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2019年3月

戦ノ国 もののふ絵巻 :紹介編

 Si-phonのPCゲーム「戦ノ国 もののふ絵巻」の感想です。何を今頃?といわれそうですが、先日述べたように「天下統一」を久しぶりにやってみたくなったのですが、現在の環境で動くものが見つからず、代わりに買って導入して少しやって挫折していた本ゲームを思い出し、続きをやってみたのです。
 挫折した理由は、余りにやることがなく、変化に乏しいから、です。これ自身は悪いことではないのです。そんなにぽんぽん領土を拡張出来るはずがありません。織田だって、尾張を統一してから、美濃を占領するまで長期間を要しています。
 本ゲームでは、基本的に一エリア一国(一部分割された国もありますが)ですから、一国占領するのに時間がかかるのは当然です。しかし・・・・退屈です。一国が数箇所の城に分割されていれば流動性も高まりますし、もう少しプレイも変化がありますが・・・・。
 プレイできるのは主要大名だけです。それで最初は初心者がやり易いと考える島津を選びました。薩摩は端っこですから、複数方向から攻められるリスクが低く、領土拡張がやり易いからです。しかし、大隅まではなんとかなったもいののそれから先はなかなか進みません。なんとか日向を占領したところでやる気が尽きて放置してしまいました(苦笑)。

 今回、久しぶりに再開してなんとか天下統一まで行きました。当初、やる気がうせた原因は分かり難さにもあります。その辺も踏まえて紹介します。

バージョンが違った!
 まず、最初に導入したのはV1.53でした。付属のマニュアルとなんか違う点が多くて不思議だったのですが、天下統一した後、Si-phonはまだ生きているかな(失礼)と思ってサイトをアクセスすると健在でした。
http://si-phon.com/
ユーザー登録するとV1.54へアップグレードできてシナリオが追加されるというので、登録してリンクからダウンロードして適用しました。その前に念のため既存のフォルダーをバックアップ(セーブデータのファイルがどれかぱっとわからなかったので丸ごと)しておきました。
 適用後フォルダーを見るとV1.5での変更点というPDFファイルがあります。うん?V1.5?V1.54ではなくて?バックアップしたフォルダーを見てみると・・・・同じPDFファイルがありました。そう、マニュアルは初期バージョン用だったのです!マニュアルの説明とどうも振る舞いが違うように思える点が多く、不思議でした。そういえば画面も違いますした。それはバージョンが違ったからです。(^^;今回の紹介はV1.53です。

ゲーム概略
 プレイヤーは有力大名の当主となり、天下統一を目指します。基本的にはプレイヤーが最大勢力になり(多分、山城を確保している必要もある)、敵対勢力がいなくなければ天下統一され終了します。プレイヤーの領土以外は同盟や臣従大名だけになれば当然終了しますが、敵対していない大名が残っていても終了するようです。
 プレイヤー以外の大名は当主が死亡しても誰かが引き継ぎます(必ずしも、当主の息子ではないようです。最有力武将?)。ただし、プレイヤーの大名が死亡するとゲーム終了のようです。また、引退という選択もあり、これを選んでもゲームは終了します。終了するとゲームの経過とその後を年表風に表示してくれます。

 よくあるゲームだと、内政を行って国力上げて、兵を増やして、他国へ侵攻、ですが、このゲームはちょっと違います。ゲームは1ターン1ヶ月で3ヶ月に一度、政治フェイズ、毎月戦略フェイズがあります。

 シナリオは二つありますが、バージョンアップ(後述)すると真田昌幸でプレイするシナリオが追加されます。
・戦国大名への道 「御旗盾無、御照覧あれ!」
・信長の打倒 「瀬田の唐橋に旗を立てよ!」

政治フェイズ
 内政、外交、官吏、知行、俸禄などの行動が行えます。

 内政はポイントを農業、商業、鉱業に割り振るだけです。後は何もしません。自然に少しずつ開発が進みます。ポイントはどうも大名の能力に依存しているようですが、マニュアルを見てもはっきりしません。内政は、当主の魅力と魅力が最大の配下の武将により決まるとありますので、それでポイントが決まっているようですが、明確な関係はわかりません。「決まる」のがポイントなのか、効率なのかわかりません。そういえば、途中で内政ポイントが1増えましたが、それは配下の武将の最大の魅力値が上がった(より高い武将が配下に加わった)からもしれません。そうするとやはりポイント?
 国には農業、商業、鉱業それぞれの最大規模と現在の規模が表示されています。内政で開発が進むと現在の規模があがります。農業では10月にしか収入が得られませんが、商業と鉱業は3ヶ月毎に得られます。

 外交は同盟を結んだり、他の大名を臣従させたりします。成功率は大名の威信や有効度などによるようですが、はっきりとはわかりません。経費は要らないようです。普通は何かしらの経費が必要なのですが。また外交交渉に特に配下の武将が使者として出向くということもなく、相手を選択して実行するだけです。同じ相手には1フェイズに一度しか行えませんが、特にペナルティなく、他に大名に対しては行えます。やろうと思えば毎回全大名に同盟を申し込むことも出来るようです。将軍追放という選択肢もありますが、既に追放されていたようで、選べませんでした。なお、自分から臣従を申し出ることは出来ません。

 官吏は朝廷に対して官位と官職を求めることが出来ます。経費が必要です。失敗することもあるのですが、不思議なことに失敗すると経費はかからないようです。普通ゲームだと成否によらず経費をとられますが。なお、官位と官職に分けられていますが、この分類は不適切です。ゲーム中の官位は実際には官職で、侍従とか大納言とか大臣とかx守などもあります。官職はxx守護とか管領とかです。まあ、なので、大雑把に言えば、ゲーム中の官位は朝廷が与えるもの、官職は幕府(将軍)が与えるものと解釈することも出来ます。官位なら従五位下とかで、ゲーム中の今の官位と官職を官職にすべきだと思います。そして官位に見合った官職を得られるようにするとそれらしいと思います。守護は・・・元々守護だった家以外で守護を与えられた事例は余りないように思いますが。

 知行と俸禄はこのゲームの最大のポイントです。まず、俸禄から。このゲームでは兵を雇うという操作はありません。正確には直接雇うという操作はありません。配下の武将に俸禄を与えるとその俸禄に応じた兵が自動的に集まります。これは適切なシステムで、「リアル」です。当然俸禄を上げると忠誠心は上がります。どういう裏パラメーターがあるのかわかりませんが、どうも忠誠心が下がりやすい武将とそうでない武将がいるように思えます。なので、忠誠心を維持するために俸禄を上げていると気がついたら、無能なのにやたら俸禄が高い武将が出来上がっています(苦笑)。同じ忠誠心で裏切り易いと感じる武将もいるので、史実を踏まえた裏パラメーターはありそうです。当主にも俸禄を与えます。それで当主が率いる兵力が決まりますから

 ここからがまた分かりにくいのですが、例えば、全部で10万石の領土があったとしましょう。まず当主に2万石与えます。配下の武将が5人いて、それぞれ2万、2万、2万、1万、1万与えたとします。合計で10万石でぴったり・・・・ですが、これをやると色々と不具合が起きます。まず、俸禄を与えていない分が10月の農業による収入の基礎となるようです。なので、領土を全て俸禄として与えてしまうと10月の農業収入はゼロになるようです。ようですというのは通常避けているのではっきり試してないためです。また、後述の治安度が下がっていくように思えます。ですがこれもはっきりわかりません。

