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2017年8月

空襲警報発令

 朝、相方を車で送って行った帰りにラジオから北朝鮮が弾道弾を発射したと放送が。空中警報だ!Jアラートは今までも作動したことはあるものの、ラジオで聞いたのは初めてです。人生初空襲警報。(^O^)喜んじゃいけないですね。(^^;まあそれに、エリア対象外だったので携帯に通報はありませんでした。その観点からすると他地域に出された空襲警報を聞いた、が正しいかな??家に持ってTVをつけたらずっとそれ。既に通過したと。なら、空襲警報解除しようよ。Jアラートそのものは必要でしょう。まだ不完全な部分もあります。が、ともかく日本上空を弾道弾が通過するなら警報出すのは良いでしょう。日本が目標にされない限り、まず被害は出ませんが。
 問題はその後。通過したらもう被害は出ないし、破片が落ちてくるような状況かどうかもわかりますから、地震の後、つなみの危険はありませんというのと同じで、もう危険はありませんと解除を通知しましょうよ。ただ通過しただけで安全点検で列車をとめるのもやめましょうよ。
 なんというか、何かあった時に避難されるのが嫌だからやっているという感じがしてなりません。もっと効率的にやるべきでしょう。
 なお、今回、5:58に発射され、最初のJアラートは6:02だったそうですね。ラジオで聞いたのは6:07位でしたが。通過は6:07かな?速度やら違うので一概には言えませんが、仮に日本へ撃ちこまれたとして、Jアラートから着弾まで数分でしょう。その間に何が出来るか?確かに大したことは出来ません。が、緊急地震速報の方が時間的余裕はありません。くるとわかっているのといきなりくるのではかなり違うと思います。立っているだけよりもその場で伏せる、丸くなる方が被害は少ないでしょう。屋外にいるよるはまだ屋内の方がましでしょう。地下鉄の駅へかけこめれば、だいぶ違うでしょう。窓から離れるまたは壁際に移動する。机の下にもぐっても椅子に座っているよりはましでしょう。直撃すれば無駄?そうですね。でも、全員が直撃受ける訳ではありありませんからね。それは地震でも同じでしょう。そして仮に、核弾頭だったとしても、もろに爆風放射線を浴びるのと何かしらの遮蔽物の横にいるのとでは生存確率はかなり違うでしょうね。勿論、自分から見てどちらの方向に落ちるかはわからないでしょうから、そこは運不運でその後の運命は分かれるでしょうが。でも、ぼやっとつったていたら確率は下がるのは明らかです。
 ま、実際にそういう行動をとらないといけない可能性は現状では極めて低く、特に訓練や周知徹底も不要かもしれませんが、でも、知識として覚えてく方が良いのではないでしょうか?

 今回のような通過するだけで避難すべきかというと・・・ねえ。Jアラートの仕組みでは、発射されると1.発射と避難の呼びかけ、着弾する可能性がある場合には2.ただちに避難するように指示、な訳ですが、1.で避難するのは余りに無駄が多いのですよね。とはいえ、仮に着弾するとしても1.の段階で対応しないと2.ではもう間に合いません。2.をなるべく早く出せるように工夫はするとしても。やはり国としては出すしかないのでしょう。

 では、どうすればいいか?国へ求めるのは前述の通り、実害無い時は速やかに解除して無駄な安全点検などをせず、影響を最小限度にすることです。個人では?状況から本当に着弾する可能性があるのかどうかを判断するしかないでしょう。無理?まあ、正確には。とはいえ、いきなり北朝鮮はミサイルを打ち込んでくる可能性はほぼないでしょう。なので、ある程度は事前にわかるはずです。半島有事が起きそうな状況、または既に起きている時にJアラートが通知されれば、それは「本番」である可能性があるので対応すべきでしょうね。そうでない時は、それは個人の責任で。私は逃げませんけれど。

