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検証 長篠合戦

 吉川弘文館、平山優著、「歴史文化ライブラリー382 検証 長篠合戦」の感想です。 
 良書です。ほとんどの内容は素直に納得できます。根拠なく決めつけていませんし、書き方に好感が持てます。
 遅れている東国、進んでいる西国という従来のイメージが正しくないことを資料や先行研究を元に示しています。まあ、織田徳川を「西国大名」と呼ぶのには抵抗がありますけれど。それは「東国」から見た時の話であって、「西国」出身の私からすると織田徳川は「東国」です。元々東西は京都中心の見方でしょう。畿内なら見て西が西国、東が東国ですから、織田、徳川も本来の意味では東国でしょう。
 また、織田系(徳川含む)と中国、四国、九州系勢力とは色々な違いもあります。それに上杉、武田、徳川はほとんど同じ南北軸上に位置しています。織田もその隣ですからね。この「西国」は別の名称を使うのが適切でしょうね。それを言えば、武田上杉北条を「東国」でひとくくりにするのも問題がありそうです。関東甲信越と東海でしょうか?実質、「織田家」は機内勢力なので、東海だと実態に合わないか。東国=関東甲信越、西国=近畿東海、あたりでしょうか?中国、四国、九州をひとくくりにするのが適切とは思いませんが、それをひとくくりにするとしたらその名称こそが「西国」でしょうね。この辺は著者が山梨県在住というのもあるでしょうね。甲府から見れば織田も徳川も西ですから。

 全体的な流れは「戦国の陣形」と同じです。そもそもそこに参考文献として取り上げられていたので本書を買ってきて読みました。この流れを「東国」派と呼んでおきます。それに対するのは著者に言わせれば「西国」派ということになるのでしょうが、私は「信長公記、外国人記録」派としておきます。著者は信長公記や外国人が残した記録の信頼性は高いもののそれはあくまで「西国」についてであり、「東国」には当てはまらないものも多いとしています。

資料の再評価
 従来(というか近年と言うべき?)資料価値が低いとされていた「甲陽軍鑑」「甫庵信長記」を再評価しています。まあ、甲陽軍鑑の再評価の流れはしばらく前からあるのですが、甫庵信長記まで評価しているのは意外でした。まだ戦国時代の経験者がいた時代に書かれているというのはわかります。現代からWWIIを見るよりはずっと近い過去ですからね。ただ、「信長公記」が史記だとすれば、「甫庵信長記」は史実をもとにした歴史小説だと思います。部分的には参考になるとは思いますが・・・。「当代記」も他に既述が無いが書状などで裏付けられる出来事も記載されているとして評価しています。ただ「三河物語」は私はそれほど信頼出来る資料だと思っていないのですが、世間では評価されているのでしょうか?「信長公記」と比べるとかなり信頼性は落ちる(見方が偏っているし)と思っています。「信長公記」でも誤りは当然あるので、ある資料に書かれているというだけで事実と受け取らず、他の資料と突き合わせたうえで「どうやら本当らしい」と評価することは必要です。
 甲陽軍鑑が信頼できない証拠とされていた「長閑斎」問題は、別人だと実証されたから崩れたとしているのですが、それだけで甲陽軍鑑が信頼出来る・出来ないを決めることは出来ないでしょう。これは著者が検証した事案なのでここだけはちょっと自分の業績として強調されているという印象を受けました。                                             