 知行というのもあります。え?俸禄と何が違うのか?これは配下の武将を大名化するものです。当主が保有している「国」を配下の武将に知行として与えるとその武将は「譜代大名」になります。用語として不適切ですが、ともかく、このゲームでは「譜代大名」という名称です。譜代大名にしても移動などは従来通りですが、違いが三点あります。
 まず内政。知行として与えた国の内政はその譜代大名の能力で行われるようです。領土が増えてくると次第に手がまわらなってくる設定になっており、内政の効果が落ちますし、治安も下がりやすくなってきます。ですので、領土が拡大するに連れ、知行として与えて統治させる必要があります。これが理解出来ていくて途中でぼろぼろになっていて、おかしい?何故?と悩んでやっと気がつきました。
 もう一つは俸禄は自分で決めるようになります。例えば、10万石の知行を与えたとしてもその武将の俸禄が10万石になるわけではありません。知行の半分以下しか俸禄にしないようです。配下に武将がいないと1/4位でそのままだったこともあります。この辺の基準もはっきりしません。
 武将を譜代大名の家臣に出来ます。家臣にすると当主はその武将に俸禄を与えなくてもよくなります。反面、兵力を任意に決められなくもなります。譜代大名は自身と家臣の俸禄の合計が知行の半分以下になるように行動するようですので、家臣が多すぎると個々の武将の俸禄が下がり、兵力は減りますし、忠誠心も下がるので注意が必要です。
 なお、譜代大名からの上納金はあるようです。ですから、仮に直轄地を全て俸禄として与えても10月には相応の収入はあるようです。
 領土が増えていくと前述の通り適切に統治するためには譜代大名に委託する必要があります。そうすると当主の領土が減りますから、家臣も同じように譜代大名に異動させていかないといけません。
 用語の問題はありますが、このシステムそのものは素晴らしいです。「リアル」です。ただ、完成度は高いとは言えませんが・・・。譜代大名も陪臣も直臣と同じように移動させ、統治(後述)させ、戦闘に参加させられます。行動の上で区別がされていません。これはおかしな話で、当主が陪臣に直接指示することは通常はないはずです。
 V1.5から武将の異動が可能になっています。一度、陪臣にした武将を直臣に戻すことが出来ます。侵攻する際に経費も当主持ちで、自弁ではありません。

戦略フェイズ
 城と移動、侵攻、統治が出来ます。

 城は国の城の規模拡張です。ある程度の期間が必要です。城の規模が大きくなると当然篭城した際に落ちにくくなります。ただ、城には維持費がかかるので、規模を大きくしすぎると、お金がなくなり、行動出来なくなることもあります。

 移動はかなりの距離移動出来ますが、限界はあります。ただ、プレイしていて移動できなかったということはありません。なお、国と国の間に海がある場合には特定の場所でしか移動できません。また、山で移動不可の場所もあります。またイベントで大雪が降ると移動できなくなることもあります。臣従大名の領地を通過はできます。とどまることは出来ません。

 統治は下がった治安度を上げます。武将の兵数により効果が変わるようです。武威の影響は不明です。兵数が多いと経費も増えます。自然に上がる場合もあります。譜代大名の領国で「統治」を行うことも出来ますが、普通は必要ありません。占領したばかりの国を当てたとかイベントで極端に下がった場合を除けば、譜代大名に任せておけば十分です。

 侵攻は他国への攻撃です。当然、経費がかかりますが、一般的に見て収入に対してかなり多額が必要で、領土が大幅に増えない限り、年に何度も侵攻は出来ません。もちろん、投入兵力にもよりますが。これにより、合戦は余り頻繁に起きません。これはリアルはリアルですが、ゲームが単調になる原因でもあります。

 侵攻されると表示されますので、他勢力が先に侵攻してきて自分のフェイズになった場合には増援を移動させることが出来ます。ここは、そのまま移動ではなく、後詰という別行動にして欲しかったですね。残念です。当然、プレイヤーが先に侵攻すれば、コンピューターが操作する他国も増援を移動させることがあります。なので、守備兵力が少ないので侵攻したら大兵力で迎え撃たれてびっくり!ということもあります。

戦闘
戦略フェイズが終わるといずれかの大名が侵攻を選んだ場合、戦闘が行われます。プレイヤーが関係しない戦闘の詳細は表示されず、占領されその国の支配者が変わった時だけ知ることが出来ます。戦闘は野戦と篭城戦に分けられます。一ターンの侵攻は最大二十日です。一戦闘セグメントが一日ですから、途中で篭城された場合も含めて最大20回戦闘します。二十日経過して決着が付かない場合には侵攻側が撤退して終わります。侵攻側は途中で撤退することも出来ます。

 最初に一度だけ調略と増援要請を行うことが出来ます。

 調略は相手側の武将1人を選びます。当然、忠誠心が低い武将ほど裏切りやすくなります。返事をしてきますが、良い返事でもタイミングはばらばらで裏切らないこともあります。篭城へ移行してから裏切ることもあります。逆に何故か篭城した側へ裏切って行くという不思議なこともあります。また、大名は調略出来ません。譜代大名も同様です。なので、譜代大名にしてしまえば、戦場で調略されることはなくなります。

 同盟・臣従大名に増援を要請することも出来ます。費用が必要です。これも良い返事がもらえても、こないことや間に合わないこともあります。篭城していても増援が到着すると城の中に入ります。増援は一武将だけのようです。防御側で増援を要請し、篭城していて複数武将が後詰にやってきて合戦になると良いのですが、そこまで再現出来ていません。

 防御側が撤退したり、篭城しなかった場合には野戦が行われます。一回が一日とされており二十日までやって決着しないと侵攻側が撤退します。前線に3武将まで配置できます。少なくとも1武将を配置しないと自動的に敗北します。
 戦闘では兵力の減少と士気の低下が生じます。また、ユニットが次第に黄色からオレンジ色、赤と変化していきます。士気が零になると戦闘不能になりその武将は取り除かれますが、討ち死にするわけではありません。その一方で突然討ち死にすることもあります。攻撃、突撃、防御が選べます。突撃はV1.5から追加されたものです。通常、侵攻を受けた側は防御しますが、どうも時々突撃してくるようです。突然、武将が敗走(士気低下で戦闘不能)することがあるので不思議でしたが、突撃された結果のようです。最初はこの突撃という選択肢があるのを知らなかった(マニュアルには記載がないから)ので、不思議でした。双方が防御の場合は何も起きないようです。普通、侵攻側が「防御」を選ぶことはありえませんが、複数正面から侵攻(後述)した場合、どちらかで勝利して突破すればいいので、片側は防御で対峙し、片側で攻撃するということはありえます。突撃は忠誠心の高い武将ほど効果があるそうです。

 3武将より多い場合には前線と武将を入れ替えることが出来ます。士気というパラメーターがある以上、後方に下げて休息させれば士気は回復すると思うのですが、実際にはそうなりません(後述します)。なので、消耗した武将を入れ替える必要はありますが、基本的には再投入することはないです。もちろん、前線の武将よりも消耗して後退させた武将の方が状態が相対的にましになれば入れ替えるべきですが。武将が全て戦闘不能になると敗北します。侵攻側はその前に撤退することも出来ますし、防御側は篭城へ移行することも出来ます。

 相手が篭城した場合、強襲と包囲が選べます。包囲した場合、城の兵糧が尽きたら落城です。守備側の兵力が多ければ多いほど兵糧の消耗が早いので包囲がお得です。逆に少ない場合、兵糧は減らないので包囲だと落城しませんから、強襲する必要があります。まあ、この辺はリアルといえばリアルです。特に謀略コマンドみたいなのはありません。

 また、つながっていれば複数国から侵攻出来ます。例えば、二カ国から侵攻すると前線が二つ出来るので、防御側は両方に武将を配置しないといけません。同時に3武将しか前線に配置できないので、総兵力が少なくても能力が高い武将が3人いると一方向からの侵攻では勝てないことも少なくありません。また、武将の数が多くても交代して二十日持ちこたえられることが少なくありません。一国には最大10武将しか配置できませんが、複数方面からの侵攻は例外です。ですから、二方向から侵攻すれば防御側は1.5回程度しか交代させられませんので、攻略成功確率が高まります。逆に言えば地形などの制約により一方向しか侵攻出来ない国の防御力は高いです。
 コンピューター側は戦わずに撤退することもあります。また、篭城した場合、降伏してくることもあります。降伏を受け入れると臣従します。ただ、プレイしていて臣従を受け入れるメリットは余り感じません。また、もしかしたらバグかもしれませんが、篭城したのが当主で、その国以外に直轄領が無い場合(他はすべてその譜代大名に知行)、降伏を受け入れても、何故かその当主は死亡して滅びました。普通はそうならないのですが。