 政府発表を信じるなら途中で三つに分離して着水したそうなので、これは「失敗」でしょうね。北の大本営発表がないのはやはり失敗ということでしょうし(明日あるか?)。ハワイ方向へ撃ったことにはなりますが、ハワイ近隣へ撃ちこめばえらいことになるので、その手前が目標地点だったのかと思いますが、いつもロフテッド軌道でテストしている訳にはいきませんから、仮にICBMだったらハワイを超えて、アメリカ西海岸の沖合が目標地点だったかも?ただ、最近の流れからするとグアムに撃ちこむとかいっていたやつでしょうからそれはないでしょうね・・・あれ?三つ?まさか、三発ほぼ収束させて撃ちこんだということはないよね?まさかね・・・。それなら最初から三発だとわかるだろうし。

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穴を埋めるかもしれない歌手

 先日の続きです。若い世代の歌手はよくわからない・知らないし、ほとんど聞かないのですが(平原綾香位)、もしかしたら本田美奈子の抜けた穴を埋めるかもしれない歌手がいます。ある時、その歌声を生で聞く機会があり、魅せられました。蘭華、です。まだ、かなりマイナーですが、ぽつぽつTVにも出ています。昨年の日本レコード大賞でアルバム「東京恋歌」が企画賞を受賞しました。デビューしたての若い歌手ではなく、下積み生活は長いようですが、素敵な歌声です。作詞作曲もおこない、演歌っぽい要素を取り入れつつ、また、アジアの楽器も取り入れていて独特の世界を作り上げています。良かったら、「東京恋文」がここで流れるので、
http://rankaweb.net/ちらっとでもいいので聞いてみてください。

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森口博子は不運か?

 いつもと全然違うネタです。ブログでほとんど取り上げることはありませんが、色々な音楽を聞いています。その中でも、自分と世代が近い歌手の歌を良く聞いています。色々な人の歌を聞きますが、誰か一人選べと言われると、中森明菜、を選びます。なにせ、それまでアイドルとかまったく興味が無かった私を引きずり込んだ歌い手ですから。
 森口博子は実はそれに匹敵します。ご存じの通り、デビュー曲「水の星へ愛をこめて」は、Zガンダムの主題歌で、「森口博子」という歌手を意識せず、良い歌、声だなあと思って聞いていました。正直、どういう顔なのかも当時はわかっていません。その後、バラドルとしてTVに出始めて、1990年代には全盛期を迎えます。この頃にようやく「歌手」として認識し、歌を聞きだしました。が、それが過ぎるとまた歌の仕事が減り、うまいのだからもっと歌わせれば良いのに、不運だなあと私が思う時期が長く続きました。だって、TVの音楽番組で、申し訳ないけれど、下手としか言いようがない歌手と称する人の歌がたくさん流れているのです。そんなの出すなら、森口博子を出せよと思ってました。
 もう一人、この二人に並ぶ歌手がいます・・・いや、いました。それは本田美奈子です。彼女はもうこの世にはいません。三人の歌は私にとっては他の歌手とは違い、大げさに言えば、心に直接響いてきます。魂に届くというか(余りこういう表現得意じゃないので)。末期の本田美奈子の歌が本当に命を削っているように思えます。三人の歌・声は三人三様です。似通っているから好きだという訳でもないようです。

 時は流れて、自分も彼女も所謂、「アラフィフ」になった今日。森口博子はBSですが、Anison Daysというレギュラー番組のMCを務めています。MCと言いつつも必ず、自分でも1曲歌っています。ゲストは2曲かな?で、誰がどうとは言いませんが、あれ?この人こんなに下手だったんだと思うことも(苦笑)。それに対して、森口博子の上手なこと。むろん、好み、はあると思います。車もそうですが、私は平均値からずれていますから。世間の評価はわかりません。
 中森明菜は・・・・一時復活の兆しがあったものの、また沈み込んでします。そして何よりも、声が出ていません。あれでも最悪の時期と比べればかなりましですが・・・でも、昔と比べると・・・。それでもCDが出れば買って聞いますが、聞いていて悲しくなってしまいます。本田美奈子は既にこの世にありません。それと比べると森口博子の歌は変わらず・・・いや、ますますよくなっている気すらします。
 30年前に、誰が30年後にこんな状況になると予想出来たでしょうか?30年前、森口博子は一発屋としてそのまま消えていくか(実際、そうなりかけた)、精々、バラドルとして生き残っている(井森美幸とか山瀬まみのように)としか思わなかったでしょう。何故そうならなかったのか?それは彼女が強く、本当に強く歌い続けたいと思い、行動した結果でしょう。
 今、私は歌手森口博子は不運だとは思いません。むしろ、幸運だったと思っています。30年以上、歌い続けれられる歌手はそうそういませんから。後期高齢者になっても「水の星へ愛をこめて」を歌う彼女を見たいものです。もちろん、新曲もね。ま、私が生きていたらですが(笑)。

