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関ヶ原の通説ずたずた

 青雲社 高橋陽介著、「一次史料にみる関ヶ原の戦い(改訂版)」の感想です。元々私家版だったものを批判も踏まえて改訂したものです。大変興味深く、面白く、そして恐ろしい本です。もし、一般的な戦国時代について書かれた本(研究書ではないもの)を読んで楽しむのが好きな方は読まない方が良いと思います。それから石田三成ファンも読まない方が良いと思います。イメージ、確実に変わります。ある意味では良い方向に、ある意味では悪い方向に。

 内容はまず一次史料(主に書状、一部当時の人が書いた日記や物語など)を示し、その解釈を列挙しているだけです。「関ヶ原の戦いの真実」とかのようにそれらを全体の流れを記述して、関ヶ原の戦いはこういうものだった、という記述はしていません。ひたすら、当時の資料にはこう書かれている、というのを列挙しているだけです。言い換えると「関ヶ原の戦い」について何も知らないが、当時の文章が読める人が一次史料を読んだら、こうなる、ということを述べている本です。
 当然ながら、一次史料=正しいとは限らないということも述べられています。誤りもありますし、嘘もあります。ですので、一つの史料だけではなく、複数の史料に書かれていて、ようやく確かだろうと考えています。ただし、私には当時の文章はほとんど理解出来ませんので、著者の解釈が正しいかどうかはわかりません。意訳の文章で違和感を覚える部分がなくもありません(全体としての意味に影響はないのですが)。でも、ここでは、正しいと信じる、としておきます。解釈の誤りが今後指摘される可能性もあるとは思います。史学はそういうものですから。

 大きな流れで言えば、以前感想を述べた近代文芸社、白峰旬著「関ヶ原合戦の真実ー脚色された天下分け目の戦いー」(以降、資料1と呼びます)と同じですが、著者の書き方は、方向性はかなり違います。

 さて、その内容は、通説をほぼ全て否定するものです(笑)。一般的に知られている「関ヶ原の戦い」は過半が誤りというか、一次史料では確認できないものだらけです。資料1でなど、これまで既に指摘されている内容も含まれています。一次史料に記述が無いことについては触れていませんので不親切と言えば不親切ですが、これは読者が自分でまとめれば良いのではないでしょうか。このわかることだけ記述するというのは私は好ましいと思います。せっかく良い発見、問題提起をしていても、その上に著者の考え、悪く言えば思い込みで、こうだったに違いない!と書き連ねる本よりははるかに良いです。まあ、ある程度歴史に興味がある人向けで、一般向けの本ではありませんが。資料1には残念ながらそういう部分もありました。

 既に通説が間違っているということが広まっているものもあります。例えば、秀忠軍による上田攻め。これは当初から予定されていたものであり、大きな戦闘が始まる前に家康からの指示で攻略を中止し、家康と合流すべく移動した、というのは、概ね定説になりつつあると思います(私の知る限りでは)。
 また、資料1で提起された小早川秀秋は合戦開始後に裏切ったのではなく、その前から東軍に通じており、関ヶ原の合戦開始後短時間で西軍が崩壊したという話もそれなりに広まりつつあると思いますし、そう遠くない将来に定説になるでしょう。ただし、そのタイミングは本書と資料1では異なりますので、どちらが定説になるかはまだわかりませんが。

 それ以外にも通説は誤りだらかです。ああ、「通説」と「定説」を分けて使っていますが、これは私がこの文章内で意図的にそうしています。「通説」は一般的に流布されている説、「定説」は学術研究上で広く支持されている説という意味で使い分けています。

