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清須は遠くにありにけり

 色々読み直したりして、新MOY説を考えていたのですが、色々と試すために桶狭間ゲームを作ってみようと思いました。戦場はそれほど広くないので、私の苦手なマップ作りもそれほど大変ではないよう思えたからです。
 1ヘックス1km、ターン2時間、MPを消費して移動や戦闘を行い、そのターン主導権を握ったプレイヤーだけが双方が行動した後にリアクションを行うことが出来る、1ユニット約500人、などなどルールはぱぱっと思いつきました。

 それに基づいて鳴海城、大高城から沓掛城にかけての地域をマップの下半分に配置してマップを作成していったところ・・・・清須城が入らなくなってしまいました。清須は遠いのです。当時の正確な道はわかりませんが、清須から熱田は約12km。現在の地図で見ても直線距離で概ねそれ位です。つまり、12ヘックスの距離です。熱田から丹下砦まで6ヘックス。丹下砦から善照寺砦までは1ヘックスです。
 では、今川側を見ると沓掛城から大高城まで、色々な桶狭間の合戦図などを参考に作成したマップ上の街道上を移動したとして11ヘックスです。同様に沓掛城から中島砦まで街道を移動すると10ヘックス。史実ではそのような移動は行われなかったようですが、沓掛城から、善照寺砦は5ヘックスです。また、沓掛城から桶狭間周辺は7ヘックス。
 朝、沓掛にいた今川勢が大高城に行くのは、清須から善照寺砦にいくよりも近いのです。熱田から善照寺砦に行くのと、沓掛から善照寺砦に行くのも距離そのものは変わりません。沓掛から中島砦は道の都合で直線距離よりも道のりは長くなるものの、それでも清須から熱田よりも近いのです。
 無論、清須から熱田は完全に織田の勢力圏内であって攻撃を受ける心配はなく、移動に専念すればいいのに対して、沓掛からの移動は織田方の襲撃を警戒しつつ移動しなければならないという違いはあります。
 ただ、沓掛を朝出て、桶狭間で昼食、というのは考えられない距離です。ゲーム上(私のデザインした)、移動するだけなら2ターンで沓掛から中島砦に隣接するヘックスへいけます。
 大高城を目指していたとするとこれも街道を移動すれば2ターンでつけます。早朝、丸根砦と鷲津砦を攻略しておけば、道路移動のまま楽に大高城へつけます。休息は必要だとしても、昼食は大高城でとれるでしょう。

 だから、義元が19日の朝に沓掛を出たのだとすると何故桶狭間にとまらないといけなかったのか?少なくとも大高城へ向かっていたとすると説明が付かないように思います。
 いくら勢力圏内の移動とはいえ、沓掛から大高への距離の1.5倍を信長は午前中に一気に移動しているのですから。無論、信長の軍勢は純粋な戦闘部隊で、今川勢は小荷駄も含んだ大軍で隊列も長いから同じようには移動出来ない、という反論はあるでしょう。とはいえ、信長の軍勢は全員が騎乗している訳ではなく、ほとんどは「歩兵」です。速度に違いがあるとはいえ、1.5倍も速いかと言うと疑問です。ですから、少なくとも、信長が清須を出て善照寺砦に行くのは、沓掛城から大高城へ行くのよりも楽であるとは思えません。

 そうすると義元が「おけはざま山」に人馬を休めていたというのが何を意味するかということを考えると、それは移動中の単なる休憩でも昼食でもなく、当時の戦闘に際してそこを義元の本陣に定めたか、もしくは、そこで一度停止し、行軍隊形から戦闘隊形へ転換していた(装備を整えていた)かのいずれかであろうと思います。「おけはざま山」が良く言われている桶狭間周辺の山であるとすれば、前者にしては戦場から少し遠い気がします。ですので、私は後者だったのではないかと思います。これは義元は大高城を目指していたのではない、ということを意味します。

 それらを踏まえて、次回、新MOY説を述べてみたいと思います。

P.S.ゲームはもし完成したら公開してみようと思いますが・・・・いつになるのやら。また、マップとシステムを作っただけで、テストプレイもしていませんから(苦笑)。

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