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私が義元だったら

 もう一つ、珍説を考えてみます。なお、説を考えたといっても、実はこうだった、というものはなく、あくまで私が義元だったらこうしたというものです。なお、桶狭間の戦いではありますが、桶狭間は戦場にならない・・かも(笑)。

 

1.今川軍の編成
 大高城方面隊:約五千
  丸根砦攻撃隊:松平元康:約千、井伊直盛:約千
  鷲津砦攻撃隊:朝比奈泰朝:約二千
   補給隊:約千

 主隊:約一万
  前衛
   松井宗信:約二千
  本隊
   今川義元:約四千
  補給隊:約二千

 東海道方面隊:約三千
  瀬名氏俊:約三千

 合計一万六千

2.今川軍の行動計画
 目的は大高城と鳴海城の救援。兵糧の運び込みと付け城の排除を行う。最低でも包囲を崩し、両城への補給を実施。

 東海道方面隊は、18日に沓掛城を出発し、桶狭間周辺に陣地を構築し、交通路を確保し、織田軍の反撃を備える。
 大高城方面隊は、18日に沓掛城を出発し、大高城へ補給を実施、その後、丸根砦、鷲津砦を攻略。 
 主隊は、19日 に沓掛城を出発し、鎌倉街道から善照寺砦全面へ展開。

3.実際の行動(私の仮想世界での)
 17日
  義元本隊が沓掛城に到着。軍議を行う。

 18日
  早朝、東海道方面隊は先発し、桶狭間近辺に陣地を構築(瀬名陣地)
  早朝、大高城方面隊は、沓掛城を東浦海道から大高道を使って大高城へ向けて出発。

  知多半島側の砦をまず攻撃するが、守備隊は交戦前に砦を放棄し、逃亡。
  丸根砦、鷲津砦攻撃への攻撃を開始するには時間が遅いので大高城へ入る。随伴の輸送隊により、兵糧の運び込み完了

 19日
  早朝、主隊は、沓掛城を出発、鎌倉街道から善照寺砦へ向けて出発。
  早朝、大高城方面隊は丸根砦、鷲津砦攻撃し、陥落させる。
   丸根砦攻撃
    松平元康:約千
    井伊直盛:約千

   鷲津砦攻撃
    朝比奈泰朝:約二千

  砦攻略後、井伊直盛は大高城にへ入り、知多半島方面からの攻撃に備える。
  朝比奈泰朝、松平元康は、そのまま中島砦方面へ前進

  東海道方面隊は一部を桶狭間に残し、東海道から中島砦前面へ前進。

  主隊は前衛を善照寺砦東側に展開させる。
  本隊は扇川を挟んで、反対側(東南側)の丘陵地帯に陣を張る。

  信長丹下砦から善照寺砦に入るが、既に三方向を今川軍に包囲され身動き出来ない。
  東海道方面隊は中島砦を攻撃し、これを陥落させる。

  朝比奈泰朝は鳴海城を経由し、善照寺砦と丹下砦の間へ前進。
  松平元康はは鳴海城と善照寺砦の間へ展開

  信長は完全包囲されたため、逃げ出すことも出来ず。

  この頃、急に大雨が降り出す。これを見て、信長は前面の義元本隊への急襲を決意。雨に乗じて出撃する。
  焼田橋を渡り、本陣へ向けて突撃。

  激しい雨により、信長の出撃の発見が遅れる。

  義元本陣の目の前まで到達した時に雨は上がり、信長は攻撃開始を指示し、突入。

  これに気が付いた松井宗信は救援にかけつけようとしたが、善照寺砦に残留した織田勢からの応射を受けて足留めされる。
  瀬名氏俊は救援にかけつけるが、中島砦攻略の疲労もあり、行動が鈍く、織田勢の後後衛に阻まれる。
  朝比奈泰朝も移動しようとするが、丹下砦から織田勢が打って出てきたため、足留めされる。
  松平元康は善照寺砦を避けて中島砦側へ移動。

  義元は一時的に後退を決意。
  織田は義元を追撃しようとするが、本隊のその他の部隊に阻まれる。そこに後方から織田勢後衛と瀬名氏俊が戦う横をすり抜けた松平元康が後方から突入。
  織田勢は限界を越えて敗走。信長は鎌倉街道方向へ逃げるが、ようやく前進してきた松井宗信に捕捉され、討たれる。
  朝比奈泰朝は善照寺砦へ突入し、これを陥落させる。
  丹下砦の残存兵力は熱田方向へ退却。
  一連の戦いは終結。