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関ヶ原の通説ずたずた

 青雲社 高橋陽介著、「一次史料にみる関ヶ原の戦い(改訂版)」の感想です。元々私家版だったものを批判も踏まえて改訂したものです。大変興味深く、面白く、そして恐ろしい本です。もし、一般的な戦国時代について書かれた本(研究書ではないもの)を読んで楽しむのが好きな方は読まない方が良いと思います。それから石田三成ファンも読まない方が良いと思います。イメージ、確実に変わります。ある意味では良い方向に、ある意味では悪い方向に。

 内容はまず一次史料(主に書状、一部当時の人が書いた日記や物語など)を示し、その解釈を列挙しているだけです。「関ヶ原の戦いの真実」とかのようにそれらを全体の流れを記述して、関ヶ原の戦いはこういうものだった、という記述はしていません。ひたすら、当時の資料にはこう書かれている、というのを列挙しているだけです。言い換えると「関ヶ原の戦い」について何も知らないが、当時の文章が読める人が一次史料を読んだら、こうなる、ということを述べている本です。
 当然ながら、一次史料=正しいとは限らないということも述べられています。誤りもありますし、嘘もあります。ですので、一つの史料だけではなく、複数の史料に書かれていて、ようやく確かだろうと考えています。ただし、私には当時の文章はほとんど理解出来ませんので、著者の解釈が正しいかどうかはわかりません。意訳の文章で違和感を覚える部分がなくもありません(全体としての意味に影響はないのですが)。でも、ここでは、正しいと信じる、としておきます。解釈の誤りが今後指摘される可能性もあるとは思います。史学はそういうものですから。

 大きな流れで言えば、以前感想を述べた近代文芸社、白峰旬著「関ヶ原合戦の真実ー脚色された天下分け目の戦いー」(以降、資料1と呼びます)と同じですが、著者の書き方は、方向性はかなり違います。

 さて、その内容は、通説をほぼ全て否定するものです(笑)。一般的に知られている「関ヶ原の戦い」は過半が誤りというか、一次史料では確認できないものだらけです。資料1でなど、これまで既に指摘されている内容も含まれています。一次史料に記述が無いことについては触れていませんので不親切と言えば不親切ですが、これは読者が自分でまとめれば良いのではないでしょうか。このわかることだけ記述するというのは私は好ましいと思います。せっかく良い発見、問題提起をしていても、その上に著者の考え、悪く言えば思い込みで、こうだったに違いない!と書き連ねる本よりははるかに良いです。まあ、ある程度歴史に興味がある人向けで、一般向けの本ではありませんが。資料1には残念ながらそういう部分もありました。

 既に通説が間違っているということが広まっているものもあります。例えば、秀忠軍による上田攻め。これは当初から予定されていたものであり、大きな戦闘が始まる前に家康からの指示で攻略を中止し、家康と合流すべく移動した、というのは、概ね定説になりつつあると思います(私の知る限りでは)。
 また、資料1で提起された小早川秀秋は合戦開始後に裏切ったのではなく、その前から東軍に通じており、関ヶ原の合戦開始後短時間で西軍が崩壊したという話もそれなりに広まりつつあると思いますし、そう遠くない将来に定説になるでしょう。ただし、そのタイミングは本書と資料1では異なりますので、どちらが定説になるかはまだわかりませんが。