 また、従来は武将がいないと即落城だったようですが、V1.5から武将が不在の国が侵攻を受けても、ある程度は防御効果が発生するようになったとあります。野戦の発生確率もV1.5から増えているそうです。
 
イベント
 毎フェイズ開始時にイベントが発生します。ありがちな台風とか疫病とか大雪とか。大雪だと移動できなくなります。また、武将が登場することもあります。登用するかどうかはプレイヤーが判断します。譜代大名も自動的に登用しますので、陪臣がプレイヤーの意志と関係なく増えていくこともあります。武将がいつどこで登場するかははっきりしません。史実である国にいた武将だからといってその国に登場する訳ではないようです。また、いずれかの大名が滅んだ際に野に下った武将が仕官を求めてくることもあります。また、武将が死亡することもあります。大名の当主が死亡すると配下のいずれかの武将が引き継ぎます。高齢なほど死亡しやすいようですが、裏パラメーターもありそうです。なお、織田信長が死亡したこともありました。
 反乱が起きることもあります。武将がいなくて治安度が低いと起きるようです。まあ、プレイヤーの領国で起きることはまずないでしょう。また、臣従・譜代大名が独立することもあります。

武将
 後回しになりましたが、武将には以下のパラメーターがあります。
 名前;武将の名前です。
 年齢:高齢になると死亡しやすくなります。
 所属:大名の当主かいずれかの大名の家臣かを示します。
 官位と官職:官吏で得られるもの。譜代大名は勝手に得ている場合もあるようです。
 忠誠心:大名でない武将にのみあり。5段階で顔マークで表示されます。
 威信:大名にのみあり、外交に影響します。
 兵数:その武将が率いている兵力を示します。
 能力:魅力、知力、武威の三種類あります。
 士気:戦闘時にのみ表示されます。士気が零になると戦闘不能になります。

能力は固定されているようです。若い頃は低く、経験をつむと向上し、高齢化とともに落ちていけば面白いのですが、そこまでは再現されていません。残念。

兵数
 兵数のパラメーターは以下の例の通り三つあります。
 兵 612/1200、有効兵力540
という風に三つの数字があります。最初の二つは、与えた俸禄では1200の兵を持つはずだが、まだ、612しか集まっていないという意味のようです。消耗すると当然減ります。特に消耗(戦闘や統治で)することなく、時間が経過すると増えていきます。分かりにくいのは有効兵力です。最初は現在の兵612中戦闘可能なのは540(士気とか忠誠心の問題で)と解釈していたのですが、途中で現有兵力の数字よりも有効兵力の数字が大きい場合があることに気がつきました。なので、現有兵力*能力による指数、のようです。もしかすると最大兵力*能力による指数かもしれません。いずれにしても俸禄が高くても能力が低い場合、実戦力は低下します。また、戦闘を続けて行っても低下します。兵数に関してはシステムはよくできていますが、説明が分かりにくいのが難点です。このゲームに共通する話ですが。なお、この有効兵力もV1.5からのもののようです。

能力
 前述の通り、武将には魅力、知力、武威の三つの能力があり、マニュアルには以下のように書かれています。

 魅力 主に内政、忠誠心の増加、多くの兵を効果的に扱えるか、士気の回復に影響
 知力 主に外交や調略、多くの兵を効果的に扱えるか、籠城した時の効果などに影響
 武威 主に戦闘効果や士気の低下に影響

 マニュアルには1武将当たりの兵数が多くなりすぎると兵数のわりにダメージは伸びなくなるとあります。魅力と知力の高い武将は、より多くの兵を効果的に使えますともあります。なので、魅力と知力が低いと有効兵力が少なくなり、高いと多くなるようです。つまり、前述の指数「有効率」が決まるようです。ただ、実際にプレイしていてもこれらの能力の意味がよく分かりません。どうもこの辺もV1.5で変更されているようです。知力が高いと有効に扱える兵数が増えます。これにより、武威は高くても知力が低い武将は戦闘で余り役に立たなくなっています。

士気
 戦闘時には士気が加わります。マニュアルには、士気値が低くなると戦闘のダメージも低下し、攻撃を受けた時にはダメージを受けやすくなるとあります。そして、前述の通り、士気が零になるとその武将は戦闘不能になり戦闘から取り除かれます。これは分かるのですが、どうやって決まっているのかが分かりにくいです。能力とは別に5段階の忠誠心というパラメーターもあります。当初は忠誠心が高いと士気が高いのかと思い込んでいましたがそうでもありません。プレイしているうちに知力が低いと士気の初期値も低いように思えてきましたが、忠誠心の影響もあるようにも思えます。マニュアルには明記されていません。また、魅力で「士気の回復に影響」とありますが、回復しているように思えません。

 しかし、これは当然の話でした。V1.5から士気の回復が出来なくなっていることです。その代わり、疲労度が導入されたようです。戦闘時にオレンジから赤くなるのは疲労度をしめしています。ただ、これも交代させて休ませても回復はしません。システムの趣旨からするとこれはおかしなことです。恐らく、プレイバランスの調整が目的ではないでしょうか?士気回復できると戦闘がなかなか決着せず、防御側が勝利することが多すぎて、元々動きが少ないゲームなのに更に流動性がなくなっていたのではないかと思います。味方が敗走すると士気が低下するようになったそうです。武威が高いと士気も高いようです。

 能力をまとめると
魅力:基本的には大名になた武将だけ影響。内政は配下の最高値の武将も影響。大名の魅力が高いと忠誠心も上がり易い?
知力:高いほど多くの兵を使える。当主の場合、外交や調略が成功しやすくなる?篭城時の効果は不明
武威:士気が高くなり、戦闘時に相手の士気を下げやすくなる。
でしょうか?

 なので、
当主:魅力と知力優先
内政担当武将:魅力
野戦軍武将:知力と武威優先
という使い分けになると思います。実際には武威は高くても知力が低い武将が結構いて余り使えません。プレイした感触では、武威よりも知力が高い方が有能に感じます。知力ー武威として、2-8とかの武将は使えないです。まだ、5-5の方がいいですし、6-6だと結構有能。黒田孝高は10-6なので手ごわいです。

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哨戒艦の記事

 世界の艦船 2019年4月号と軍事研究2019年4月号に海自がこれから整備する哨戒艦の記事がありましたが、対照的でした。

 まずは世界の艦船。86ページからの「3,900トン型FFMとその他の水上艦艇」で著者は元海将補の徳丸伸一氏。有事における戦闘用ではなく、平時の所要により建造されるとしています。「これまでの枠にとらわれない斬新なアイデアや技術を結集した艦艇」としてもらいたいとも書いています。
 しかし、その後で、船体は巡視船並み、対潜戦は実施せず、戦闘指揮システムも搭載しない。砲も76mmよりも小型としており、力をいれるべきは情報収集と伝達能力だとしています。これには完全に同意します。ただ、FFMが40kt超を目標にしていたが断念したので、哨戒艦を高速化することも考えられる、ディーゼル主機でウォータージェット推進とすることも考えられるとしています。90ページ左上には「あそ」型巡視船の写真も出しています。
 FFMをLCSにしたかった人は本当に存在しているのですね。著者は本音ではあのトリマラン型の高速艦になるといいなと思っているように感じます。
 読者投稿欄にもミサイル艇の後継やコルベットのようなものを想定する投稿がありますが、失礼ながらそれでは哨戒艦のコンセプトから外れるでしょう。

 なお、1隊2隻で、6個隊を編成し、佐世保地方隊に2個、後は各地方隊1個の配備を考えているようですが、どうでしょう?私は海保の尖閣専従部隊のような存在になるのではないかと思いますが?1隊3隻を4クルーか、4隻5クルーになるのではないかと思いますがいかがでしょう?1隊2隻で分散配備だと18クルー必要です。また、2隻だけだと稼働率は下がるでしょう。1隊4隻で3隊なら、佐世保、呉、沖縄に1隊ずつ配備だと考えます。それなら、各隊最低1隻は常時活動出来るでしょう。

 また、FFM30について徳丸氏は、VLSを早期に装備し、アスロックやESSMを装備すべきとしています。いやあ、対潜戦好きですね。素人のたわごとといわれるかもしれませんが、今日においてアスロックにどれだけの戦術的価値があるのでしょうか?まだちょっと無理でしょうが、例えば、センサーになるUAV(恐らくヘリ型)を搭載し、それで探知、攻撃はアスロックというのならまだわかりますが。ESSMは可能なら搭載したいですが、コストとの兼ね合いですね。今すぐは無理でしょうが、VLSを装備し、ESSMやSM6を搭載して、誘導は他艦が行うというやり方も考えられると思います。
 また、人員削減のためUAVの運用は想定されていないと書いていますが、普通、逆ですよね?つまり、有人ヘりを搭載するからそれに追加してUAVはありえないと考えている訳ですが、どうでしょう?FFMの固有の艦載機はUAVで、他艦の有人ヘリが状況に応じて派遣される、ということもありえそうですが??
 