 あれ?今川が勝っちゃった(笑)。やり直さないと。(^^;

 19日:ケース2
  早朝、主隊は、沓掛城を出発、鎌倉街道から善照寺砦へ向けて出発。
  早朝、丸根砦、鷲津砦攻撃し、陥落させる。
   丸根砦攻撃
    松平元康:約千
    井伊直盛:約千

   鷲津砦攻撃
    朝比奈泰朝:約二千

  砦攻略後、井伊直盛は大高城にへ入り、知多半島方面からの攻撃に備える。
  朝比奈泰朝、松平元康は、そのまま中島砦方面へ前進

  東海道方面隊は一部を桶狭間に残し、東海道から中島砦前面へ前進。

  主隊は前衛を善照寺砦東側に展開させる。
  本隊は扇川を挟んで、反対側(東南側)の丘陵地帯に陣を張る。

  信長丹下砦から善照砦に入るが、既に三方向を今川軍に包囲され身動き出来ない。

  中島砦から織田勢約三百が打って出る。東海道方面隊はこれを撃破するが、陣形が乱れ、砦攻撃は遅延する。

  朝比奈泰朝は手越川を挟んで中島砦の西側へ展開し、砦攻撃の構えを取る。
  松平元康は朝比奈泰朝の命により、手越川の北側を移動し、渡河可能な場所を探す。

  この頃、急に大雨が降り出す。これを見て、信長は前面の義元本隊への急襲を決意。雨に乗じて出撃する。
  焼田橋を渡り、本陣へ向けて突撃。

  激しい雨により、信長の出撃の発見が遅れる。

  義元本陣の目の前まで到達した時に雨は上がり、信長は攻撃開始を指示し、突入。

  これに気が付いた松井宗信は救援にかけつけようとしたが、善照寺砦に残留した織田勢からの応射を受けて足留めされる。更に丹下砦から打って出た織田勢に側撃され、行動不能に陥る。

  瀬名氏俊は救援にかけつけるが、行動が鈍く、織田勢後衛に阻まれる。運悪く瀬名氏俊が討ち死にし混乱する。
  朝比奈泰朝も移動しようとするが中島砦から応射を受け、渡河出来ずに足留めされる。

  義元は一時的に後退を決意。
  織田は義元を追撃。優勢だったはずの今川勢は他から救援がこないため、本隊は動揺し、崩される。
  義元はとっさに東海道方向への後退を指示。しかし、織田の追撃は激しく次第に打ち減らされる。
  桶狭間近辺に達したところでついに義元は討たれる。

  手越川沿いに移動した松平元康が追いついてくるが、織田勢は大将ヶ根付近から丘陵地帯を北側(鎌倉街道方向)へ撤退。松平元康は義元を探し、それを追撃せず。首をとられた義元の遺体を発見。
  朝比奈泰朝は中島砦に突入し、これを陥落させてたところで、義元討ち死にを知らされる。
  丹下砦の織田勢との戦いで、更に善照寺砦の残存部隊に突入され、数に勝っていたはずの松井宗信が討ち死に。
  松平元康は朝比奈泰朝らと協議するために鳴海城方面へ戻る。
  この頃、織田側は討ち取られるか敗走し(善照寺砦に残っていた部隊も)、戦闘は終結していた。
  朝比奈泰朝、松平元康らは鳴海城に入り、岡部元信と協議。
   残存部隊を再編成し、鳴海城へ増援を入れ、岡部元信は引き続きとどまる。
   朝比奈泰朝は義元の遺体をもって駿府へ帰還。
   松平元康は岡崎まで戻り、織田の攻撃に備える
  ことを決定し、後退した。 

 よし、今度はちゃんと義元が負けし、桶狭間で討ち取られたし、戦死者も史実通りで、結果的に史実通りの世界につながるはず。(^O^)
 地図を見ながら机上で考えたのですが、大高城方向からくると中島砦を取らないと川に阻まれて移動しにくいです。当たり前ですが、良い場所に砦を築いています。ケース2では、中島砦の早期攻略に失敗したため、義元本隊への増援が遅れ、結果的に討ち取られたという訳です。

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