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丸島和洋氏の著作

 最近、大河ドラマ「真田丸」の歴史考証担当者の一人である 氏の著作を続けて読みました。真田丸では、過去に読んで素晴らしかった平山優氏ともう一人黒田氏の三人で担当しています。 氏だけこれまで著作を読んだことがなかったのですが、真田信繁の書状を読む、を読んでみて素晴らしかったので他のも続けて読んでいます。丸島和洋氏の著作は何が良いかというとするすると読めるということです。普通?いえいえ、なかなかそうはいきません。大概はどこかでひっかかり、あれ?と思って読み返してみたり、本当に?と思うことがあります。が、丸島和洋氏にはそれはほとんどありません。あれ?と思うことがあっても、そういうことかとすぐ納得出来ます(あ、著者のミスや校正漏れの場合もあります。そういう時には、これは誤記だなとぱっとわかるということです。) 平山優氏ですら時々ひっかかりますし、それ以外の方の場合にはもっとひかかります。相性が良いというべきでしょうか?なので、他の方が読んでも同様に感じるかはわかりませんが。

「真田信繁の書状を読む」:星海社新書
 書状入門と言っても良いです。当時(概ね戦国時代)の書状の形式、書き方、紙、花押や朱印などについて知ることが出来ます。当時、月日は記しても、年を記す習慣が無かったので(何年と書いてあれば良い方)、いつの書状かを比定する作業が必要であることそのやり方についても書かれています。
 もちろん、残されている(原本不明で写しのみのも含む)真田信繁関連書状を個々に取り上げて現代語訳と解説がついています。少ないと感じるかもしれませんが、真田信繁クラスの人物のしては多く残っている方だそうです。考えてみれば、講談で幸村として有名になったとはいえ、元々は国衆の次男坊に過ぎません。辛うじて大名級、または小名(当時使われていない訳ではないのですが、個人的には「小名」という表現は好きではありません)級の所領を有していたとはいえ、まとまった土地ではなく城もなく、「給料」としてもらっていたに過ぎない人物です。表舞台での活躍も限られます。そういうレベルの人物としては豊富に残っていると言われると納得出来ます。
 なお、幸村と署名された書状が残されていますが、花押や戦死直前にも真田信繁と著名した署名した書状があることから、後世の偽造だろうとしていますし、同意出来ます。
  真田信繁の生年はいくつかの説がありますが、通説では早すぎるということを書状から示しています。信幸(信之)と歳の差は相応にあったと思われます。

「真田四代と信繁」:平凡社新書
 三代ではなくて?と思われるかもしれませんが、信綱は家督を相続していますから、幸綱、信綱、昌幸、信幸(信之)で四代です。なお、一般的に昌幸の父は、幸隆とされていますが、誤りで、幸綱であると示しています。幸隆と書かれた書状は残ってはいますが、一徳斉と一緒に書かれており、「ゆきたか」ではく、「こうりゅう」であろうとしています。これは現在ではほぼ定説になっているようです。

 真田氏も信綱までは一国衆に過ぎませんから、それほど一次資料は残されていません。江戸時代に作られた家系図には誤りが多く(特に実名)、親子関係が間違っていることが分かった事例は他にもあります。幸綱は長男だとされていますが、弟(次男)矢沢頼綱が三男であるとされた資料があり、綱吉という庶兄の存在を指摘しています。右馬助 という官途名を幸綱の父(頼昌とされる)が称しており、それを引き継いだ人物がいます。であれば、それが長子である可能性は高いでしょう。また、幸綱の母親は滋野氏娘とされていますが、そうではなく、幸綱の正室が滋野氏ではないかともしています。そうであれば、幸綱が家督を継いだのはその関係によるものと推測されます。なお、その場合、信綱以下の母親である河原氏は当初正室であったのが側室扱いにして正室として滋野氏を迎えたことになるでしょう。信幸と同じです。

 昌輝、昌幸らの「昌」はどこからきたのか私はよくわからなかったのですが、飯富虎昌の「昌」と同じく信晴からもらった(偏諱)のですね。晴信の「晴」は彼が将軍からもらった文字ですから、与えられず、武田ゆかりの「昌」の字を与えていたそうです。嫡男には「信」をもらって、通字の「綱」と合わせて、信綱とし、次男以下には「昌」をもらったのでしょう。昌幸は長男、次男どちらにも「信」をもらっていますが、これは昌幸が晴信(信玄)の側近だったので、もらえたのでしょう。武田家では格が高いと「信」、それより落ちると「昌」をもらっていたようです。なので、長男と次男以下では差がつくでしょう。

 実名(諱)は資料により異なっていたり(誤りだったり、途中で変わっていたり)する訳ですが、一次資料と状況、通字などからどれが後世の誤りかを確かめていく必要があります。現代でも、通説で実名が誤っている人物は少なくありません。幸綱と幸隆もそうです。さすがに幸村を実名と考える人はもう少ないでしょうが。悪いのは適当な家系図を作った江戸初期の人ですが(苦笑)。まあ、信幸ですら祖父の実名の間違いに気が付いていない位なので仕方ありません。ああ、何故そのようなことが起きるかといえば、当時一般的には実名で相手を呼ぶことはなかったというのが大きいでしょう。仮名か官途・受領名で呼ぶのが普通でしたから(家族でもそう)。信繁であれば、仮名が「源次郎」」、官途が「左衛門佐」なので、身内など親しい人であれば、源次郎、そうでない場合には、左衛門佐と呼ばれます。書状などでは、略して、真左、なんてこともあったようです。お互いわかっているので、区別出来れば良い、という書き方です。また、漢字も当て字が使われることも多々あったようです。これは恐らく、祐筆に口述筆記させるので、聞いた祐筆が、この漢字だろうと思って書く際に間違いが生じたのでしょう。音があっていれば余り気にしていないので、そのままになっていることもしばしば。偉い人が漢字を間違えるとその字に改めた例もあるようですね(真田関係ではないですが)。

「真田一族と家臣団のすべて」:新人物文庫
  真田一族及びその家臣人物伝を一般的に書かれた本です。良い本ですが、冒頭に真田四代の歴史を簡単にまとめた部分と歴代当主の項目で重複が多いのがちょっと気になりました。冒頭部分は編集側に言われて追加したものでしょうか?

