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桶狭間ブーム

 「桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった」を読んだ後、たまたま雑誌の歴史街道の6月号が桶狭間特集だったので買って見ました。ふーん、小和田先生も正面攻撃説に転向しているですね。でも、いまだ、簗田情報に固執されているようで。
 方角誤記なんてことを言っている人もいるようですが、「東」と書かれているのに対して、もし、こっちなら「東南」だからおかしい・・・とうのはおかしいでしょう。この部分に「東」が三回、「戌亥」が一回です。ただ、この当時、コンパスと地図をもって行軍していた訳ではありませんから、時間と太陽の一から大ざっぱな方位が分かるだけです。時間も時計を持ち歩いていた訳ではありませんし、かなりの誤差はあります。ですので、「東」というのは西か東かと言えば東、という程度の大ざっぱな方向に過ぎないと思います。後は藤本氏が指摘するように自説に合わせた強引な解釈が多いですね。細かい評論はやめます。

 まあ、そういう訳で、たまたまなんですが、続けて桶狭間関係の文章を読んだので、現在、桶狭間の戦いが、所謂、マイブーム、です(笑)。

 基本的に資料が信長公記しかない上に劇的な勝利であるため、不明な点が多く色々な説が述べられている訳ですが、一般的には信長がどういう風に義元を攻撃して勝利したのか(双方の兵力や簗田出羽守がどういう働きをしたのかなども含めて)、に議論が集中しているように思います。それに続くのは義元の目的は何であったかという点でしょうか。

 それ以外にも疑問だらけで、私は以下のような点についてどうだったかに興味があります。

1.今川軍の行動計画と編成
2.在鳴海城守備隊の動向
3.在大高城部隊の動向
4.丸根砦、鷲津砦を先に攻撃し、中島砦、善照寺砦を後回しにしたのは何故?

 今川軍は信長公記の記述では四万五千ですが、実際にそうだったとは誰も考えないでしょう。太田牛一には味方の数は分かっても、敵の数は正確にはわかりません。これは今川がそう誇張していたという程度の話だと思われます。実際にはどれくらいだったのか?一万石で二百五十人動員という基準を元に二万五千人としたのは、参謀本部編纂の日本戦史です。何かと批判の多い日本戦史の記述ですが、この数字そのものはそれほど大きな批判は加えられてはいないようです。一万説を除けば、概ね二万前後だったと主張する意見が過半を占めているようです。
 ただ、義元本隊の数がどれ位だったのかという点は議論がありますが、今川軍の全体の編成とその行動計画はどういう風になっていたか、はそれほど明確な意見が述べられていないようです。
 勿論、信頼出来る資料が無かったので仕方無いといえばそうなんですが、何故、桶狭間の戦いがああいう結果に終わったかを説明するには重要な話に思えます。
 そしてそれは上記の2から4の疑問への答えにもなると思います。

 私は一次資料どころか、二次資料も読んだこともなく、精々三次資料以降しか読んでいません。ですから、これが真実だった!と主張する気はありません。ただ、疑問に思った点の自分なりの回答として考えてみたいと思います。それをもとに、もしかしたらこんな戦いだったのかも?というのを書いてみます。更に言えば、現在の常識を踏まえた私だったらそうしただろうという物でもあります(なので、当時の常識には反しているかもしれない)。

1.今川軍の行動計画と編成
 一万石につく二百五十人は目安に過ぎませんし、状況によっても異なってきます。それに反する動員を行った例はいくらでもあります(もっとも数の正確性はどれも保証されていないといえばそうですが)。

 まあ、そうとはいえ、二万前後というのは妥当な推測であろうと思います。後に家康が独立し、三河一国と遠江半国を領有していた時期に機動運用出来た軍は一万に届かなかったようです。この当時の今川の領土はその倍強はあるでしょうが、三倍まではないはずです(知多半島は概ね織田側)。ですので、今川が機動運用出来るのは二万程度というのは妥当な数でしょう。太閤検地のデータから言えば、駿河、遠江、三河の三国で合計約70万石。尾張の一部は勢力圏に納めていますが、刈谷は織田方ですし、戦国期に開墾されたのもあるでしょうから、石高から言えば、概ねこれが上限でしょう。単純計算では17500人です。石高だけで決まる訳ではない(戦国大名の収入源はそれ以外にもありますから)ですが、約二万程度というのは最大限動員すれば可能な数だと思います。

