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関ヶ原合戦の真実

 衆議院選挙の投票が終わりましたね。午前中いったら長い行列が出来ていて、投票率は低いといったのは誰だよと思いました。予定があったので一度やめて、夕方いったら今度はがらがら。張り出された投票率を見ると確かに低かったので、午前中の行列はなんだったんでしょうね?開票が終わるのは、私が寝た後でしょうし、今日は触れません。

 さて、白峰旬著、「新解釈 関ヶ原合戦の真実」、宮帯出版社の感想です。

 個人的な経験で言えば、「xxの真実」というタイトルの本はあまり良いものがないのですが・・・・今回は、「微妙」です。問題提起としては良いと思いますが「真実」というほどの内容かと言えば、そうは思えません。

 まず、一般に言われていること(通説)が一次資料に裏付けられていない、後世の創作が多い、という問題提起は多いに価値があります。桶狭間の戦いや長篠の合戦などでも同様に批判は多くされていますが、そういわれると関ヶ原の合戦ではそれほど見かけません(私は読んでいません)。その結果、私も漠然と史実(細かい部分は別にして)と思い込んでいた出来事がそうであるという証拠がないことばかりだということを認識したので、それだけでこの本の価値はあります。
 ただ、個々の記述や著者の姿勢には疑問も覚えます。

 第一章で、遠戦主義は間違い、と主張していますが、これはあまりにも無理があります。死傷原因の分析から白兵戦は少なく、ほとんどは弓鉄砲(礫)によるものだったとする鈴木眞哉氏の説は誤りだ、ということが一次資料の分析からわかったとしていますが二つの点で大きな問題があります。
 まず、「一次資料」とされているものは、関ヶ原の合戦から相応の時間が経過してかかれた書状です。いつ書かれたかは不明で、状況から1601年から16年の間であろうと推定されています。49ページに元々、井伊直考、坪内家定、安藤直次、成瀬正成らが関ヶ原の合戦の話をしていて、生駒利豊の活躍に話題が及んで、当人が過去話をしていなかったので坪内家定の息子定次が問い合わせたことに対する返事の書状です。この背景が正しいかどうかわかりませんが(ここでは根拠は明記されていない。元々この話は生駒家戦国資料集によっている)、正しいとしたら、1590年生まれの直考が加わっていることから、1601年はさすがに早すぎるように思えます。1605年以降ではないでしょうか?問い合わせた坪内定次はウイキの記述が正しいなら(すみません、私はこの人物を全く知りません)、1596年生まれですから、多分、1610年かそこらでしょう。いずれにしても、関ヶ原の戦い直後ではなく、少なくとも数年から10年程度経過してから書かれたものです。
 第二次世界大戦中の戦記物などでもわかるように当事者の証言は貴重ですが、必ずしも正しいとは限りません。部分的に忘れていたり、記憶違い、勘違いなどがしばしば含まれます。また、まれに意図的に事実と異なる証言をすることもあります。証言者の生駒利豊が直後に日記を詳しくつけていれば、記憶違いの可能性は減りますが、そうかどうかはわかりません。
 書状はかなり詳しいものですが、これが当人が記録を付けていてそれを元に書いたのか、記憶を頼りに書いたのか、軍記物であるように誇張して書いたのかは、もはや誰にもわかりません。直後の書状なら相応の信ぴょう性はありますが、時間が経過するほど薄れています。
 この書状が一次資料として価値がないといっている訳ではありません。ただ、「明白な証拠」というのは時間が経過しすぎているのではないかと思います。