東国大名は遅れていたか?
 決してそんなことはないというのが著者の主張です。鉄砲についても、武田は軽視したことはなく、結局、織田との差は、鉄砲とその弾薬の入手性の違いに起因しているという主張です。これには同意出来ます。兵農分離は織田徳川も完全にされていないと論じていますがこれも納得できます。家臣とその家族を城下に住まわせたとしてもそれは必ずしも兵農分離を意味しないし、東国でも行われていたというのはそう言われるとその通りです。織田の先進性については十分それを証明する研究はないという指摘も納得出来ます。
 「戦国の陣形」と異なり、織田の軍役定書はほとんど残っていなくても他資料を見る限り、東国と同様であったはずとしています。結局、東国と西国で大きな違いはなく、基本的には同質だったというのが著者の主張です。織田の先進性の根拠を示せなければこれを覆ることは出来ないでしょう。明確な違いを示す資料が無ければ、違わなかったと考えるのは妥当です。
 鉄砲については、鉄砲そのもの調達にも苦労したでしょうが、弾丸と火薬の調達に武田は苦労したことを示しています。なお、戦場で回収された弾丸の調査が行われていて、70%位は国内産の鉛ですが、残りは20%中国、10%はタイ産だったそうです。これは武田だけではなく、織田側にも合わせたものですが。こういう考古学的調査も行われているのですね。また、鉛以外の弾丸も使われており、武田では銅、青銅が使われたようです。鉄もあったそうですが、加工が難しいのと銃身を痛めるので余り使われていないようですね。銅の材料に貨幣やら鐘なども使われているようです。
 この差は経済政策があ・・ということではなく、単純に地理的条件の違いだと著者は主張しています。これは自然で納得の出来る主張です。

騎乗突撃は行われたのか?
 騎乗戦闘が行われたかどうかは明快です。「西国」ですら行われていたことを著者は示しています。イメージだけではなく、実際に武田の領地で良馬が得られたこともきちんと示しています。宣教師が書き残した通常は下馬戦闘というのはあくまで「西国」のことであり、「東国」はもっと行っていたと主張しています。また、当時の馬は小型だから騎乗戦闘は無理という主張に対しても明確に反証を示しています。
 ただし、「武田騎馬軍団」が実在したという風には言っていません。あくまで戦術として騎乗戦闘が行われたということであり、上級武士だけではなく、騎乗の下級武士もいたという主張です。まあ、「武田騎馬軍団」は明治以降に西洋騎兵のイメージから作り上げられたものでしょうね。
 著者も状況に応じて用いられたとしていますし、部隊まるごと騎乗していたとは言っていません。まあ、ある意味普通、ですね。一つの部隊、ユニットを「備」と呼ぶならば、騎馬だけで一つの「備」が編成されていたのではなく、一つの「備」の中に騎馬の集団があり、それをここぞの時に突撃させたということでしょう。
 当然、長篠の戦でも騎馬を用いることはあったでしょう。ただ、騎馬だけで鉄砲に向かって突撃した、なんてことはないでしょうし、著者も主張していません。当初は射撃戦(弓含む)が行われ、武田方の矢玉が尽きたので突撃に切り替えられたのでしょう。
 織田方がどれだけの規模の野戦築城を行ったかは不明ですが、著者は過去の研究を取り上げた上で思われていたよりは小規模であった可能性を示唆しています。現地調査の結果大規模な遺構があったという報告はその後、誤認の可能性が高いとか。いずれにしても何等かのものが設置されており、武田方もそれを取り除く努力をしていることを示しています。なので、武田はある意味普通に戦っただけというのが著者の主張ですし、これはその通りでしょう。
 甲陽軍鑑ですら普段は下馬と書いている(それが正しいかどうかは別にして)ので、騎馬突撃はここぞの時に使う手段で普通の白兵戦では使われていない(よくある映画やドラマのように騎馬と歩兵が混雑となって白兵戦を行うというのではなく)ことは十分考えられます。あれでは騎馬の力が発揮できません。とはいえ、騎馬突撃(馬入り)が行われたと書かれていたとしても、それは騎兵だけの突撃とは限りませんね。一緒の歩兵もついていった可能性もありえます。当時の人にとってはどういうのを意味するのか常識の範囲内で分かったのでしょうが、後世の人間にはなかなか厳しいです。