 石田三成が首謀者である証拠はどこにもないとしています。当時の京の人間が書いたものには三成の名前は処刑された時しか出てきていないそうです。むしろ、大谷吉継が首謀者と見なされていたとしています。石田三成は、精々美濃方面軍指揮官ですが、長束正家の方が格が上で作戦の決定権は三成はもっていなかったとしています。むろん、真田や上杉と連絡をとってはいますが、それも取次に過ぎないのでしょう。書状の中で東軍は統制が取れていないが西軍はもっとひどいと冗談めかして書いていたりして、それは三成の書状で良く見られ、著者は一般的なイメージと異なり、明るく人に好かれるタイプではないかとしています。ああ、ここは珍しく著者の意見が強く出ています。意見が出ているのは、もう一つ、村越直吉は有能な連絡将校だと書いている部分だけです。また、戦術判断は的確でかなり悲観的にみていたとしています。通説では、戦下手とされ、自信家で、楽観的に、勝てるつもりでいた、というイメージですが、書状を見る限り、「西軍劣勢、勝てそうにない」と思っていたと思われます。
 また、当然ながら三成は上杉景勝(直江兼続)と申し合わせて、上杉が挙兵して家康を釣り出し、挙兵した訳でもありません。上杉が挙兵を知っていたと言える史料はないとしています。
 三成は直前まで家康は江戸から動いていないと思っていたようです。当時の三成は結果を知らないと繰り返し述べています。これは歴史を考える時に我々が頭にいれておかないといけないことです。我々は歴史を知っています(ただし、その歴史が本当かどうかはまた別の話ですが)。ですが、当時の人からするとそれは未来の話で知りようがありません。史料を読む際にはその点を忘れてはならないでしょう。
 三成は既に家康本隊が側まできていて、西軍の現状も踏まえて敗色濃厚と考えたのでしょう。毛利が既に東軍と通じている噂もあったかもしれません(少なくとも動きが悪いのは見えていたはずです)。自信満々で決戦の臨んだとは言えません。

 大谷吉継は元々家康に近かったものの宇喜多家での騒動での後始末で家康と対立したとしています。通説では三成の無謀な企てをとめようとしたとされていますが、どちらかと言えば逆で、三成を巻き込んだが吉継かもしれません。また、彼に関するエピソードもほとんど後世の創作だとしています(これは既に定説になりつある)。また、北国口に行ったことを示すものはないとしており、伊勢から大柿に入ったとしています。

 東軍は福島正則率いる福島組(加藤、黒田など西国大名中心)と池田輝政(この本では著者は「照政」と書いていますが、今回は一般的な「輝政}で通します)率いる池田組(東国大名中心)に分かれていたとしており、岐阜城攻は池田組担当で、福島組は岐阜の町を焼き払った後に移動したとしています。一番乗り争いをした形跡はありません。うまく協力してやっている印象です。この二組に分けられたという話は資料1の方が詳しいです。

 小早川秀秋は、松尾山にいた伊藤盛正を追い出して占拠し、この段階で西軍は東軍についたと見なして、大柿城(当時は大垣ではなく、大柿だったそうです)から宇喜多、小西、石田、島津らがこれを討つために移動したとしています。こも通説と異なっています。
 そして東軍の福島組は、小早川の後巻=後詰のために移動し、西軍と戦闘を行ったとしています。この時の西軍の陣地や配置も通説は誤りとしています。証言者により異なっていて矛盾しているのですが、それはどこから見たかの違いによる、相対的なものとしています。
 証言により、配置が様々なのですが、石田がいたりしますが、以下のように解釈すれば矛盾はないとしておます。

 島津  石田  福島組
 宇喜多 小西

  小早川

 つまり、どれを敵、どちらを前線と見なすかで相対的な配置がかわります。遺構とも一致します。当然ながら、鶴翼の陣などではありません。家康含めて東軍は一見、包囲され危機に陥ったりもしていません。これはすっきりしていて納得出来ます。小早川を攻めていたところに横から福島組が殴りかかったのですから、西軍が短時間で敗走しても不思議ありません。

 ここは資料1と微妙に異なります。資料1では先に大谷吉継がいて、大谷吉継救援に西軍主力が動いたとしています。そして、開戦と同時に小早川らが裏切って西軍が混乱して敗走したとしています。それに対して、本書では西軍主力が動いた段階では大谷は大柿にいたとしています。その根拠は池田輝政の書状なのですが、大谷吉継本人がいた証拠とは必ずしも言えないでしょう。大谷勢は大柿にとどまっていたとは言えると思いますが、大谷吉継は一部を率いて関ケ原(ああ、本書では山中というのが正しいとしていますが、面倒なので、合戦場は、関ヶ原のまま通します)に先に移動していたかもしれません。
  さて、どちらが正しいかなのですが、資料1は開戦と同時に小早川秀秋らが裏切り、西軍が混乱状態に陥り敗北したとしていますがこれでは辻褄はありません。大谷吉継救援に西軍主力が動いたということは、大谷吉継は、西軍主力が到着する前に敵と戦闘または対峙していたはずです。そうでなければ、「救援」する必要はありません。大谷吉継と小早川秀秋らが布陣していたところへ、福島組がやってきて、それを西軍主力が救援に行った、というなら理解出来ますが、福島組がやってきたのは西軍主力が山中へ移動した後です。では、大谷吉継は誰と戦っていたのでしょう?それは小早川秀秋としか考えられません。資料1が言うように 大谷吉継が先に山中にいたとしても、その段階で小早川秀秋らは敵でなければおかしいでしょう。ですから、開戦と同時に裏切ったのではありません。大谷吉継がいつ移動してきたかは別にしても、小早川秀秋を攻撃しようとしていた西軍力の横から福島組が殴りかかったので、西軍主力は持ちこらえられず、短時間で敗走したと解釈するのが自然だと思います。
 本書では、大谷吉継がいつ山中へ移動したのか?福島組との戦いで戦死(自刃)したのか?それは触れられていません。ここは難点の一つでしょう。が、わかることだけ述べるというスタンスの本ですから仕方ないですし、それはそれで正しいと思うます。普通なら、資料はないが、こうだったんだろう、状況からこうだと考えられると、と既述されるところですが、そういうことはしていません。

