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朝比奈泰朝は本当に鷲津砦を攻めたのか?

 気になることがあるので、結論出す前にもう少し寄り道します。は朝比奈泰朝は本当に参戦し、鷲津砦を攻めたのでしょうか?

 信長公記には、彼の名前は出てきません。鷲津砦は丸根砦と共に松平元康が攻め落としたと解釈出来る記述しかありません。三河物語にも出てきません。にもかかわらず、藤本正行氏ですら、朝比奈泰朝が鷲津砦を攻めたとしています。ですから、明白は根拠があるはずです。それを確認したいと思ったのです。

 信長公記に記述がないのに藤本正行氏ですら認めるということは、例えば、今川氏真から鷲津砦を落としたことに対する感状が残っているなど何かしらの証拠があるはずです。

で、色々調べていたら、武徳編年集成がどうも元ネタのようです。えっと、徳川幕府の公刊戦史?・・・は言い過ぎ?ただ、難点があるとしたら、時代がかなり後だということでしょう。1741年ですから、二百年近く後に編集されたものです。更に言えば、そこには朝比奈備中守泰能と泰朝の父親の名前が書かれているようです。泰能は、1557年に死去しているらしいので、朝比奈泰朝の誤りであろうとしているようですが・・・。何せ、いいとこ三次資料です。当時は今よりもまだ一次資料も残ってはいたでしょうから、現代の我々よりは真実に近づけるかもしれませんが・・・・正しいかどうかわかりません。

 今回は私の現状もあり、主にネット上にある情報を吟味しつつ利用しています。そうやって色々探していると当時の書状などを中心に調べている方のサイトなども見つかりました。信長公記は信用出来ない(少なくとも首巻の桶狭間の戦いの記述は)と主張されている方ではありますが、例えば、こういうのがありました。
http://rek.jp/index.php?UID=1196184753
書状などで確認出来る関係者とその所在地です。
 ここには朝比奈泰朝は出てきません。その代わり、朝比奈備中守ではなく、丹波守という人物がいたことをしてしてます。その関係書状についての記事が以下です。
http://rek.jp/index.php?UID=1194106876

 朝比奈丹波守親徳という人物らしいですが、遠江の朝比奈とは別系統の朝比奈氏のようです。合戦で負傷し、義元が討ち取られた時にその場にはいられなかった、桶狭間の戦いの後、三河にとどまっていたということが記述されています。
 この人物が桶狭間の戦いのどこかで負傷したとすると考えられるのは
1.鷲津砦または丸根砦攻撃に参加して負傷
2.佐々、千秋らとの戦いで負傷
3.信長本隊の攻撃を受けた直後に負傷
 義元が討ち取られた時にその場にいなかったということを考えると1.が一番自然でしょう。負傷したので大高城へ下がったか、そのまま帰国の途についた、と考えるのがしっくり来ます。2.または3.の場合には同様に負傷したので後送されたという可能性もありますが、時間を考えると時間が無さ過ぎます。

 ただし、桶狭間の戦いで負傷したとは書いていません。例えば、その直前に三河と尾張の国境周辺のどこかで行われた戦闘で負傷して、桶狭間の戦いには参加出来ず三河にいた、というだけかもしれません。

 また、その他に朝比奈筑前守という人物が大高城にいたように思われるようです。
http://kagiya.at.webry.info/200711/article_12.html
これによると義元から朝比奈筑前守に大高城在番を命じる書状が残っているようです。ただし、それは前年のもののようですから、当時いたかどうかはわかりません。

 また、上記リンク先には義元が4月12日に水野十郎左衛門尉に送った、朝比奈備中守を派遣するという内容の手紙があるそうです。ここにも原文を引用させてもらいます。
「 夏中可令進発候条、其以前尾州境取出之儀、申付人数差遣候、然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言(永禄?年)四月十二日、義元、水野十郎左衛門尉殿 」

 リンク先では引用もとでは、夏中に義元自身が出陣するが、その前に朝比奈備中守に尾張との国境の砦のことを申しつけてを人数をさしむけますという意味だとしていますが。

 ただ、同じ書状の解釈でも以下では、水野十郎左衛門尉に出兵を依頼した手紙だとしています。つまり、「馳走」して下さいという趣旨だとしています。
http://mizunoclan.exblog.jp/7896123/

 別のところでは、
http://okehazama.net/modules/battle/mrh_03.html
 夏中に義元自身が出陣するから、その前に尾張との国境の砦をつくるために人数を出してください、このことは(大高城にいる)朝比奈備中守に伝えておきます、と解釈しています。ここでは、永禄二年八月に朝比奈備中守に大高城在番を命じたとしていますので、その流れでそうなっているのでしょう。ただし、それは朝比奈筑前守に、大高城在番を命じた書状を朝比奈備中守と誤解しているのではないかとも思います。

 うーむ、同じ文章なのに人によって解釈が異なります。困りました。夏中に「進発」を令するが、その前に尾張との境にある砦に人数を差し向けさせる、という趣旨なのはまあ間違いないかなとは思います。問題は、その人数を差し向けるのは誰か?です。その次は、水野十郎左衛門尉に馳走してくれというこだと思いますが・・・。そして、最後の朝比奈備中守に申しつけるという部分は何かは私の解釈力では分かりません(なさけない)。義元が差し向ける人数を率いているのが朝比奈備中守なのか、水野十郎左衛門尉に人数を差し向けてください、そのことは、朝比奈備中守に伝えておきます、といっているのはわかりません。ただ、水野十郎左衛門尉に砦を作れといっているかというとそれは違うのではないかと思いますが・・・。

