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城と砦の規模

 余り深く考えていませんでしたが、大高城とはどのくらいの規模の城だったのでしょう?城というとどうしてもある程度の規模のものを連想しますが、それらは江戸時代の城の内、現在に残っている(または復元した)ものが元になっているでしょう。
 調べて見ても、東西106m、南北32mという数字しか出てきません。単純な長方形だとして面積を求めると3392平方mです。そこに人間が長期間滞在するとしたらどれだけ収容出来るでしょうか?最低でも1畳分の面積は必要でしょう。しかし、それは最低限度です。やはり一坪程度は必要でしょう。実際には通路や倉庫などもあります。それも考慮すると大ざっぱに10平方m程度、坪数で言えば3坪位は必要ではないかと思います。押し込んでもその半分の5平方mでしょう。単純に計算すると
 3392平方m/10平方m=339人、3392平方m/5平方m=678人
です。どうみても千人も収容するのは難しそうです。短時間の休養なら可能かもしれませんが。言い換えるととここの守備隊は精々数百人規模だったのではないかと思われます。

 周辺の他の城や砦も同じように計算して表にして比べてみます。また、信長公記の記述にそれぞれの砦にだれそれをおいたと書かれていますのでそれも記述します。名のある武将の人数は兵力と関係があると思われます。前回、「信長公記を読み直す」では省略したのですが、それはちょっとまずかったかもしれません。

大高城  3392平方m 339-678人
 記述無し
鳴海城  8432平方m 843-1686人
 一人:岡部五郎兵衛
沓掛城 67392平方m 6739-13498人
 記述無し 
笠寺砦  4860平方m 486-972人
 五人:岡部五郎兵衛、かつら山、浅井小四郎、飯尾豊前、三浦左馬助
善照寺砦 2160平方m 216-432人
 二人:佐久間右衛門、佐久間左京介
丹下砦  6552平方m 655-1310人
  六人:水野帯刀、山口ゑびの丞、柘植玄蕃頭、真木与十郎、真木宗十郎、伴十左衛門尉
中島砦 13195平方m 1320-2639人 
 一人:梶川平左衛門
丸根砦  1008平方m 101-202人
 一人:佐久間大学
鷲津砦  675平方m 68-135人
 三人:織田玄蕃、飯尾近江守父子
星崎城  3536平方m 354-707人
 記述無し

 沓掛城の規模が突出して大きいことが分かります。それとその次に大きいのが中島砦というのが意外です。小和田先生は義元が尾張攻略の指揮を取るのに鳴海城よりもふさわしいと書いている大高城はそこらの砦と大してかわらない規模で、鳴海城の方が規模が大きいです。義元が拠点にするのにふさわしいのは沓掛城でしょう。

 中島砦は明らかにおかしいことが分かります。また、鷲津砦は三人の武将が配置されるには少し小さすぎる気もします。元データが同じ基準とは限りませんのでそのせいかもしれません。兵が配置される郭の広さだけではなく、これだけは外掘なども含めた面積なのかもしれません。中島砦は基準が違うとしても、丹下砦が大高城よりも広いというのもどうなんでしょうね?ただ、武将が六人配置されていることを考えると善照寺砦や中島砦よりも広くても不思議はありません。イメージで善照寺砦だけが要害と表記されていたので規模が大きいように思いましたが、必ずしもそうではないようです。鳴海城を囲む砦の中で丹下砦が一番大きいのですが、ここは鳴海城と熱田の間に位置していますので、攻めと同時に鳴海方向に対する守りの要であるように思います。そう考えると規模が大きくても不思議はありません。

 信長公記に名前が記載されている数と推測した収容力で割ってみると

鳴海城 :843-1686人:一人:岡部五郎兵衛 : 
笠寺砦 :97-194人:五人:岡部五郎兵衛、かつら山、浅井小四郎、飯尾豊前、三浦左馬助
善照寺砦 :108ー216人:二人:佐久間右衛門、佐久間左京介
丹下砦 :109-218人: 六人:水野帯刀、山口ゑびの丞、柘植玄蕃頭、真木与十郎、真木宗十郎、伴十左衛門尉
中島砦 :1320-2639人:一人:梶川平左衛門
丸根砦 :101-202人:一人:佐久間大学
鷲津砦 :22-45人:三人:織田玄蕃、飯尾近江守父子

 おお、素晴らしい。データがどうみてもおかしい中島砦、それと小さすぎるような鷲津砦、それと武将の名前一人しかない鳴海城を除けば、概ね武将一人当たり約100人から200人でほぼ一致します。また、佐々・千秋の二人で300人というのもほぼこれと一致します。逆に言えば、中島砦と鷲津砦の数値はやはりおかしいと言えます。中島砦はやはりここは小規模で100から200人程度がいいところでしょう。鷲津砦は武将が三人いたとすると守備隊は300から600人、面積は概ね3000平方m程度のはずです。

 似たような推測をここでしています。
http://kagiya.rakurakuhp.net/i_161058.htm
 ここでは鷲津砦は丸根砦の三倍の2760平方mとしていますが、その根拠はわかりません。わかりませんが、2760平方mだとすると、276-552人なので、3で割ると92人から184人で他と一致します。ここでは、中島砦のデータは外郭も含めたもので、内郭は一割と推測しています。132人から264人で概ね一致します。

 鳴海城ですが、岡部元信の名前しかない訳ですが、だからといって100から200人しかいなかったとは考えられません。これは収容力に近い兵力が存在していたと思います。

 改めて城・砦の収容力をまとめます。
大高城  最大約700人
鳴海城  最大約1700人
沓掛城  最大約13500人
笠寺砦  最大約1000人
善照寺砦 最大約450人
丹下砦  最大約1300人
中島砦  最大約300人
丸根砦  最大約200人
鷲津砦  最大約600人
星崎城  最大約700人

 さて、上記の推測が正しいとすると大高城は約1000人と思われる松平勢すら全員収容出来ません。約2000人いたかもしれない朝比奈勢やましてや、義元の本隊が入ることは出来ません。まあ、幹部だけ収容し、その他は城の周辺で野営、はあるかもしれませんが。
 それを踏まえると、大高城方面隊は、松平元康が大将で、岡崎衆を中心に、その他の三河の緒将で構成されており、総数は二千にもとどかなかったのではないかと思われます。丸根砦と鷲津砦の守備隊は合計しても精々500人ですから、松平元康が率いていった兵と大高城在番の今川勢の一部で攻撃し、陥落させることは十分可能です。岡崎衆が500人程度、その外合わせて千人程度であったとしても、大高城在番の兵力と合わせれば、まだ、砦攻略は可能なだけの戦力があります。かなり苦戦したこと、休養を命じられたことなど踏まえると大高方面隊は言われているような数ではなかった可能性はあると思います。

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