 なお、同記事に音響測定艦では既に3クルーで2隻を運用していると書かれていました。初めて知りました。

 一方、軍事研究は文谷先生の194ページからの「海自「哨戒艦」とはいかなる代物か?」です。こちらの著者の主張は哨戒に求められる任務は、監視、支援、機雷、沿岸防衛、広報であり、多用途支援艦、水中処分母船、特務艇「はしだて」の合計12隻を置き換えることになるであろうというものです。そして、ひうち発展型が妥当で、速力は20-25ktに増強するものの武装は20mmで十分。退役艦から外した76mmはありえる、ヘリ飛行甲板は必須だが格納庫は無くても良いとしています。
 水中処分母船はあくまで支援船であって、「艦艇」ではないのですし、かなり小型なので、それの置き換えとして哨戒艦が調達されるのかは疑問がありますし、「はしだて」も用途がかなり違いますので、どうでしょう?ただ、多用途支援艦は後継艦が建造されず、哨戒艦と置き換えられる可能性は十分あると思います。

 普段、文谷先生には批判的な私ですが、本件に関しては、文谷先生案は徳丸伸一氏案よりも妥当だと思います。まあ、いつものように細部では色々と疑問はありますが(苦笑)。
 
 私の主張は、巡視船準同型艦で、武装はRWSのみ。予算の都合がつけばシーRAMは搭載。ヘリ甲板は設けるが格納庫はなく、給油程度の施設があれば十分。または、UAVを可能できる程度の格納庫をもける。速力は20-25kt程度で十分。USV/UUVなどを搭載、運用できる設備があるとなお良い、です。NSMかJSMの艦載型を搭載出来る余地は設けても良いとは思いますが、どちらかといえば、おまけ、でしょう。任務は名前の通り、哨戒や監視ですから、徳丸伸一氏が書かれているようにセンサーとネットワーク重視。対機雷戦やその他支援は副次的なものになるでしょうし、実際、その余裕はないと思います。
 現在、汎用DDが担っているMOOTW的なものや哨戒・監視といった「平時」の任務を前者はFFM、後者は哨戒艦が似ない、数が減る汎用DDは、DDH/DDGと共に「有事」に備えるという方針だと理解しています、実際にはそれでも後者にも色々な平時の任務はかせらえるでしょうが。

 しかし、失礼な言い方ながら海の中の人や元中の人などには、従来の考え方のまま、という人が少なくないようですね。対潜戦や掃海をおろそかにして良いとは言いませんが、これから(遠い将来は別にして)はそれらは副次的な任務になるように思えます。それはこれから始まることではなく、既に始まっていることです。だって、P-3CやP-1はもはや「対潜哨戒機」ではなく「哨戒機」と呼ばれていますよね?SH-60J/Kですら「哨戒機」です。
 
 なお、少し外れますが、世界の艦船の別記事でも、「第2艦隊」の2個群を水陸両用戦群1個と機雷戦群1個と考えていますね。実際には以前触れたように「防衛計画の大綱防衛省中期防衛力整備計画」という解説文書で
http://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/guideline/2019/pdf/20190221.pdf

掃海艇隊x3:7隻+FFM隊x4:13隻
掃海艇隊x3:7隻+FFM隊x3:9隻
とされ、輸送艦は含まれていませんが。

 なお、試験潜水艦は私は驚いたのですが、記事では最新鋭艦をあてるのが適切と書かれていました。ここはプロはさすがに違うなと思いました。

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千利休は切腹していない?

 朝日新書 中村修也著「千利休 切腹と晩年の真実 新史料を読み解き、実像に迫る。利休は切腹せず、晩年を九州で過ごした!」の感想です。前半は良いです。が、後半が(苦笑)。
 千利休といえば「わび茶」といわれますが、それは後世(江戸時代)の人間が作り上げた話であり、当時はそういう風にはいっていないし、わび茶でもないという説明がまず続きます。茶道はよくわかりませんが、納得出来る説明です。
 次に切腹したと確認出来る史料はないと主張します。切腹についてふれられている当時の史料は二つあります。
 まずは、「多聞院日記」。ただし、最初に腹切りしたと書かれていて、その後、高野山に上がったとも書かれています。当時の人が書いたものですが、「伝聞」です。なので、これを切腹するように言われたが、最終的には追放ですんだと解釈することは出来ます。
 もう一つが一般的には千利休が切腹したという根拠になっている「北野社家日記」。首を斬って、木像と共に磔にしたと書かれています。ただし、前田玄以と山口げんばからの伝聞だと書かれていますので、日記を書いた本人の目撃ではありません。
 著者は他の三つの史料を示し、いずれにも千利休の木像が磔になったとかかれているので、これは事実だろうとしています。このうち、伊達藩家臣が国元へ送った手紙では、木像が磔は前代未聞だと書かれています。しかし、三つとも千利休本人が切腹したり、磔になったとは書かれていません。その一方で逐電したと書かれています。
 ほぼ同時に奈良で、「売僧」が鬼の扮装をして強盗を働き、つかまって磔になったという記録が複数あることを指摘しています。千利休が秀吉の怒りをかった原因として茶道具を高値で売りつけていたというのがあり、この行いも「売僧」と呼ばれています。なので、奈良の「売僧」の磔と千利休事件が混同された可能性があるのではないかとしています。
 千利休が切腹した話はやっぱり江戸時代になっていろいろと盛られて伝えられているようです。余りに描写が詳しいのは逆に怪しい証拠でしょう。千利休は見事に切腹したと言いたいので書かれた文章に思えます。
 「わび茶」にせよ「切腹」にせよ。どうやらこれもまた江戸時代に話が作られて、それが事実だとして広まった可能性は高いように思います。
 問題はその後です。千利休が切腹せず、追放されただけだとして、その後どうなったか?著者は九州で暮らしたと主張しています。根拠は秀吉の手紙に二度「りきう」が登場することです。一つは大政所へ名護屋城に滞陣中に「りゆうの茶を飲んだ」と書いていること。従来は千利休が切腹しているという前提で、これは千利流の茶だと解釈されていたとしています。しかし、そもそも千利流の茶というものは当時確立されていないというのが著者の主張でそれは納得出来ます。もう一つは聚楽第の際の指示の手紙で「りきうのこのみ」という部分があることです。これもまた従来は千利休風という解釈がされていたが、そもそもそれは何だ?千利休が生きていて、文字通り千利休が好きなよう風に作れという指示ではないかというのが著者の主張です。どちらも相応に説得力があります。千利休が切腹したという事実がないのなら、そう解釈することも出来ます。ただ、明確に千利休が生きていたとするにはやや弱いです。
 問題はその後です。細川が千利休の嫡子・道安に隠居領を豊後高田で与えたという史料が残っているのですが、これは名目は息子だが実際は千利休本人に与えたものだとか黒田孝高が千利休を助けて九州でかくまったとかいう主張は根拠がありません。せっかく、それまで従来の主張は根拠があやふやだ、思い込みがあるから、そう解釈するのだと言っていたのに自分でも同じことをしてしまっています。まあ、ありがちですが、残念です。
 
 千利休は切腹しておらず、逐電したか、追放された可能性は十分あるように思います。逃げた可能性が高いかなという印象を受けます。なので、木像を代わりに磔にしたのでしょう。そしてそれは珍しいので複数の人が記録しています。その一方で千利休本人についてはそれらでは触れられていませんから、やはり、磔になったのは木像だけの可能性が高いとは思います。しかし、その後は不明としかいいようがありません。もし、秀吉が千利休を許して、復権していたら、そのことが他の史料に明確に残っているはずです。それがないのは、逃亡してそのままだった可能性が高いのではないでしょうか?