何故、武田は惨敗を喫したのか?
 「数で負けた」が著者の主張です。兵力、鉄砲の数、そして何よりもその弾薬の量の違いに圧倒されたのであり、勝頼の指揮が駄目だったのでもなければ、信長が用意周到に野戦築城したからでもないとしています。
 双方の正確な数は不明ですが、少なくとも織田・徳川連合軍は武田よりも多いのは確実で恐らく倍以上でしょう。それが地形を利用して主力を隠蔽し(武田方に数を知られないようにし)、基本的に陣地(規模は別にして)にこもって最初は守りに徹し、弾薬がつきて射撃戦が継続出来なくなった武田方は後方が遮断されたこともあり、攻撃するしかなくなります。甲陽軍鑑では場中の高名というのが武田にあることを示しており、それは射撃戦の最中に前にでて射撃するものがおり(それも高名になるからでしょう)そうして倒れた敵の首を取ること(実際には鼻で代用)だそうです。矢玉飛び交う中なのでそうそう簡単には出来ません。また、実際に白兵戦へ移行した際に当然一番鑓、二番鑓が高名を得るのですが、激戦になって踏みとどまって生き残ったら、実際には一番に鑓をつけていなくても、「一番鑓」として評価されるとしています。それが相対的に劣勢になっても武田方が攻撃を続けた原因の一つではないかとしています。隠ぺいもあり、織田方の数を低く見つもってしまったことも一因に挙げています。合戦前、武田方には悲壮感などはなかったようだ、自信を持っていたようだとしています。宿老が無謀な戦をいさめたというのも、戦術的に勝てないということが理由でもなさそうです。その辺はさすがに甲陽軍鑑の創作、思い込みでしょう。
 射撃戦で勝てず白兵戦で劣勢になり、織田方が打って出る訳ですが、その後、追撃され、そこで多くの上級武士が踏みとどまり、討死しています。なので、勝頼(武田)が鉄砲に向かって騎乗突撃を繰り返して負けた、という訳ではありません。戦国時代は数が少ない側が勝った戦いもあり、数だけで勝負が決まる訳ではありません。なので、どうやら織田方の方が数が多いとわかっても、それで即負けるとは思わなかったでしょうし、それは不思議な話でもないでしょう。後世の我々からすると数、鉄砲で劣勢な側が陣地構築して守る敵を攻撃するのは理不尽で、無謀だと感じますが、当時の常識では必ずしもそうではないのでしょう。

 いやあ、すっきりします。この本の前編とも言える「長篠の合戦と武田勝頼」も読まないと。(^^)著者は織田の鉄砲を三千以上と考えているようですが、それは前編で記述されているようです。なお、以前も述べたと思いますが、織田の鉄砲は三千でもおかしくありません。織田勢が三万位と言われていますので装備率10%で三千です。軍役定書を元に鉄砲の装備率が低いと言われる上杉でも鉄砲の装備率は6%程度ですから、織田なら10%でも不思議ではありません。徳川も八千としたら、上杉と同程度で五百はあります。織田も上杉と同じ6%だとしても二千四百です。あくまで織田三万、徳川八千と言われる兵数が正しいと仮定したら、ではありますが、鷹巣山攻撃隊を除いても三千以上の鉄砲を有していても不思議ではありません。逆に信長公記のオリジナルの記述とされる千だと少なすぎる位です。武田も軍役定書上鉄砲が記載されている場合のはその人物の軍役中では10%位(時代により当然かわる)ですので、全体で見ればもっと低くても軽く千くらいは有していたでしょう。甲陽軍鑑の記述を信じるのならもっと前の時代に増援として送り込んだ三千の部隊が三百の鉄砲を有していたのですから。

 いやあ、しかし、歴史は過去の出来事であるはずなのに生きていますね。少し前の常識、定説がどんどん覆されていきます。そして定説を覆したはずの説もまた覆されることも。「武功夜話」ももてはやされた時代もありましたが、その後、偽書(偽文書)とされて、またオリジナルは古いという説などもあり、その時その時で評価が分かれます。

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