 それ以外にも通説は誤りだらかです。ああ、「通説」と「定説」を分けて使っていますが、これは私がこの文章内で意図的にそうしています。「通説」は一般的に流布されている説、「定説」は学術研究上で広く支持されている説という意味で使い分けています。

 石田三成が首謀者である証拠はどこにもないとしています。当時の京の人間が書いたものには三成の名前は処刑された時しか出てきていないそうです。むしろ、大谷吉継が首謀者と見なされていたとしています。石田三成は、精々美濃方面軍指揮官ですが、長束正家の方が格が上で作戦の決定権は三成はもっていなかったとしています。むろん、真田や上杉と連絡をとってはいますが、それも取次に過ぎないのでしょう。書状の中で東軍は統制が取れていないが西軍はもっとひどいと冗談めかして書いていたりして、それは三成の書状で良く見られ、著者は一般的なイメージと異なり、明るく人に好かれるタイプではないかとしています。ああ、ここは珍しく著者の意見が強く出ています。意見が出ているのは、もう一つ、村越直吉は有能な連絡将校だと書いている部分だけです。また、戦術判断は的確でかなり悲観的にみていたとしています。通説では、戦下手とされ、自信家で、楽観的に、勝てるつもりでいた、というイメージですが、書状を見る限り、「西軍劣勢、勝てそうにない」と思っていたと思われます。
 また、当然ながら三成は上杉景勝(直江兼続)と申し合わせて、上杉が挙兵して家康を釣り出し、挙兵した訳でもありません。上杉が挙兵を知っていたと言える史料はないとしています。
 三成は直前まで家康は江戸から動いていないと思っていたようです。当時の三成は結果を知らないと繰り返し述べています。これは歴史を考える時に我々が頭にいれておかないといけないことです。我々は歴史を知っています(ただし、その歴史が本当かどうかはまた別の話ですが)。ですが、当時の人からするとそれは未来の話で知りようがありません。史料を読む際にはその点を忘れてはならないでしょう。
 三成は既に家康本隊が側まできていて、西軍の現状も踏まえて敗色濃厚と考えたのでしょう。毛利が既に東軍と通じている噂もあったかもしれません(少なくとも動きが悪いのは見えていたはずです)。自信満々で決戦の臨んだとは言えません。

 大谷吉継は元々家康に近かったものの宇喜多家での騒動での後始末で家康と対立したとしています。通説では三成の無謀な企てをとめようとしたとされていますが、どちらかと言えば逆で、三成を巻き込んだが吉継かもしれません。また、彼に関するエピソードもほとんど後世の創作だとしています(これは既に定説になりつある)。また、北国口に行ったことを示すものはないとしており、伊勢から大柿に入ったとしています。

 東軍は福島正則率いる福島組(加藤、黒田など西国大名中心)と池田輝政(この本では著者は「照政」と書いていますが、今回は一般的な「輝政}で通します)率いる池田組(東国大名中心)に分かれていたとしており、岐阜城攻は池田組担当で、福島組は岐阜の町を焼き払った後に移動したとしています。一番乗り争いをした形跡はありません。うまく協力してやっている印象です。この二組に分けられたという話は資料1の方が詳しいです。

 小早川秀秋は、松尾山にいた伊藤盛正を追い出して占拠し、この段階で西軍は東軍についたと見なして、大柿城(当時は大垣ではなく、大柿だったそうです)から宇喜多、小西、石田、島津らがこれを討つために移動したとしています。こも通説と異なっています。
 そして東軍の福島組は、小早川の後巻=後詰のために移動し、西軍と戦闘を行ったとしています。この時の西軍の陣地や配置も通説は誤りとしています。証言者により異なっていて矛盾しているのですが、それはどこから見たかの違いによる、相対的なものとしています。
 証言により、配置が様々なのですが、石田がいたりしますが、以下のように解釈すれば矛盾はないとしておます。

 島津  石田  福島組
 宇喜多 小西

  小早川

 つまり、どれを敵、どちらを前線と見なすかで相対的な配置がかわります。遺構とも一致します。当然ながら、鶴翼の陣などではありません。家康含めて東軍は一見、包囲され危機に陥ったりもしていません。これはすっきりしていて納得出来ます。小早川を攻めていたところに横から福島組が殴りかかったのですから、西軍が短時間で敗走しても不思議ありません。