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ASM-3はやはり生き残れず

 防衛省がASM-3の射程延長型を開発するという報道がされました。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20190317-OYT1T50060/
https://this.kiji.is/479968898923021409
 また、以下のように「12式地対艦誘導弾」の射程も延長するそうです。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20190319-OYT1T50250/
 前者と後者では元々のスタンスが違うので意味合いがやや異なっています。後者は「長距離巡航ミサイル開発へ」が主題になっています。どちらかというと批判的なニュアンスです。単なるASMを「「長距離巡航ミサイル」といっていますし、JASSM-ERやJSMはもう忘れてしまったの?とも思います。その一方で前者はASM-3は開発したものの射程が短く、調達が見送られてきたと書かれています。つまり、ASM-3はおしまい、ということです。もちろん、射程延長型を開発するとはしていますし、数年以内の実用化を目指すとも書かれています。ですが、確定はしていません。
 文谷先生などと異なり、私自信は超音速ASMは有効だと考えています。しかし、読売の記事にあるように状況はASM-3が開発された時から大きく変わりました。JASSM-ERやJSMの導入が決まった現在では射程が精々200kmでは短いと判断されてしまいます。SAMが長射程化されていくこともあり、ASMも長射程化されています。これはASM-3だけの問題ではありません。護衛艦などに搭載されているSSM-1Bや陸自の12式地対艦誘導弾、米軍など西側各国で広く使われているハープーンなど従来の対艦ミサイルに共通する問題です。時代が変わってしまったのです。17式艦対艦誘導弾の射程がどれだけかは公開されていないので不明ですが、少なくともSSM-1Bや12式地対艦誘導弾よりは延伸されているはずです。しかし、射程距離が十分長くなければ短命に終わり、12式地対艦誘導弾同様に射程延伸型が開発されるかもしれません。
 結局、開発当時の要求仕様に問題があったということですが、それは開発側の認識の問題というよりも当時の状況によるものでしょう。まさか日本が数百kmを越える長射程ミサイルを装備することになるとは考えられなかったでしょうし、私も予想していませんでした。もし、当時、射程400-500kmが求められて入れば、ASM-3は違うものになっていたことでしょう。例えば、ターボジェットの一段目とラムジェットで超音速の二段目とかね。
 ASM-3の改良型、仮にASM-3ERとしておきましょうか、が本当に開発されるのかはわかりません。空自内のASM-3推進派がリークした記事に過ぎないかもしれません。ASM-3は射程が短いから要らないといわれたので、いやいや射程延長型をすぐに作れますよと反論しているだけかもしれません。JASSM-ERとJSMが実際に配備されるようになった時にASM-3ERに居場所はあるでしょうか?技術的な話ではなく、コスト的な話です。
 もう一つ、何に搭載するのか?という話もあります。もちろん、F-2です。ですが、F-2は後十年程度で退役が始まります。今から開発するとして早くても実用化されるのは2020年代前半。配備されて10年もしないうちに母機がなくなります。F-15J改(仮称)に搭載されるかは不明です。今、伝わってきているJ-MSIP機の近代化改装は米企業主導によるもののようです。F-15J改は、JASSM-ERの母機になります。それを考えるとコストをかけてASM-3ERを搭載可能にするでしょうか?F-35も無理です。そのためのJSMですから。仮称F-3?うん、それはあり得ます。あり得ますが、F-3がどういう機体になるのか不明です。ただ、射程が本当に400km級になるのなら、P-3CやP-1に搭載することは出来ます。現在は17式艦対艦誘導弾の搭載が考えられているようですが。もっとも、それを言えば、LRASMをP-1に搭載した方が母機の安全性が高まり更に良いのですけれど。 
 もちろん、攻撃を受ける側からするとASMの種類が多い方が対処は難しくなりますから、ASM-3ERの装備は望ましいですし、ASM-3でも良いと思います。射程が短いといっても低空から発射して100kmくらいはあるでしょうから、敵にAEW/AWACSがいなければ探知されることなく発射は可能です。それも踏まえるとASM-3の性能不足というよりはコストの話に思えます。
 ASM-3ERが生き残れるとしたら、海外企業と共同開発して輸出することでしょう。例えば、BAeと共同開発にして、欧州などで採用してもらえれば、生き残れます。米企業でも良いでしょう。うまくいけば、F-35に搭載出来るようになるかもしれません。しかし、日本単独で「国産」にこだわっているともはや厳しいでしょう。ま、政権が変われば別ですが。
 当然、SSMとして採用されれば良いのですが、さて、どうでしょう?Mk41 VLSでは発射できそうにありません。まあ、海自は専用発射筒主義なので大きくなることを除けば問題はないでしょうが。
 それから長射程ミサイルにはどうやって目標を探知・そこへ誘導するかという問題があります。これはASM-3ERに限らない話です。JASSM-ERやJSMの導入は結構ですが、その辺どうするのでしょうね?当然、UAVも活用するでしょうが。例の海自独自のAEWモドキが絡むのかどうか?
3/21/19
 JASSM-ERとLRASMを取り違えていたので訂正しました。LRASMの導入も近い将来ありそうですが。

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我が家の車達の近況

AW
 適度の散歩中。特に問題はなく、変わりもなし。エンジンは調子上々。ステアフィール最高。乗り心地はそれなりだけれど、古さを考えれば悪くはないでしょう。

エリーゼ
 1ヶ月半ほど寝ていたので、散歩させました。バッテリー?大丈夫。冬場は危ないので充電器で充電しておきましたから。(^^)乗り心地は相変わらず良好。ボディ剛性というか、剛性の高い板に乗っている感じ。ただ、これまたステアリングは気になって仕方がありません。ちょっと角張っている部分があるだけですが、街中で乗っていると交差点を曲がることが多くて、持ち直して回すと気になって気になって。そろそろオルタネーターを交換してもらわないと。今シーズンがそろそろ開幕ですから、交換しておかないと思い切り走れません。

クーガ
 タイヤをノーマルに戻して走ってみましたが、ざらざらとした感触があり、やはり早期に交換が必要です。やはりルマンVかな?それからワイパーブレードも要交換。これも早々に交換しないと。それとバッテリーもそろそろ交換しないといけないかな?でも、元気なんだよねえ。なんでだろう?そろそろへばってくるはずなんだけど??

フィエスタ
 ライトスイッチを交換しても当然のごとく現象が出ています。オートにセットしてエンジンをかけた際に二度に一度位点灯しません。また、点灯しても時々左が点灯していません。これが何故再現しないんだか。持って行く時間が取れなくて、そのままになっています。時間をとって預けて見てもらいますが。元々ディーラーオプションのHIDにしたのが原因でしょうから、切り分けようにノーマルのハロゲンに変えてもらってしばらくテストかな。

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外れも混じっていた(苦笑

 熊本で買った本シリーズ第三弾です。
幻冬社 荒木道信著 「蒙古襲来の新諸説」
の感想ですが・・・・外れでした。買う時にタイトルと帯しか見なくて、出版社を確認していませんでした。他のと同様のローカル系だと思い込んでました。帯には「帯に「勝因は「神風」ではなかった!? 九州地方の神社に伝わる古文書や水中遺跡をもとに蒙古軍撃退の謎を明らかにし真実の扉を開く!」」とあり、真実の扉が引っかかるものの面白そうだと思ったのですが・・・。

