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藤本正行著「桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった」洋泉社

 たまたま書店で、見かけて、そういえば、正面攻撃説を最初にとなえた藤本氏の桶狭間についての書籍を一つも読んでいなかったことに気が付いて買って読んでみました。
 一言で言えば、ほとんどが自説への反論に対する反論でしめられていて、余り目新しい情報はありませんでした。

 藤本氏は基本的には信長公記の記述から分かることだけを述べている(ただし、そうでない部分もある。例えば、鷲津砦を攻めたのは朝比奈泰朝のはずと記述したりしている。)ので、何故、信長が勝ったのかは詳細に述べていません。部分的には推測や自分の考えも述べていますが、他の説と比べれば、それが占める割合は少ないでしょう。

 取り上げられている自説への反論は・・・ほとんどがまじめに取り合う必要のないようなものばかりです。いちいち反論しなくても、信じられないようなものがほとんどです。

 藤本説への反論が多いのは、「何故、信長が勝利したのか明確にわからない。不明な部分が不明なまま残されている。」ということなのでしょう。そしてもう一つ。なんといっても、通説をひっくり返した藤本氏の功績は大きいのですが、それを素直に認められないまたは自らが真実を見つけだしたいという、気持を持つ持つ人が多いので、単純に同意せず、いや、それは違う、本当はこうだ!と主張する人が多いのかなとも思います。

 勿論、藤本説の問題もあるとは思いますが、とはいえ、他と比べればはるかにましだと思います。藤本氏は、基本的には信長公記に書かれていないことはわからないと割りきって、書かれていることのみをとりあげて構築しています(ただし、例外もある)。

 まとめると

1.鷲津砦、丸根砦が攻撃されてから清洲を出発
2.熱田神宮で、両砦が陥落したらしい黒煙を目撃してから、丹下砦を経由して善照寺砦へ移動
3.佐々、千秋らが今川勢へ向けて攻撃をしかけて敗北
4.制止する家臣を降りきって中島砦へ移動
5.目の前の敵は大高城へ兵糧を運び込み、砦を攻めて疲れているが味方は疲労していない、数が少ないからと心配する必要はないといい、今川勢への攻撃を命令、首はとらずに打ち捨てを指示
6.山際まで移動したところで雨が降り出す(この時の雨の降り方の記述から今川勢は織田勢の東側に存在と推測)
7.雨があがってから突撃を命令
8.今川勢は崩れる。義元の塗輿を放棄される。
9.退却中の義元を見つけて、これを攻撃せよと追撃を命令
10.織田勢は東へ向けて攻撃
11.義元は約三百(正確な数とはいえない)騎に守られて後退
12.義元の護衛は再三踏みとどまって反撃するも数を減らす
13.義元はついに討ち取られた

という経緯だと主張しています(細かい部分は省略しています)。これらは解釈に違いは出る可能性はあるにしても、信長公記に書かれている記述からそう受け取れることばかりです。

 ただし、不明な点は残ります。それが反論を呼んでいるのでしょうが。反論を呼んでいるのは主要なものを抜き出すと
1.佐々、千秋らは何のために、どこから出撃し、誰と戦ったのか?
2.織田勢は中島砦からどこへ向けて進撃し、どこで今川勢と交戦したのか
3.その相手は佐々、千秋らが戦った相手と同じなのか違うのか
4.義元はどこで討ち取られたのか
だと考えます。一言で言えば何故織田が勝てたのか、その藤本氏の説明になかなか納得しない人が多いからでしょう。藤本氏は説明しているとは言うものの、誰もが素直になっとく出来るものではありませんので(事実はその通りかもしれないにしても、奇襲出来たから勝てた、というほどすっきりするものではないから)。

 東へ向けて進撃したということ以上は記述されていないのでわかりません。藤本氏は佐々、千秋らの相手は義元の本隊よりも前にいた部隊(前軍)であり、信長はこれを撃破し、それが本隊へ向けて敗走したため、混乱に陥ったと主張しているようです。ここが突っ込みところであるため、色々な批判・反論を受けています。

 細かい部分は除いて、私には藤本氏の主張(解釈)は常識的なものに思えます。

 義元のこの段階の目的(長期的な目的は別にして短期的な目的)は、鳴海城の救援と考えられますので、そうであれば、大高城へ向かっていたのではなく、中島砦と善照寺砦を攻略し、鳴海城へ兵糧を運びこもうとしたと考えるのが自然です(前提が正しければ、ですが)。その場合に本隊がそのまま攻撃するのではなく、中島砦攻撃隊と善照寺砦攻撃隊が別に存在(両者は一つかもしれないが)しているでしょう。ですので、前軍と本隊に分かれていたと考えられます。
 佐々、千秋らが戦った相手は本隊ではなく、前軍と考えるのも自然です。鳴海城へ突撃する意味はありませんから(三百で攻めて勝てるならとっくに鳴海城は落ちている)。善照寺砦に信長が到着したのを確認し、抜け駆けしたというのも特におかしな解釈ではないでしょう。

 ただし、義元の兵力が一般的に考えられている二万人程度(日本戦史の二万五千をそのまま肯定しない人でも、だいたい二万前後と考えている人が多い)ではなく、もっと少なかったとすると砦攻撃隊は別途存在せず、義元の本隊がそのまま攻撃する予定であったと考えることも出来ます。その場合には、前軍とは本隊の前衛であったと思われます。

 「義元の短期的な目的が鳴海城の救援だった」という主張を覆すのは難しいでしょうし、それを否定している人はほとんどいないように思います(まったくいない訳ではないですが)。義元自身がやるかどうかは別にして、上洛するにしても、尾張制圧にしても、まずは、織田に包囲されている大高城、鳴海城を救援する必要があるでしょう。それを放置して前進することは出来ません。大高城に兵糧を運びこみ、付け城(砦)を排除しています。当然、鳴海城も同様に付け城を排除し、兵糧を運びこむはずです。藤本氏がこれが出陣の目的だったとするのは自然なことです。

 その後の戦いは、詳細はよくわからんけど、突撃したら織田が勝った、ということなので・・・明確な反証がない限り、否定しようにも否定出来ないように思います。だって、信長公記そう書いてあるのですから(笑)。

  書かれていないことを主張し、こうだったはずだと言っても、根拠に乏しく、藤本説よりもどうしても弱くなるでしょう。

 ただ、藤本説が完全だと言うつもりもありません。元々資料が乏しいのがいけないのですが、前述のような謎は残りますし、他にも信長公記に書かれておらず、藤本氏も自説で説明していない点は色々ありますので。今日は読書感想文なので、それはまた今度。

 この本で私が重要だと思ったのは桶狭間の戦いがどうだったかよりも、
1.自説に都合の良い資料ばかり採用し、都合が悪い資料を無視する研究者が多い
2.結果からみて勝った側を過大評価する傾向がある
 勝った側の行動は全て計画されていたもので、事前の計画がすばらしく、その通りに実行したから勝てたように考える人が多い

 という二つの指摘です(文章は上記の通り書かれているのではなく、複数箇所に書かれているものを二つに要約しています)。これは確かにその通りだと思いますし、自説を考える際に教訓にすべきだと思います。

 もっとも、藤本氏は1に陥っている面もあるようにも思いますが・・・・。

 あ、もう一つ。p68の進軍ルートの図ですが、
 17日 岡崎発
 18日  知立発 
 19日 沓掛城発

になってますが・・・・信長公記の17日に沓掛へ参陣と明らかに矛盾していますが。まずいでしょう。まさか、岡崎から一度沓掛にいって知立へ一度戻って再度沓掛にいったという訳ではないでしょうから。(^^;

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