 ここは資料1と微妙に異なります。資料1では先に大谷吉継がいて、大谷吉継救援に西軍主力が動いたとしています。そして、開戦と同時に小早川らが裏切って西軍が混乱して敗走したとしています。それに対して、本書では西軍主力が動いた段階では大谷は大柿にいたとしています。その根拠は池田輝政の書状なのですが、大谷吉継本人がいた証拠とは必ずしも言えないでしょう。大谷勢は大柿にとどまっていたとは言えると思いますが、大谷吉継は一部を率いて関ケ原(ああ、本書では山中というのが正しいとしていますが、面倒なので、合戦場は、関ヶ原のまま通します)に先に移動していたかもしれません。
  さて、どちらが正しいかなのですが、資料1は開戦と同時に小早川秀秋らが裏切り、西軍が混乱状態に陥り敗北したとしていますがこれでは辻褄はありません。大谷吉継救援に西軍主力が動いたということは、大谷吉継は、西軍主力が到着する前に敵と戦闘または対峙していたはずです。そうでなければ、「救援」する必要はありません。大谷吉継と小早川秀秋らが布陣していたところへ、福島組がやってきて、それを西軍主力が救援に行った、というなら理解出来ますが、福島組がやってきたのは西軍主力が山中へ移動した後です。では、大谷吉継は誰と戦っていたのでしょう?それは小早川秀秋としか考えられません。資料1が言うように 大谷吉継が先に山中にいたとしても、その段階で小早川秀秋らは敵でなければおかしいでしょう。ですから、開戦と同時に裏切ったのではありません。大谷吉継がいつ移動してきたかは別にしても、小早川秀秋を攻撃しようとしていた西軍力の横から福島組が殴りかかったので、西軍主力は持ちこらえられず、短時間で敗走したと解釈するのが自然だと思います。
 本書では、大谷吉継がいつ山中へ移動したのか?福島組との戦いで戦死(自刃)したのか?それは触れられていません。ここは難点の一つでしょう。が、わかることだけ述べるというスタンスの本ですから仕方ないですし、それはそれで正しいと思うます。普通なら、資料はないが、こうだったんだろう、状況からこうだと考えられると、と既述されるところですが、そういうことはしていません。

 当然ながら脇坂らの開戦後の連動寝返りもありえませんん。本書ではそもそも脇坂安治は関ヶ原におらず、大津城に籠城してと思われるとしています。そうであれば、一緒に寝返ったとされる朽木、小川、赤座が処分されたのに脇坂だけ当初から通じていたとして処分されなかった、というよりも説得力あります。最初から東軍だったのですから。じゃあ、朽木、小川、赤座はいったいどこでなにしていたの?というのは、触れられていません。資料1でも、朽木元綱、赤座直保は参戦していないのでは?と書かれています。ただし、脇坂安治、小川祐忠、祐滋は、小早川秀秋と共に開戦時に裏切ったとしています。ただし、根拠は近くとはいえ、現場にいなかった人物の書状によるものですので、名前が間違っている可能性もあると思います。脇坂安治の大津城籠城は信じられそうです。その他の人物は?新たなる資料の発掘を待つほかないでしょうね。

 井伊の抜け駆けなんてものも存在していません。そもそもああいう風に対峙して戦闘開始した訳ではありませんから。完全創作だとしています。

 毛利は所謂、関ヶ原の戦い前に徳川と和議を結んだとしています。吉川広家だけではなく、毛利秀元も同意の上ですし、大阪の輝元も同意しています。それなら輝元が大阪城に籠城して徹底抗戦しなかったことがすんなり理解出来ます。それでも領地を減らされたのは輝元が名実ともに西軍の総大将だったからでしょう。