 まず、中身がばらばらの文章の列挙で、趣旨がいまいちよくわかりません。勝因とやらは明確にかかれていません。汲み取れたのは以下の2点
・文永の役で、蒙古軍は有明海に侵入し、干潟に兵を下ろし、その後満ちてきたので全滅した。
・蒙古に征服された高麗人や漢人(南宋)が日本が勝てるように手助けしてくれた。
です。前者は「あほか」としか言えません。仮に干潟を陸地を間違えて上陸してもずぶずぶだからすぐわかります。あなた肥後の人間の癖に干潟を見たことがないの?としか言えません。後者の内、高麗人がわざと有明海へ誘導したとありますが・・・。具体的な証拠は何もしめされていません。有明海に蒙古軍が侵入したと受け取れる文章が肥後の神社に残されているという程度です。
 ですが、それもどれだけ信頼できるか?後半に
・九州年号和水歴
・倭国(九州)王朝の公年号奴国
・神代文字で書かれた「上記」
などというのがあり、もう、アウトとしかいいようがありません(苦笑)。どっかの古墳を卑弥呼の陵墓と断定しているし(読み返すのも面倒でどこだったか確認していません)。私は邪馬台国は九州(恐らく北部九州)に存在した派ですが、卑弥呼の陵墓が特定されたとはまったく考えていません。そうでないか?とされるものはいくつかあるようですが(近畿の含めて)、天皇ですらきちんと特定されていないのが多いことを考えれば、仮に存在(現存)していたとしても、特定は不可能でしょう。それをさらっと卑弥呼の陵墓だと言い切るだけで、この本は、駄目です。ついでに言えば、邪馬台国は九州にあった国の一つにすぎず、後の大和朝廷(政権)とは直接関係ないと思っています。九州にあったクニの中で有力だったものの一つ、という程度でしょう。このクニは集落程度の規模にすぎなかったでしょうし。それが地理的に近いため、大陸と通交しており、たまたま記録に残っていて、なんとなく「やまと」に近い名前なので、当時の日本最大の国みたいに言われているだけではないかと思っています。
 話がそれました。更に個人的なとどめは、豊後宇佐八幡宮、豊後中津というのがあると書かれていること。豊後のどこかにも宇佐八幡宮があるんだ。分社かな?後者は旧中津江村かいな?・・・な訳ないだろうが!肥後の人間の癖に許さん!私は豊前人です!豊前の人間は豊後と一緒にされることは嫌うの!

#ついでにいうと、別の本ですが、日田を豊前と書いていた人がいたけど、あれもかなりやばい。日田は天領意識が強いしねえ。

 なお、 「水中遺跡をもとに」とあるのですが、少なくとも勝因に関する部分ではそのような文章はなく、水中で発見された蒙古の遺物があるというていどで、有明海で調査すれば、私がいうことが正しいことがわかるはずだ(沈んでいる蒙古の軍船があるはず)と書いているだけです。

 見た目よりも中身も薄いし、帰りの電車で読み終わりました。もう、大失敗。ちゃんと出版社と著者の略歴を確認してかわないと駄目だな。

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哨戒艦とFFMの名前

  読売新聞に哨戒艦は乗員30人で約1000tだと記事が出ました。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20190311-OYT1T50210/
以前も述べたように哨戒艦はなるべく簡素で低コストなものであるべきだと思います。砲すら不要で、RWS(機銃)だけで十分だと思います。もちろん、中古の3インチ砲を搭載するのならそれほどコストはかからないだろうという意見があるのは承知していますが、船体の強度やFCSなども考える必要があります。戦闘用ではないので、軽武装で十分です。その代わり、ヘリやUAVが発着できる飛行甲板と可能なら簡易な格納庫も設けましょう。固有の搭載機はなくてもかまいませんから。UUVを運用出来る施設もあってよいでしょう。
 さて、本題は哨戒艦そのものがどういう艦か?ではなく、名前です。FFMは22隻建造されますが、どういう名前になるのでしょうか?DEを引き継げば「川」の名前です。ただ、従来から、何で駆逐艦の下が軽巡と同じ川なの?という疑問を持っていました。ですので、ふさわしいのは、「植物」の名前でしょう。そう、松型駆逐艦と同じです。
 では、哨戒艦は?FFMが松型なら哨戒艦は海防艦で「島」の名前が良いでしょう。掃海艇は減少していきますし、哨戒艦もFFM同様に状況によっては掃海(実際は機雷掃討)を行うこともあるでしょう。水雷艇を引き継いで「鳥」も良いのですが、速度は速くないでしょうから、イメージがあいません。海自では「鳥」の名前はミサイル艇で使っています。ひうち型の後継を兼ねる可能性もありますが、「灘」の名前シリーズもあるかもしれません。ただ、数からするとどうでしょうね?12隻ということを考えるとやはり「島」が良いと思いますが。
 まあ、もし、FFMがDE引き継ぎで川の名前になったとしたらその時は哨戒艦が植物の名前でしょうね。さて、どうなるでしょう?DDHは大きく外したからなあ(苦笑)。まさか、旧国名を付けるとは想像すらしていませんでした。

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クーガのタイヤをノーマルへ

 もう3月ですし、雪が降ることもないでしょうから、クーガのタイヤをスタッドレスからノーマルに戻しました。つけたノーマルタイヤをよく見るとやはりかなり劣化してしまっています。
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もう要交換ですね。さて、何にしましょうか。SUV専用タイヤも色々ありますが、元々ついていたのが普通のタイヤなので、同じようにSUV専用じゃないタイヤにしようと思っています。乗り心地と静粛性重視で選びたいですね。第一候補はAWで実績のあるルマンです。後は教祖様絶賛のPROXES C1S SPEC-aを試したいとも思うのですが、トーヨータイヤというのがね。ただ、今、サイトを見るとC1Sはあるものの、SPEC-aがないですね。あれ?前に見た時にはあったのですが??SPEC-aなしでもまあいいかなあ。

 スタッドレスも来シーズンで終わりかな?距離は出ていないものの、時間は経過しているので劣化は進んでいるでしょうし。

 

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肥後国衆一揆

 熊本出版文化会館 荒木 栄司著「増補改訂 肥後国衆一揆 肥後戦国武将たちの最後の戦い」
 前回同様に九州旅行にいった時に熊本の書店で買った本の紹介です。

 同じ著者の本ですが、こちらは2012年と比較的新しいですが、これは増補改訂版で、元は1987年なのでこれまたかなり古い本です。 肥後国衆一揆は有名で、佐々成政の失政により一揆が勃発し、単独での鎮圧に失敗し、援軍を得てようやく鎮圧、佐々成政が責任を取らされて切腹して終結、とまあ、一般的な認識はそういうものでしょう。しかし、本書を読むと必ずしもそういう理解は正しくないと思いました。そもそも、これは「一揆」というのは不適切に思えます。
 一連の戦いの根本原因は国衆側と豊臣政権側の認識の違いにあったと言えそうです。豊臣軍が島津を打ち破った後、ほとんどの国衆は秀吉から安堵状をもらっています。ですので、佐々成政が肥後の領主になったとしても、従来の菊池、大友、島津などが佐々になっただけで、従来通りという認識でしたが、豊臣政権側は仮の安堵状で、正式には後日、検地をした上でそれぞれの石高などを確定するという認識でした。著者は豊臣政権の方針は中間支配層(国衆はこれ)を無くし、実際に耕作するは百姓から直接年貢を徴収することであったので、「国衆」は存続で出来なくなっていくとしていますが、それが一揆の直接の原因とはしていません。何故なら、国衆や百姓側にその認識はなかったと思われるからです。
 争いの原因は、簡単に言えば、秀吉から安堵状をもらっているのに佐々成政が検地だなんだというのは納得出来ない、ということです。現在なら裁判で・・・ということになる訳ですが、当時は簡単に武力・自力で解決ということになりえます。

 さて、「一揆」が不適切という思うと述べましたが、これは、「一揆」といえるように連帯していないからです。ほぼ、個々の国衆が別々に争っています。連携が見られたのは、益城郡の国衆中心の軍勢が隈本城を攻めた戦い位です。後は、縁者が援軍にいったという程度で、国衆が連帯して佐々に反抗したとは言えません。訴状や決議状のようなものを作成しての決起ではありません。契約、盟約もありません。ですから、これは「一揆」とはいいがたように思えます。