 水野十郎左衛門尉は誰?というのも大きな問題になのですが、とりあえずここでは扱いません(水野元信説が有力らしいですが、元々大高城城主の水野亮忠だとつじつまが合うという意見もあるようですが)。仮にこれが永禄三年の四月の手紙だとするとともかく、義元は尾張との境の砦があるところへ夏中に出兵する、その前に誰かは別にして人数を差し向けると言っているのは、まあ、外さないと思いますし、それに朝比奈備中守が参加するのもまず間違いないでしょう。そうすると朝比奈備中守を先発させて大高城そばにある二砦を攻撃させ、その後、義元本隊が少なくとも「おけはざま山」に進出していった、としてもとつじつまはあいます。

 ただし、問題はこの手紙はそうするつもりです、というものであって、そうしました、ではないのですよね。それとどこへ何をというのは不明確です。尾張との境にある砦へという程度で、鳴海城を包囲する砦・・・と名言されている訳でもありません。本人達には何年かは明確なので、書かれていないため、後から読むと困るのですが、永禄三年よりも前のことかもしれません。(まあ、これは他にはないとは思いますが・。また、進発を命令するとあるので、義元自身が出陣するとも限りません。例えば、夏中に朝比奈備中守を送るので、そっちも人数出して働いてくれ、という趣旨とも受け取れなくもありません。であれば、時期によって場所も意味合いも変わってきます。

 よくわからないので、これはとりあえずこの辺で止めておきます。漢文の勉強やり直さないと(苦笑)。それとも仕事でつきあいのある中国人(台湾だけど)に読んで英語にしてもらおうかな(笑)。まあ、もっとも原文は中国語、とも言えないので、それだと更に意味不明になるかもしれませんね。(^^;

 鷲津砦を攻めた武将は「武徳編年集成」では朝比奈備中守泰能の他に瀬名の名前も出ているそうです。「東照軍鑑」は朝比奈備中守、馬場民部少輔(でも、これって武田のあの馬場と同じですが??)、松平紀伊守、菅沼新八郎、奥平道分父子の名前が書かれているそうです。「改正三河風土記」には朝比奈備中守泰能、井伊信濃守直盛と書かれているようです。
 「馬場民部少輔」は何かの間違いでしょうが、他はいてもおかしくはありません。三河の諸領主は動員されて松平元康らと行動を共にしていたというのは自然です。ただし、井伊含めて、徳川幕府体制下で大名になっているので、先祖の功績を訴えただけで事実ではないかもしれませんが。
 まあ、ともかく、朝比奈備中守がいたらしいのは共通していますが・・・これらは全部、二次、三次資料ですから、共通する元ネタがあるかもしれません。朝比奈備中守泰能になっているのが複数あるのはそれらに共通する元ネタがそうなっているからでしょう。1557年に死去というのが間違いでない限りは、その元ネタは少なくとも間違っています。まあ、元ネタは、
朝比奈備中守としか書かれていなくて、それを引用した資料が勝手に朝比奈備中守なら泰能だろうと勝手に決めつけたのかもしれません。

 今川滅亡後、朝比奈泰朝がどうなったかは定かではないようです。徳川幕府で大名にでもなっていたら何かしら記録は残ったのでしょうが(もっとも、先祖の功績を誇張する記録かもしれませんが)、そうではないので、当時の書状位しか資料はないのでしょう。氏真から、負けたけど、鷲津砦を落としたのはえらい、というような感状が出ていても不思議ではないのですが・・・残っていないようです(知らないところにあるかもしれないですが)。

 今回調べた範囲内では、朝比奈某が鷲津砦攻撃に加わっていた可能性はありますが、それが朝比奈泰朝である証拠はまたそうだと高い確度で推定出来るものは見当たりませんでした。

 これがどういう意味を持つか、ですが、要するに先発して、大高城へ兵糧を運び込み、翌朝、二砦を攻めた部隊の規模の推測です。もし、朝比奈泰朝が参加しておらず、その同族の誰かまたは同姓の誰かが参加しているだけであるとするとこの作戦は松平元康を指揮官に岡崎衆とそれに付属させられた部隊(恐らく三河の小規模勢力の集成部隊)により行われた可能性が高い、ということです。今川の有力家臣である朝比奈泰朝が参加しているのなら松平元康と同等以上の兵力を率いていたでしょう。松平元康自身の兵力は精々千人程度と思われます。朝比奈泰朝がいたのであれば、合計すれば少なくとも三千程度はいたでしょう。しかし、松平元康だけなら多くても二千程度にとどまったと思われます。朝比奈泰朝が参加していなかったとすると、松平元康が率いてきた精々二千程度(もっと少ないかもしれない)と大高城にいた戦力の一部が二砦攻撃に参加したと推測されます。 
 そうであるとすれば、同時に攻撃したのなら、それぞれの戦力は精々千程度です。相応の被害を出し、かなり疲労し、大高城で休養を命じられるのは自然ですし、その結果、後の戦闘に参加出来なかったと考えられます。
 ですが、朝比奈泰朝もいたとすると相応の余力が残り、砦攻略後も全員が大高城へ入って休息したとは思えません。そもそも、大高城はどんな城なんでしょう?

 次回に続く

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