 島津は三成などが西軍首脳と意見対立があり、関ヶ原の合戦開始後、戦闘に参加せず、西軍の敗北がほぼ決まってから前へ中央突破して退却したとされていますが、これも明確に否定しています。当初から戦闘に参加しており、その退却も予定のルートであり、中央突破どころではなく(それが出来るならそもそも最初からそうしている)、精々敵中突破程度。また、島津は伏見城籠城を断られてしぶしぶ西軍についたのではなく、最初から西軍として行動しているとしています。

 北の政所は家康よりだったという通説がありますが、ここではむしろ西軍よりだったとしています。逆に言えば、淀殿側は西軍とある程度距離をおいていたのかもしれませんね。

 実に興味深く、私は知らなかった話は、秀吉の死後、淀殿を家康の正室にするという話があったということです。この話は大野治長と通じて妊娠したのでつぶれたという噂が当時流れたとしています。事実ははっきりしませんが、淀殿を家康の正室にして秀頼の後見とし、秀頼の成長後、豊臣政権を返す、というスキームを秀吉が考えてもおかしくはありません。我々はその後歴史がどうなったかを知っていますが(が、この本を読むと我々が知っている歴史も細部はかなり怪しいとわかりますが)秀吉は知りません。

 他にも盛りだくさんですが、それは是非、この本を読んで下さい。

 家康が勝つべくして勝ったように思えるのは江戸時代に神格化されたためで、負けてもおかしくなった、みたいな主張も見かけますが、本書に示された当時の一次史料からは、勝つべくして勝ったとしか思えません。資料1からは著者は反家康のようにうかがえますが、本書からはそういうバイアスは感じられません。ただ、こう書いてある、と述べているだけです。

 しかし、資料1読んだ時にも有名なエピソードのほとんどは後世(主に江戸時代)の創作だというのは頭ではわかっていても、えー、これもそうなの!?というの連続で、もう怖くなりました(苦笑)。今までどれだけ誤った情報を元に色々言ったり書いたりしたことか(苦笑)。歴史は怖いです。歴史そのものは不変ですが、「歴史」だと認識しているものは常に変わり得ます。しかし、今回はその度合が桁違いで(苦笑)。

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大艦巨砲主義は常識ではなかった

 一ノ瀬俊也著、講談社現代新書 「飛行機の戦争1914-1945 総力戦体制への道」の感想です。
 本書では、WWII当時の国民の中では飛行機中心という認識(コンセンサス)があったということをひたすら述べています。WWI以降、軍及び民間から一般国民向けの啓蒙書が出されており、その中では、かなり早い時期から航空機の重要性が説かれ、戦艦は航空機に勝てないというのが常識になっていたと主張しています。
 個々は読んでいただくのが良いですが、一部、軍人側で反論があった場合もあるようですが、全体としては航空機がもっとも重要という認識が軍民と問わずWWIIの段階ではあったと考えられます。それは陸海軍共通です。
 航空機中心は国家・国民総動員もやりやすいという面もあったとしています。航空機は総力戦の象徴であったとしています。そして、松根油も含めて、国民が生産に貢献しやすいのは確かですね。これが戦艦だとそうはいきませんから。そして、航空機が足らないから負けたという認識もあったはずとしています。
 そして、最後に「なぜ大艦巨砲主義の記憶が残ったか」として、戦後、日本は大艦巨砲主義だったから負けたという認識が生まれたのは何故かについて触れています。
 一つは日本人のとって数少ない「世界一」である大和・武蔵の伝説、美化によるものだろうとしています。
 二つ目は戦争指導の「真相」暴露的な報道が航空機に協力した民衆を免罪するため、戦争を戦艦主体として書き換えたためとしています。
 似た事例として戦争末期に日本軍がゲリラ戦を重用しようとしていたことが忘れ去られたとというのもあるとしています。
 これらは極めて重要な指摘だと思います。恐らく、何故戦争に負けたか、その理由が求められたので、「負けるべきして負けた」というのは受け入れられず、「方針が間違えていたから負けた」にしたかった、言い換えると「方針が正しければ勝てた・・・少なくとも負けなかった」と思いたかったのがあったのだと思います。全部帝国陸海軍が悪かったというのも同様でしょう。