 なお、この二万は当然ながら、三河や遠江などの元々は独立していた今川に従属する周辺勢力から提供される兵力も含んでの話です。今川家譜代衆の兵力はそれよりも少なくいでしょう。

 ただし、動員可能兵力と動員された兵力は同一とは限りません。補給の問題も考慮して、全力出動・・・ではなかった可能性はあります・・・というか、全力動員なんてそうそうやらないでしょう。ゲームじゃないんですから。

 その内訳については農民兵が過半だったとかなんとかかんとかという議論はあっても、部隊別の推測を述べているものを余り見かけません。これはもっと議論があっても良いと思うのですが?勿論、資料が少ないというのはありますが・・・それをいったら奇襲論でも同じですからね。

 分かっていることを述べます。ただし、信長公記は織田側の記録であり、記述がほとんどありませんので、それよりは信頼性の落ちる他資料(三河物語などなど)を元にせざるを得ませんが。

 鳴海城守備隊
    岡部元信
 大高城守備隊
  鵜殿長照

 丸根砦、鷲津砦攻略隊兼大高城補給隊
  松平元康率、朝比奈泰朝

  少なくとも上記の部隊はその詳しい数は別にして存在と目的がはっきりしています。
しかし、それ以外がはっきりしません。

 前軍:松井信元、井伊直盛ら?
 本隊:今川義元、瀬名氏俊?

 の二つに分かれていたらしいこようには思いますが、前軍(前衛軍)と呼ばれる部隊が単に本隊の前方警戒部隊だったのか、それとも中島砦、善照寺砦攻撃隊であったのかははっきりしません。井伊直盛は丸根砦攻撃に加わっていたという説もあるようです。

 義元の本隊については、鳴海城へ向かっていたという説と大高城へ向かっていたという説はありますが、これはどちらかというとどこで織田軍から攻撃されたかの議論の一部として言われているだけに思えます。

 仮に本隊は大高城を目指していたとします。そうすると中島砦、善照寺砦攻撃隊が別に存在し、接近していたであろうと思います。少なくともその方面からの織田軍に備える部隊はいたはずです。ただ、そうであるとしたら、何故、それらはもっと早く攻撃を開始しなかったのでしょうか?鳴海城も大高城ど同様に兵糧などの補給も含めて救援を待っていたはずです。

 義元の作戦がわからないので、はっきりとしたことは言えませんが、義元が東海道から中島砦、善照寺砦方向へ向かっていたとするとその中には
 中島砦、善照寺砦攻撃隊
 本隊
 輸送隊:鳴海城への補給及び遠征に必要な物資の輸送

 の三つには分かれていたと思われます。また、本隊も相応の警戒部隊を周囲に配置
していた可能性あると思います。これはほとんど一体(連続して)になっていたかもしれませんが。

 また、鎌倉街道を尾張方向へ進んでいた部隊があってもおかしくはないと思います。この方向から沓掛城への織田の攻撃に備える必要はあると思います。そのまま進めば善照寺砦ですし、その後方を遮断することも出来ます。

 それぞれの数を推測してみます。大高城補給隊は丸根砦、鷲津砦攻略には直接参加
しませんから、二つに分けて考えます。

現地守備隊
 鳴海城守備隊:岡部元信:五百から千=>1
 大高城守備隊:鵜殿長照:五百から千=>2

大高道方面
 丸根砦、鷲津砦攻略隊:松平元康率、朝比奈泰朝:三千から四千=>3
 大高城補給部隊:千から二千?=>4

東海道方面
 中島砦、善照寺砦攻撃隊:松井信元、井伊直盛ら?:三千から四千?=>5
 本隊:今川義元、瀬名氏俊ら?:五千ら六千?=>6
 輸送隊:千から五千?=>7

鎌倉街道方面:存在した証拠はない
 別動隊:千から三千程度?=>8

  合計一万数千から二万程度(守備隊を除く)

1と2
 鳴海城守備隊と大高城守備隊は、数百だったかもしれません。が、岡部元信が義元の首をもらうまで籠城し、帰路刈谷城を攻めた、という話があるので(それが事実なら)、千はいたと思われます。数百だけなら、義元が救援に来る前に織田が強襲して鳴海城を奪取することも出来るでしょうし、刈谷城を攻めることも出来ないでしょうから。


 守備隊がそれぞれ千であるとするとそれを包囲する砦には数百から五百程度の織田軍がいたでしょう。そうするとそれらを攻撃する砦攻略隊もそれぞれの砦に千から二千の兵力を要します。丸根砦、鷲津砦攻略隊は、大高城への補給任務もありますので、大目にみて、それぞれ二千の合計四千。


