、朝鮮出兵期に謀殺されています。なお、宗摂は名前からして出家名でしょう。そうすると、宗運、宗立と同様に宗麟が出家した際に一緒に出家したものと思われます。宗摂について記述が混乱しており、和泉守、長門守を称しいたとうのは同じですが、本文の150ページでは、宗運や親昌の父親達の弟である誠運が長門守を称していたのでその系列ではないかと書いておきつつ、巻末では、敦昌の弟誠昌が長門守を称していたことから、誠昌の系統と思えるも書いています。二種類の系図があるのかもしれませんが。いずれにしても実名不明ですからわかりません。

 

 なお、宗運には毒殺せずがあります。親秀の妻がその父親(黒仁田豊後守)が離反し宗運に討たれたため、娘=宗運の孫に命じて毒殺させたという話です。一次史料では確認出来ない話ですが、状況的にはあり得なくもないと言えます。ただ、高齢になってから毒殺というのは不自然で、急死したので毒殺説が後に流布されたのではないかと個人的には思います。

 

 甲斐氏はその主家の阿蘇氏そのものが国衆レベル(戦国大名に分類する人もいますが、肥後の統一は果たしていない。阿蘇氏と争った相良氏は「大名」として生き残ってはいるけれど、戦国期には国衆に分類すべきでしょう)なので、それを考えれば、史料が残っている方でしょう。であるが故にゲームにも登場した(出来た)のだと思います。

 

 地元の本屋に立ち寄った際に地元の歴史本コーナーがあり、そこで選んで買ったのですが、昔、あのゲームをやっていた時代を思い出しました。実に懐かしい。ああ、あのゲームとは、それはシステムソフトの天下統一シリーズです。プレイした時間で言えば、大戦略シリーズと双璧。天下統一シリーズと比べると信長の野望シリーズはお子様向け(失礼)。いやあ、久しぶりにやりたくなったなあ。でも、動くかな、98(苦笑)。Win版を買ったような記憶もあるけれど。

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