 著者の一ノ瀬俊也氏は余り取り上げられていないことを積極的に取り上げて紹介されており、一連の著作は読む価値があると思います。

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ロードスターRF RS:相方試乗

 ちょっと忙しくて間が開きました。先週末、出かけた帰りに相方が寝ていてかつまだ時間があったのでマツダに連れて行って相方にロードスターを見せました。RFを見た相方は色が白だったこともあり、トヨタ2000GTみたいで恰好が良いと言います。なるほど、リアは横から見るとそう見えなくもないですね。まあ、昔懐かしいFRクーペのデザインですから。
 座ってもらうとシートリフターがないと。相方がチビなのでいつも気にします。86で運転席にあるのに助手席に無いため怒っていましたが、今回は運転席にもありません(苦笑)。まあ、シート前縁だけ確度を変えられますが。ただ、相方が座っても無事に外は見えました。86だと潜り込んで外がろくに見えないのでダメだと言われましたが、これだとちゃんと見えるのでリフターなくても大丈夫です。。シートそのものは、容易に予想出来ましたが、RSのレカロが良いとのこと。幌のファブリックシートはちょっと座って座面が柔らかすぎてダメとのこと。まあ、相方の好みだとそうなるでしょうね。内装などはとりあえず問題ないようです。グローブボックスが無いのには驚いていましたが。
 最初、営業氏が運転席側を開けて相方を座らせたのですが、左側の床の張り出しが気になってこれで運転できるのと言われました。なので、ポジションを合わせてもらうと・・・大丈夫だと。そう、確かにかなり床が盛り上がっていますが、ちゃんとドラポジ合わせれば気になりません。
 さて、試乗ですが、営業氏が先導するので二人で後からついてきて欲しいと。なので運転は私、助手席に相方です。さて、発進。最初、相方は乗り心地が良いねと。ただ、しばらく走ると、ちょっとコツコツくるかなあとも。長時間乗るとどうだろうと少し硬さを感じたようです。
 エンジン音は特に不満はないようです。エアコンの効きは良好。走っていて、相方が車が軽いと言い出しました。軽い?ふむ、幌と比べると軽快さは薄いのですが、まあ、絶対的に見れば重たい車ではないし、これだけ乗れば、「軽い」と感じるのは不思議ないです。そういう私も前回よりは軽く感じたのも事実です。まあ、前回、RFに試乗した際にはAWで行ったのでRFの方が重たいですが、今回はフィエスタなのでRFの方がある程度軽いです。なので、これは乗り手の感覚による違いでしょう。それとフィエスタは車格、車重よりもどっしり感じる車だということもあります。
 先導する営業氏が結構踏んでくれるので、こちらも踏んでおいかけていく羽目に(笑)。結果、前回よりもエンジン回して乗りましたが、これはこれで悪くないかなあ?2000回転も回らずに走らせることも出来ますが。
 全体的に見てRFは相方の印象は良く、楽しい車で乗ってみたい(所有して乗るという意味)と思うということでした。まあ、ND系だと幌じゃなくRFを選ぶよなあ。シートの違いもありますけれど、脚も相方は硬めが好きですし。反面、7500回転!というのは興味ありません(笑)。
 シートと脚は幌のRSでも良いのかもしれませんが、RFで、コツコツくるといっているので、幌だと厳しいでしょうね。カタログを見ていてVSの内装もいいねと言っていました。ノーマルのMTの乗り心地がどうかわからないのですけれど、相方の好みから言えば、それもまたありでしょうね。それとボディカラーはマシーングレーも良いねと。まあ、これも予想通り。それと年取ったらボケないようにMT運転出来るようにするのもいいかなと言っているので、相方がMTの練習するなら低速トルクがあるRFの方が良いでしょう。クラッチもステアリングも重たくありませんし。幌でも大丈夫じゃないかとは思いますが、やはりエンストしにくいのはRFでしょう。

 という訳で、相方に選ばせれば、RFのRSかVSになりそうです。幌にも一度乗ってもらって比べてもらう必要はあると思いますが、それはまだ先の話かな。それとそもそも981vsNDの結論が出てからでしょう。

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