 当主ですら資料が少なくはっきりしない点が多い(という断片的にわかっているに過ぎない)のですから、一族や家臣となるとわからないことだらけです。一次資料だけではどうにもならず、比較的信頼できると思われる二次資料も使われています。

 本来、真田家を継ぐはずだった信綱とその弟の子供らは小説などではほとんど登場しません。もちろん、真田丸にも登場しませんでした。しかし、信綱には与右衛門という息子がおり、越前松平家に使えています。昌輝の子(信正)も同様に越前松平家に使えています。与右衛門の子とされている人物は実は信正の子ではないかとしています。信綱が有していた書状類は昌幸には伝えられず、昌輝の子孫に伝えられているのがその傍証です。知られていない当主の兄弟もいるようです。綱吉は既にふれましたが、昌幸の子は他にもいた可能性があるようです。
 家臣になると更に資料は少なく良くわからなくなってきます。矢沢頼綱や頼幸の生年すらはっきりわかりません。矢沢頼綱は幸綱の弟、頼幸はその息子とされているのですが、没年(これは資料が残っている)から考えるとどうも微妙で、矢沢頼綱は長命で有名ですが、没年67歳という説もあるようです。1597年没なのですが、一般的には1518年生まれとされており、それだと79歳、しかし、67歳だと1530年生まれ。父とされる頼昌は1523年没と伝えられているのでありえなくなってしまいます。

 並べてみると
 綱吉:1510-1571
 幸綱:1513-1574
 矢沢頼綱:1518-1597
 常田降永:?-1572?

 信綱:1537-1575
 昌輝:1543-1575
 昌幸:1547-1611
 信伊:1547?-1632
 矢沢頼幸:1553-1626

 1518だとすると確かに幸綱の兄弟でしょう。しかし、嫡子頼幸が生まれたのは35歳の時で当時としてはかなり遅くなってしまいます。一方、1530年生まれなら23歳ですから、自然です。このように頼綱と頼幸の年齢差があり過ぎる気がします。もちろん、頼幸には嫡子がおらず、弟が継いでいるので、子供が生まれにくい血統だった可能性もあります。頼綱は当初綱頼を名乗っていました。勝頼による偏きも考えられますが、60歳位で改名するでしょうか?それなら息子ではないかと思えますが・・・・。
 では、間に一人いて、1518年に生まれた綱頼、生年不明の頼綱、1553年生まれの頼幸だとどうでしょう?当時十代で子供が生まれるのは普通です。ちょうど間をとって、1535年生まれとすると、綱頼17歳の時の子、18歳で長子頼幸誕生なので不自然ではありません。1585年頃から頼幸と連署し始めていますが、仮に1535年生まれだと1585年は50歳なのでちと早いかもしれませんが、32歳の息子に家督を譲っても不思議な年齢ではありません。
 まあ、単に子供が生まれるのが遅かったので、結果的に高齢になっても第一線で働き続けただけなのかもしれませんが・・・・。もしかすると今後新たな資料が発見されて、事実が分かるかもしれません。

 矢沢頼綱ですらその調子ですから、他の家臣の情報はもっと少ないです。真田丸で有名になった出浦昌相が忍の頭とされているのは「忍城」攻めで活躍したことが誤解されたのではないかとしています。ありそうな話です。まあ、忍の頭の方が物語としては面白いですが。

 下駄を投げつけられて歯がかけたとされる河原綱家は当時大阪にいたので犬伏にいるはずはなく、誤伝であると明確にされています。真田丸ではやや影が薄かったですが、実際には筆頭家老というべき存在だったようです。

「戦国大名の「外交」」:講談社選書メチエ
 戦国大名間の外交について述べられた本です。付随して戦国大名と国衆間の関係についても述べられてます。また、外交には書状がつきものなので、書状についても述べられています。これまでこのようにまとまった本は読んだことはなく、良く理解出来ました。
 外交は「取次」と呼ばれる存在が担います。一般的には重臣(城主級)と側近がペアになり取次を務めます。相手に出す書状は大名当主が出しますが、取次の副状がないと機能しません。一般的に後世の人間が考えるほど、戦国大名には専制君主と言える存在ではなく、家臣団の合意が重要であるからです。なので、「家臣もこの方針に同意していますよ」と示す副状が大事です。
 また、取次は相手から所領を与えられることもありました。これにより、外交関係が破たんしないように取次が働くという効果もあります。
 取次は外交関係が破たんして戦になった場合、その戦を主導することも多かったようです。ある意味、責任を取る、ということです。それもあり、取次は相手方よりになってしまうことも多かったようです。当主の方針と食い違ってしまった例も紹介されています。島津では虚偽の報告をしてまで取次がやりたいようにもっていこうとした例が報告されています。
 一般的には外交ルートは一つですが、北条氏と上杉氏の間では二つ併存した事例も紹介されています。これは北条氏側の事情によるもののようです。
 従属している国衆との間にも類似の関係、やり取りがありますが、この場合には、指南と呼ぶことが多かったようです。取次と異なり、その国衆のいる地域または隣接する地域による重臣が指南を務めたそうです。

 戦国時代に興味がある方は必読の本だと思います。

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