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肥後国衆一揆

 熊本出版文化会館 荒木 栄司著「増補改訂 肥後国衆一揆 肥後戦国武将たちの最後の戦い」
 前回同様に九州旅行にいった時に熊本の書店で買った本の紹介です。

 同じ著者の本ですが、こちらは2012年と比較的新しいですが、これは増補改訂版で、元は1987年なのでこれまたかなり古い本です。 肥後国衆一揆は有名で、佐々成政の失政により一揆が勃発し、単独での鎮圧に失敗し、援軍を得てようやく鎮圧、佐々成政が責任を取らされて切腹して終結、とまあ、一般的な認識はそういうものでしょう。しかし、本書を読むと必ずしもそういう理解は正しくないと思いました。そもそも、これは「一揆」というのは不適切に思えます。
 一連の戦いの根本原因は国衆側と豊臣政権側の認識の違いにあったと言えそうです。豊臣軍が島津を打ち破った後、ほとんどの国衆は秀吉から安堵状をもらっています。ですので、佐々成政が肥後の領主になったとしても、従来の菊池、大友、島津などが佐々になっただけで、従来通りという認識でしたが、豊臣政権側は仮の安堵状で、正式には後日、検地をした上でそれぞれの石高などを確定するという認識でした。著者は豊臣政権の方針は中間支配層(国衆はこれ)を無くし、実際に耕作するは百姓から直接年貢を徴収することであったので、「国衆」は存続で出来なくなっていくとしていますが、それが一揆の直接の原因とはしていません。何故なら、国衆や百姓側にその認識はなかったと思われるからです。
 争いの原因は、簡単に言えば、秀吉から安堵状をもらっているのに佐々成政が検地だなんだというのは納得出来ない、ということです。現在なら裁判で・・・ということになる訳ですが、当時は簡単に武力・自力で解決ということになりえます。

 さて、「一揆」が不適切という思うと述べましたが、これは、「一揆」といえるように連帯していないからです。ほぼ、個々の国衆が別々に争っています。連携が見られたのは、益城郡の国衆中心の軍勢が隈本城を攻めた戦い位です。後は、縁者が援軍にいったという程度で、国衆が連帯して佐々に反抗したとは言えません。訴状や決議状のようなものを作成しての決起ではありません。契約、盟約もありません。ですから、これは「一揆」とはいいがたように思えます。

 序盤は兵力不足もあり、佐々側が苦戦しますが、増援を得て、個別撃破されていきます。個々には色々なエピソードが伝えられています。謀略裏切り、弁明にいこうとして謀殺などなど。落ち延びるものもいますが。

 佐々の後は、よく知られているように加藤清正と小西行長に分割されていますが、相良はそのまま領土を維持しています。肥後の国衆の中で相良だけは豊臣、徳川を通じて大名として存続していますね。また、小西行長が宇土城の普請を天草の国衆(肥後国衆一揆にはかわらなかった)に命じた際にも同じような戦いが起きています。天草の国衆も秀吉から安堵されているので従来通りという認識で、小西の与力なので、豊臣政権としての軍事行動では小西に従うが、城の普請は小西の私事なのでやらされる理由はないと応じなかったので、秀吉に指示をあおいだところ、「六ヶ敷ことを言う奴輩は殺してしまえ」と言われたので攻め滅ぼされてしまいます。

 全体的に見て、「秀吉が悪い」という印象を持ちます。そもそも最初の安堵状が説明不十分ですし、佐々成政も責任を押しつけられて自害させられています。天草にいたっては、秀吉から「普請の手伝いをせよ」と命じればなんの問題もなく片付いたことでしょう。

 なお、前回、甲斐宗立=親秀と甲斐親英は別人物としていると述べましたが、同じ著者ですが、本書では 親秀と親英を同一人物として扱っています。何か新しい史料が見つかってそう確認できたということでしょうか?全国国衆ガイドやWikiなどもその説を採用しているので、まあ、そういうことなのでしょうね。同じ人物が複数の名前を持つ(改名する)事例は多く、実名が混乱したり、取り違えられたり、別の人物と思われていたが実は同一人物だったということは過去いくらでも事例はありますので。主題ではないのでさらっと書かれているだけです。親秀=>鎮降=>親英という改名をした可能性もあるかもしれませんね。大友の支配から抜けたので「鎮」を捨てたかも。今後、新たな史料が見つかって、実は別人物でした、ということがあるかもしれません。個人的には親直(宗運)=> 親秀(宗立)=>親英と家督相続されたという仮説が正しいといいなあと思いますが(あくまで私の思いです)。

 それから、天草での戦いの中で加藤清正が木山弾正と一騎打ちをして、組み伏せられて首を取られかけた時に木山弾正の家来がやってきて、助けようと声をかけたら、木山弾正はぱっと言葉が出ず、加藤清正が「俺は下だ」と言ったので、木山弾正が殺されたという伝承があるそうです。事実はどうかはわかりませんが、興味深い話です。もし、これが事実で、この時、加藤清正が討ち取られていたら歴史は変わったでしょうか?まあ、多分、これは創作でしょうが。ただ、加藤清正というと武勇で有名ではありますが、実績を客観的に見ると朝鮮出兵の時位ですよね。後は肥後、天草の国衆との戦いと関が原位。これらは強力な敵と戦ったとは言えません。加藤清正は武勇優れるというのはイメージに過ぎないかも?とふと思いました。

 一連の戦いの記述が本書に占める割合は余りなく、3割位が資料集です。関連資料も記載されていますが、秀吉の「六ヶ敷ことを言う奴輩は殺してしまえ」という指示の史料は残念ながらありませんでした。「むつかしき」を「六ヶ敷」と書いているので秀吉の書状っぽいのですが。

 これも一部誤記や混乱らしいのもありますが、肥後国衆一揆について詳細に書かれた本は見たことがないので貴重な本だと思います。

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