 序盤は兵力不足もあり、佐々側が苦戦しますが、増援を得て、個別撃破されていきます。個々には色々なエピソードが伝えられています。謀略裏切り、弁明にいこうとして謀殺などなど。落ち延びるものもいますが。

 佐々の後は、よく知られているように加藤清正と小西行長に分割されていますが、相良はそのまま領土を維持しています。肥後の国衆の中で相良だけは豊臣、徳川を通じて大名として存続していますね。また、小西行長が宇土城の普請を天草の国衆(肥後国衆一揆にはかわらなかった)に命じた際にも同じような戦いが起きています。天草の国衆も秀吉から安堵されているので従来通りという認識で、小西の与力なので、豊臣政権としての軍事行動では小西に従うが、城の普請は小西の私事なのでやらされる理由はないと応じなかったので、秀吉に指示をあおいだところ、「六ヶ敷ことを言う奴輩は殺してしまえ」と言われたので攻め滅ぼされてしまいます。

 全体的に見て、「秀吉が悪い」という印象を持ちます。そもそも最初の安堵状が説明不十分ですし、佐々成政も責任を押しつけられて自害させられています。天草にいたっては、秀吉から「普請の手伝いをせよ」と命じればなんの問題もなく片付いたことでしょう。

 なお、前回、甲斐宗立=親秀と甲斐親英は別人物としていると述べましたが、同じ著者ですが、本書では 親秀と親英を同一人物として扱っています。何か新しい史料が見つかってそう確認できたということでしょうか?全国国衆ガイドやWikiなどもその説を採用しているので、まあ、そういうことなのでしょうね。同じ人物が複数の名前を持つ(改名する)事例は多く、実名が混乱したり、取り違えられたり、別の人物と思われていたが実は同一人物だったということは過去いくらでも事例はありますので。主題ではないのでさらっと書かれているだけです。親秀=>鎮降=>親英という改名をした可能性もあるかもしれませんね。大友の支配から抜けたので「鎮」を捨てたかも。今後、新たな史料が見つかって、実は別人物でした、ということがあるかもしれません。個人的には親直(宗運)=> 親秀(宗立)=>親英と家督相続されたという仮説が正しいといいなあと思いますが(あくまで私の思いです)。

 それから、天草での戦いの中で加藤清正が木山弾正と一騎打ちをして、組み伏せられて首を取られかけた時に木山弾正の家来がやってきて、助けようと声をかけたら、木山弾正はぱっと言葉が出ず、加藤清正が「俺は下だ」と言ったので、木山弾正が殺されたという伝承があるそうです。事実はどうかはわかりませんが、興味深い話です。もし、これが事実で、この時、加藤清正が討ち取られていたら歴史は変わったでしょうか?まあ、多分、これは創作でしょうが。ただ、加藤清正というと武勇で有名ではありますが、実績を客観的に見ると朝鮮出兵の時位ですよね。後は肥後、天草の国衆との戦いと関が原位。これらは強力な敵と戦ったとは言えません。加藤清正は武勇優れるというのはイメージに過ぎないかも?とふと思いました。

 一連の戦いの記述が本書に占める割合は余りなく、3割位が資料集です。関連資料も記載されていますが、秀吉の「六ヶ敷ことを言う奴輩は殺してしまえ」という指示の史料は残念ながらありませんでした。「むつかしき」を「六ヶ敷」と書いているので秀吉の書状っぽいのですが。

 これも一部誤記や混乱らしいのもありますが、肥後国衆一揆について詳細に書かれた本は見たことがないので貴重な本だと思います。

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甲斐宗運を知っているか?

 熊本出版文化会館 肥後戦国史双書 荒木 栄司著「甲斐党戦記」
 九州旅行にいった時に熊本の書店で買った本の紹介です。一部記述の混乱や誤記らしい部分もありますが、良書だと思います。

 

 甲斐宗運という戦国時代の武将をご存知でしょうか?全国的にはほとんど知られていないと思いますが、あるゲームのファンなら、ああ、肥後の有力武将と思い出すかもしれません。Wikiにページがちゃんとありますし、ぐぐれは他にもヒットするので国衆レベルの武将としてはまあ知名度が高い方といえるでしょう。

 

 この本は甲斐宗運ではなく、甲斐一族について書かれた本ですが、残っている史料の関係で甲斐宗運が主人公になってしまっています。なお、Wikiの記述と異なっている部分もありますが、どちらが正しいのかは私には判断出来ません。初版が1989年と古いので、その後、新しい史料が見つかっており、Wikiの方が高いかもしれませんが。

 

  甲斐氏は日向の土持及び三田井氏の領域で勢力を広げ、その後、肥後の阿蘇氏の家臣になるものが出て、その中で有力な系統が二人あり、一つは御船近辺に領土を得た系統、もう一つが隈庄近辺に領土を得た系統です。同じ一族でどちらも阿蘇氏の家臣といいながら、この二つの系列はお互いにしばしば争っています。甲斐宗運は御船系です。宗運じゃ出家後の名前で、当初は親直と名乗っていたようです。親直の父親宣の時代には阿蘇氏の有力家臣になっていたようです。御船に領土を得たのは親宣の時代という説もあるようですが、確定したのは親直の代からのようです。隈庄系も同様に敦昌からで、敦昌と親宣は従兄弟同士です。

 

 甲斐氏は甲斐から日向にやってきて甲斐氏を名乗ったようですが、元々は菊池氏だという伝承があるようです。菊池武房の死後、家督を長男の隆盛の子時降と隆盛の弟である武本が争い、斬り合いになりどちらも命を落とし、武本の子武村が甲斐へ移住し、その子孫が南北朝期に日向へ移り住んだとされています。ただ、明確にそれを示し史料はなく、まあ、ありがちな粉飾のような気がします。阿蘇氏の家臣になり、肥後へ進出した頃に元々は肥後の菊池氏の子孫だと主張した、というのはありそうな話です。

 

 宗運の時代のその菊池氏は弱体化し、最後は大友から送り込まれた人物が家督を継ぎますが、後、大友本家と対立し、追い出されます。阿蘇氏も内紛があり、それらの過程で甲斐氏は活躍し、所領を増やしていきます。阿蘇氏は大友に属し、宗運も義鎮から「鎮」を賜り、 親直から鎮直に改名し、長男も親秀から鎮降に改名したと著者はしています。出家後の宗運ももちろん、大友宗麟の「宗」で、長男も出家後は宗立を名乗っています。
 大友の弱体後、北から龍造寺、南から島津が侵攻してきて奪い合いになり、龍造寺に起請文を出しているのですが、その一方で島津に属していた時期もあります。相対的には阿蘇氏そのものが小勢力に過ぎませんから、阿蘇氏や甲斐氏存続のために宗運は奔走したようです。島津に降った際には条件に阿蘇氏の奪われた所領を返してくれとか、引き伸ばしとしか思えないようなこともやっており、また、武略(この場合、謀略)に優れた武将と当時の人に評価されており、真田昌幸を連想します。
 ただ、甲斐氏は一枚岩ではなく、前述の通り、隈庄との争いもあり、宗運の子でも離反するものもあり、二男、三男、四男の3人まとめて粛清したと思われる話も伝わっています。
 島津が龍造寺と激しく争っているさなか、宗運は死去します。正確な年齢はわかりませんが、70歳代だったと見られます。
当然長男の親秀(鎮降=宗立)が跡を継ぐですが、武将としては能力が低かった人物とされており、同族と思われる甲斐兵庫頭(実名不明)との連立体制になったそうです。兵庫頭は宗運の弟かもしれませんが、伝わっている系図には登場しない人物なので不明です。小西時代に岩尾城に甲斐兵庫頭秋政という人物がいたという伝承はあるそうです。宗運の死後、島津方の花山城を甲斐氏が攻め、肥後の史料では甲斐相模守親秀、豊後では甲斐刑部大輔鎮降、島津では甲斐相模守が率いたとしています。
 肥後で鎮降という名前が史料に出てこないのは、父親の鎮直も含めて地元では使っていなかったか、改名後、すぐに出家してしまい、広まらなかったのかもしれません。