 それはそれとして内容についてですが、確かにそこには激しい白兵戦が繰り広げられていたことが書かれています。まず、鉄砲の撃ち合いがあり、その後、生駒利豊らが敵から100m前後の距離で馬から降りて、待機。敵が後退を始めたように見えたので再び騎乗して突撃して、白兵戦になったことが書かれています。
 これだけから、白兵戦が中心だったと断じるのは行き過ぎでしょう。鉄砲で敵を殺傷したという記録は無いとしていますが、確かに書状には書かれていません。が、書いた生駒利豊は鉄砲を撃っていた訳ではなく、鉄砲の撃ち合いの後、突撃したのですから、記述は主に突撃した後の白兵戦になるのは当然ですし、書いていない=無い、ではないでしょう。自分の手柄ではないから、特に記述しなかったということもあります。だから、わかるのは白兵戦の様子に過ぎません。もし、鉄砲では雑兵が少し倒れただけだったとでも書いていればまだ話は違いますが、鉄砲の戦果・効果については何もふれていませんし、鉄砲の撃ち合いがどれだけ続いたかも書かれていません。
 遠戦主義の否定だけではなく、鉄砲、弓矢、長鑓、白兵戦、追撃戦が戦国後期の典型的な合戦というのも誤りだとしています。関ヶ原の合戦の頃は、長槍や弓矢はすたれて、鉄砲が主になっていてもおかしくはないでしょう。それは、「戦国後期の典型的な合戦」の否定にはならないと思います。「戦国末期」ですし、恐らく、豊臣系(徳川も含む)の軍勢は朝鮮出兵の頃から、鉄砲を主体になって、長鑓や弓矢は減っていたと思います。
 反撃は受けていますが、書状に書かれている白兵戦は基本的には追撃戦でしょう。理由はどうであれ敵は後退を開始していますから。それがこの局面での鉄砲の撃ち合いの結果なのか、それとも他の味方が崩れたので引いたのかはわかりません。著者は石田三成方は短時間で敗走したと主張していますから、それが正しいなら後者の可能性が高いと思います。
 細川忠降勢の首注文について記述している中で、鉄砲衆が首を三つとっているとありすが、これも敵が崩れたからでしょう。鉄砲の撃ち合い中に倒した首を取りに行くことはないでしょう。基本的に鉄砲衆が首をとることはないと思いますが、その鉄砲衆が首を三つとっているというのは、鉄砲衆の戦果が少ないのではなく、一方的な戦いになったことを示すのではないでしょうか?
 ついでに言えば、この首注文のグループが所属不明というグループ含めて12あるから備えが12あったというのも乱暴でしょうし、その順番通りに並んでいたというのもまた乱暴でしょうね。

 もう一つは、書状とその解釈が全て正しいとしても、それは「関ヶ原の戦い」のある局面についてのみ言えることです。「関ヶ原の戦い」のある局面で鉄砲の撃ち合いの後白兵戦が行われたことはわかりますが、「関ヶ原の戦い」全体が同様の展開であったかどうかはわかりません。全体的に見て鉄砲でどれだけ死傷者がでたのかはわかりません。長鑓や弓矢が他の局面で使われていなかったどうかはわかりません。このある局所戦一つを持って、「遠戦主義は間違い」、「鉄砲、弓矢、長鑓、白兵戦、追撃戦が戦国後期の典型的な合戦というのも誤り」ということは証明出来ません。

 もろもろの軍記物の批判はまだしも、布陣図の細かい批判は必要だったのでしょうか?それらは元々信ぴょう性が低いものです。「日本戦史」の批判そのものは良いでしょう。これは他にもいろいろな問題が指摘されています。ただ、「日本戦史」は正しい歴史を追及して作成されたものではなく、陸軍の教育用なのではないでしょうか?乱暴に言えば、そこに書かれている戦史が史実ではなくても良いと思います。こういう戦いがあり、こういう決断をしてこういう展開になったというストーリーが必要なのであり、それがそれだけ正しいかどうかはあまり重要視されていないと思います。もちろん、陸軍が作ったせいで、それを正しいと検証なく受け取る人が多いという批判はまったくその通りです。それと布陣図と記述の整合性がとれないと思われる部分があるのは、問題ではありますが。まあ、布陣図は合戦開始前でその後、松平・井伊が移動したと考えることも出来ますが。

 小早川秀秋の裏切り時期、経緯、小山評定の否定については、私もこれまで深く考えることなく、概ねそういう経緯だったと考えていたので、それらの指摘は意義深いと思います。それだけでも本書の価値はあります。ただ、小山評定の否定そのものは良いのですが、では、どういう経緯だったかの説明はその理由と共に不十分に思えます。存在した証拠はないというのはその通りですし、存在しないことの証明は非常に難しいのですが・・・。根拠が見つからないことはわからないとするのは正しいとは思いますし、まあ、これは過大な要求かな。とはいえ、どこかで軍議は行われているとは思います。それが小山かどうかは別にして。行軍中に伝令を使って集めたのなら書状が残りません。