 当然ながら脇坂らの開戦後の連動寝返りもありえませんん。本書ではそもそも脇坂安治は関ヶ原におらず、大津城に籠城してと思われるとしています。そうであれば、一緒に寝返ったとされる朽木、小川、赤座が処分されたのに脇坂だけ当初から通じていたとして処分されなかった、というよりも説得力あります。最初から東軍だったのですから。じゃあ、朽木、小川、赤座はいったいどこでなにしていたの?というのは、触れられていません。資料1でも、朽木元綱、赤座直保は参戦していないのでは?と書かれています。ただし、脇坂安治、小川祐忠、祐滋は、小早川秀秋と共に開戦時に裏切ったとしています。ただし、根拠は近くとはいえ、現場にいなかった人物の書状によるものですので、名前が間違っている可能性もあると思います。脇坂安治の大津城籠城は信じられそうです。その他の人物は?新たなる資料の発掘を待つほかないでしょうね。

 井伊の抜け駆けなんてものも存在していません。そもそもああいう風に対峙して戦闘開始した訳ではありませんから。完全創作だとしています。

 毛利は所謂、関ヶ原の戦い前に徳川と和議を結んだとしています。吉川広家だけではなく、毛利秀元も同意の上ですし、大阪の輝元も同意しています。それなら輝元が大阪城に籠城して徹底抗戦しなかったことがすんなり理解出来ます。それでも領地を減らされたのは輝元が名実ともに西軍の総大将だったからでしょう。

 島津は三成などが西軍首脳と意見対立があり、関ヶ原の合戦開始後、戦闘に参加せず、西軍の敗北がほぼ決まってから前へ中央突破して退却したとされていますが、これも明確に否定しています。当初から戦闘に参加しており、その退却も予定のルートであり、中央突破どころではなく(それが出来るならそもそも最初からそうしている)、精々敵中突破程度。また、島津は伏見城籠城を断られてしぶしぶ西軍についたのではなく、最初から西軍として行動しているとしています。

 北の政所は家康よりだったという通説がありますが、ここではむしろ西軍よりだったとしています。逆に言えば、淀殿側は西軍とある程度距離をおいていたのかもしれませんね。

 実に興味深く、私は知らなかった話は、秀吉の死後、淀殿を家康の正室にするという話があったということです。この話は大野治長と通じて妊娠したのでつぶれたという噂が当時流れたとしています。事実ははっきりしませんが、淀殿を家康の正室にして秀頼の後見とし、秀頼の成長後、豊臣政権を返す、というスキームを秀吉が考えてもおかしくはありません。我々はその後歴史がどうなったかを知っていますが(が、この本を読むと我々が知っている歴史も細部はかなり怪しいとわかりますが)秀吉は知りません。

 他にも盛りだくさんですが、それは是非、この本を読んで下さい。

 家康が勝つべくして勝ったように思えるのは江戸時代に神格化されたためで、負けてもおかしくなった、みたいな主張も見かけますが、本書に示された当時の一次史料からは、勝つべくして勝ったとしか思えません。資料1からは著者は反家康のようにうかがえますが、本書からはそういうバイアスは感じられません。ただ、こう書いてある、と述べているだけです。

 しかし、資料1読んだ時にも有名なエピソードのほとんどは後世(主に江戸時代)の創作だというのは頭ではわかっていても、えー、これもそうなの!?というの連続で、もう怖くなりました(苦笑)。今までどれだけ誤った情報を元に色々言ったり書いたりしたことか(苦笑)。歴史は怖いです。歴史そのものは不変ですが、「歴史」だと認識しているものは常に変わり得ます。しかし、今回はその度合が桁違いで(苦笑)。

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