 

 その後、島津は龍造寺に打ち勝ち、九州統一寸前までいきますが、ご存知の通り、秀吉に屈します。その過程で甲斐氏は没落します。最終的には肥後の甲斐氏は佐々氏がやってきた後の肥後国衆一揆に加わり、親秀が死にます。なお、親秀とほぼ同世代と思われる阿蘇氏家宰、甲斐大和守親英という人物がいて史料に名前が残っていますが、これも系図に登場しないため宗運の系統なのか、それとも隈庄の敦昌の系統なのか、それとも更に別の系統なのかは不明です。Wikiでは、親英を宗運の長男としています。この本を読んだ限りでは親英と親秀は別人物に思えます。親英という名前からすると親直系統の人物に思えますので、親直の息子で、親秀の弟かもしれませんし、もしかすると親秀の息子かもしれません。宗運が70歳代で死去したとするとその長男は60歳前後でもおかしくありませんし、50歳代と考えるのが自然です。若くても40歳代でしょう。また、父と一緒に出家したとされていることを考えれば、その際に御船甲斐氏の名目上の家督は親秀の息子に譲っていた可能性はあります。そうすると阿蘇氏家宰と書かれていることから、親英は御船甲斐氏家督であってもおかしくはありません。素人の勝手な推測ですが。「全国国衆ガイド」には宗運の後、親英が家督を継いだとされています。つじつまが合う解釈は、宗運=>親秀=>親英でしょう。

 

 なお、日向に残っていた甲斐宗摂が秀吉の仕置きによりやってきた高橋元種に属して地位をたもっていましたが、朝鮮出兵期に謀殺されています。なお、宗摂は名前からして出家名でしょう。そうすると、宗運、宗立と同様に宗麟が出家した際に一緒に出家したものと思われます。宗摂について記述が混乱しており、和泉守、長門守を称しいたとうのは同じですが、本文の150ページでは、宗運や親昌の父親達の弟である誠運が長門守を称していたのでその系列ではないかと書いておきつつ、巻末では、敦昌の弟誠昌が長門守を称していたことから、誠昌の系統と思えるも書いています。二種類の系図があるのかもしれませんが。いずれにしても実名不明ですからわかりません。

 

 なお、宗運には毒殺せずがあります。親秀の妻がその父親(黒仁田豊後守)が離反し宗運に討たれたため、娘=宗運の孫に命じて毒殺させたという話です。一次史料では確認出来ない話ですが、状況的にはあり得なくもないと言えます。ただ、高齢になってから毒殺というのは不自然で、急死したので毒殺説が後に流布されたのではないかと個人的には思います。

 

 甲斐氏はその主家の阿蘇氏そのものが国衆レベル(戦国大名に分類する人もいますが、肥後の統一は果たしていない。阿蘇氏と争った相良氏は「大名」として生き残ってはいるけれど、戦国期には国衆に分類すべきでしょう)なので、それを考えれば、史料が残っている方でしょう。であるが故にゲームにも登場した(出来た)のだと思います。

 

 地元の本屋に立ち寄った際に地元の歴史本コーナーがあり、そこで選んで買ったのですが、昔、あのゲームをやっていた時代を思い出しました。実に懐かしい。ああ、あのゲームとは、それはシステムソフトの天下統一シリーズです。プレイした時間で言えば、大戦略シリーズと双璧。天下統一シリーズと比べると信長の野望シリーズはお子様向け(失礼)。いやあ、久しぶりにやりたくなったなあ。でも、動くかな、98(苦笑)。Win版を買ったような記憶もあるけれど。

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最近読んだ本

新潮選書 池内恵著 「【中東大混乱を解く】シーア派とスンニ派」
 少し前の本ですが、良作、お勧めです。中東のぐちゃぐちゃがよくわかります。ああ、よくわかるといっても、紛争・混乱の原因はこれだ!とすぱっとわかるという意味ではありません。「ぐちゃぐちゃ」であることがよく理解出来るという意味です。
 原因は宗派対立か否かとかかげて、結局、YesでありNoでもあると著者はしています。教義の違いというよりも、宗派を中心とした集団同士の対立であると説きます。また、シーア派は一般的には少数派とされますが、中東に限ればそうではないとしています。
 イラクでは民主主義が結果的に相対的に少数派であるスンニ派に不満を抱かせ、紛争を激化させたとしつつも、アメリカのやり方にも原因があるとしています。レバノンの宗派に配慮した独特の民主主義を説明し、その限界・崩壊も説明しています。
 著者は現状を、「まだらな状の秩序」ということを試みとして提唱していますが、言いえて妙でしょう。また、拒否権パワーが大きくなり、関係する大国・地域大国が、自分の譲れない分野だけで拒否権を行使するのでいつまでたっても紛争が解消しないとしています。

 素人(失礼)の変な本も多いですが、これはその筋の専門家による優れた著者です。厚さもたいしたことないですし、ぎりぎり通勤電車でも読めます。某有名ジャーナリストの本など読むよりこれを読みましょう。ただ、スパッと求めている回答は得られません。何故なら、実際にそういうものは存在しないからです。そういう原因を一言で表して欲しい人には向かないでしょう。でも、そんなもの、ほとんどの場合、ありませんよ?

光人社NF文庫 森史朗著「空母瑞鶴戦史[ソロモン攻防篇]ソロモン海の戦闘旗」
 読むのが辛いです。古い本という訳ではないのですが、古いスタイル。文中の会話が証言によるものか、著者の創作想像なのかの区別がつきません。印象からするとほとんどが著者の創作だと思えます。内容そのものが古いとか必ずしも思いません。山本連合艦隊司令長官(当時)への批判はありますし。ただ、南雲長官(当時)を無能と印象付ける描写が余りに多いのには気分がよくありません。問題点は確かにありますが、それだけではありませんし、主な責任は他にあることも多いです。ところで高木提督をわりと評価しているように思えるのは新鮮でした。へー、著者はそう思うんだ。

光人社NF文庫 鈴木五郎著 「ドイツ空軍の最強ファイター フォッケウルフ戦闘機」
 元々が昭和54年のサンケイ出版社刊「フォッケウルフ戦闘機」に加筆、訂正し、2006年に出た単行本の文庫版。元が古いので、これも、正直、読むのは辛いです・・・。通勤時読書用にとりあえず買ってみましたが・・・。オリジナルはどこかで埋もれているかも?なお、なんとなく、フォッケウルス=川西っぽいと思いました。

光人社NF文庫 白石良著 「特攻隊長のアルバム B29に体当たりせよ!「と龍」制空隊の記録」
 空対空特攻要員(五三戦隊 震天制空隊)になりながら生き残った人が残したアルバムと日記を元にした本。屠龍では、B29の迎撃どころか体当たりすら困難というのがよくわかります。震天制空隊は11人中8人戦死、うち体当たりは3人です。まあ、それでも高高度でなければ撃墜した人がいるんですから、凄いです。
 途中で効果がないと判断されて、特攻は取りやめになり、その後、教官になって終戦を迎えます。著者が実戦に参加して生き残った熟練搭乗員(空中勤務者)は貴重だったと書いているのですが・・・キャリアは一年半程度で、開戦前なら、ジャクに過ぎない人です。それが昭和20年になるともはや熟練搭乗員扱いされるのですから、戦争には勝てませんね。

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白爺12ヶ月点検終了

 今回もネッツに出して、エンジンオイル交換だけで、問題なく終了しました。普通そうだ?そうじゃなかったことがありましたからね(苦笑)。
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 最近、点検の時にしか担当営業氏と会いませんが、なんか老けたなあ。まあ、私も人のことを言えないですが。一号車を買った時、私は新入社員、担当営業氏も若手営業でしたが、お互いすっかりおじさん。もう30年の付き合いですが、彼から買った車は4台。多いのか、少ないのか、まあ、少ないかなあ。彼が定年になる前にせめてもう1台と思いますが・・・なかなかね。86は期待外れだったし、スープラ?2ペダルだけだしなあ。カローラ・スポーツのワゴンにMTがあったら、クーガの後継になることもあるかも!?

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