 関ヶ原の合戦に参加した「東軍」の兵数については、福島家の文章を提示して、「日本戦史」の数字と比較しています。これがどれだけ信頼できるかはわかりませんが、従来と違う見方を示したのは意義があると思います。しかし、黒田勢などの一組とはどういう意味なんでしょうね。一組いるなら、最低もう一組どこかにいるんじゃないかと思えますが。ところで、百石につき3人役の根拠として島津義弘の書状を根拠にしていますが、一律にそうだったかはわからないですね。東国は3人でも遠方の西国は2人や1人ということもあるとは思いますし、著者は黒田らは少なかったと主張しているのですから、もう少し何か根拠を見つけてほしかったと思います(これは無理な注文か)。 
 まあともかく、従来「日本戦史」の数字をもとに5千を超えると言われていた黒田勢が千数百に過ぎなかった可能性がある(可能性が高い)というのは、九州での黒田勢の戦力が金で集めたとされているにせよ、一万近かったとされること、名のある重臣が結構中津に残っていたこと、を踏まえると細かい数字は別にして、五千よりも少なかったというのは納得出来ます。上杉討伐に黒田家が全力出撃したとは思えません。その段階では天下分け目の戦いになるとは思っていなかったでしょう。家康が三成らに蜂起させるために上杉討伐を行ったというのは、考えすぎ(それこそ神君家康公はなんでもお見通しだせ!になってしまう)でしょう。ある程度のリスクは考えたかもしれませんが。出兵した各勢力もあくまで豊臣体制の中での上杉討伐にいったという認識だったでしょう。東海道から尾張に所領のある諸将は復路(関ヶ原へ行く途中)に追加動員している可能性はあるとは思いますが、九州勢などは「おつきあい」程度だったとしても不思議ないと思います。長政が家康から今度の上杉討伐は実際は三成をおびき出して天下分け目の決戦を行うつもりだと事前に言われていれば、総動員していったかもしれませんけれど。
 有力家臣の過半が中津に残っていたのは、天下分け目の決戦になることを孝高が予想して、主力を温存しておいたのだ・・・というのは今度は孝高の過大評価でしょうね。西国勢は百国につき1人役だったと解釈するのが自然な気がします。で、比較的若手中心に編成したと。まあ、長政系家臣中心で東国へいき、孝高系は中津に残ったということなのでしょう。

 「終章 すりかえられた天下取りの戦い」は「真実」というほど目新しいものは少ないですね。ただ、「軍事指揮権の喪失」というのはそれほど大きなことでしょうか?大義名分の有無というのはあるにせよ、それそのものは行動を制約するものにはならないでしょう。動きが取れなくなったというのはその通りでしょうが、それは「軍事指揮権の喪失」が原因ではなく、敵・味方の動きによるものでしょう。まあ、「軍事指揮権の喪失」により一応味方のつもりの豊臣系大名が本当に味方してくれるかわからなくなったというのはあるでしょうが。

 良くあることですが、どうも資料を自分の都合よく解釈している部分があるという印象を受けます。他の著作の引用も都合が良いのはそのまま批判なく引用し、都合が悪いのは批判しているという印象を受けます。そういう印象を持つと自分が評価を判断出来る記述(相応の知識があるため)はともかくそうでない(知識が不足して判断出来ない)記述についてはそのまま信用出来ません。素晴らしい指摘、記述もあるのですけれど、気になる部分も多い本です。なんとなく、通説を覆した他の人への「嫉妬心」を抱いているように感じてしまうのは気のせいでしょうか? また、「真実」というには通説は間違っているという指摘は多いものの、真実を解き明かしたとまでは言えない部分も多いです。
 とはいえ、目から鱗、な指摘は多いです。漠然と史実だと受け止めていたことのほとんどの明確な根拠がないというのは、ある意味衝撃的です。関ヶ原の合戦だけ何故無批判に受け入れていたのだろうと読後は不思議に思えるようになった位です。そして、このような新しい研究が今後も続くきっかけにはなったと思います。

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