 よくわかりません。どれだけの物資を持っていくかによります。大高城がどれだけの物資を必要としてたかわかりません。


 中島砦、善照寺砦攻撃隊は、善照寺砦はもっとも規模が多く、攻略にも兵力を要すると思われますので、やはり合計して四千程度と考えました。


 義元が三百騎に守られて後退したという記述を考えると崩れだした段階でもそれだけのまとまった戦力が存在したということが出来ます。この「騎」というのはあいまいな言葉ですが、士分の人間が約三百人ほどいたいように見えた、と解釈すると一般的には武士(士分)は一割程度だと言われていますので、義元本隊は最低三千程度はいたはずです。崩れだした段階でそれだけかたまっていたということは総兵力はもっと多いと考えられます。なので、五千から六千と想定しました。実際には人数が約三百(全員が士分ではない)だったかもしれませんが。


 輸送隊にどれだけの人員が必要になるかはどれだけの物資を輸送する必要になるかにより決まると思いますが、それは義元がどのような作戦を考えていたかが分からないと分かりません。遠征軍といっても、自己の勢力圏内ので移動ですから、本拠地から延々物資を運ぶ必要はないでしょう。基本的には三河にある物資を三河の人員で前線まで運んだだけだろうと思います。しかし、もし、清洲まで攻め込むつもりなら、兵糧は各自自弁が原則で、自ら運んでいた(各部隊の中にそれぞれ輸送に携わる人間がいた)としても、相応の規模の輸送隊が存在していたでしょう。


 存在を確認出来る資料はありませんので、いてもおかしくない、という程度に過ぎません。誰かというのは難しいです。

 織田側ですが、

 丸根砦守備隊:五百
 鷲津砦守備隊:五百
 中島砦守備隊:五百
 善照寺砦守備隊:七百
 丹下砦守備隊:三百
 信長直率:二千
 合計:四千五百

 と想定しました。勿論、この外の拠点の守備隊も存在していたはずですが、ここでは含めません。砦の守備隊はもう少し少ないかもしれませんが、佐々、千秋らが中島砦から三百で討って出たと考えると(そう明確に記述されている訳ではないし、彼らが中島砦の守備隊であるという根拠もありません。砦の長は、梶川平左衛門ですが、彼が出撃したとは書かれていません。そうすると清洲方面から先行してきていた可能性もあります。)、三百が中島砦守備隊の総数だったとは思えません。百か二百が残していたでしょう。そして丹下砦は別にして、残る四砦の中で中島砦はもっとも規模が小さかったように思えますので、中島砦に四、五百いたのなら、丸根砦、鷲津砦も少なくとも同数はいたでしょうし、善照寺砦はもっと多かったはずだと思います。配分は別にして五つの砦で合計二千五百というのは守備隊千が守る城を包囲するのには適切な数ではないかと思います。少なくとも合計で二千程度は必要ではないでしょうか?

 なお、大高城の知多半島側にあったとされる砦は、信長公記に記述がないので、判断が難しいです。大高城に兵糧を運び込まないといけなかったということは鳴海城と同様に包囲されていたはずで、そうであれば、知多半島側に砦があって守備隊がいてもおかしくありません。ただし、この方面は元々織田側ですし、三河から行くには大高道を通るしかないようなので、街道を封鎖出来れば、大兵力でないと補給は遅れない状態であったということかもしれません。または、これらの砦は知多半島の織田側が守備していたので触れていないということもあるでしょう。

 以上は細部はともかく、義元は沓掛城を出て、東海道から中島砦、善照寺砦方面へ向かっていた(鳴海城の救援に向かっていた)という前提で推測したものです。それが違うと話はまた違ってきます。この点はまた後で述べます。

2.在鳴海城守備隊の動向
 岡部元信は、何故、義元が危機に陥った際に出撃しなかったのでしょうか?勿論、まだ、包囲されており、精々千程度しかいないということを考えれば、打って出るのは危険ではあります。
 が、織田が中島砦や善照寺砦に残した戦力は合計しても、鳴海城守備隊を下回るでしょうから、義元の危機を知れば、織田の背後を付くのが自然です。臆病な武将に率いられていたのなら、こもったままでしょうが、忠義心の高い果敢な武将が率いていたのですから。
 状況が分からなかった、のでしょうか?鳴海城からは直接戦場が見えなかったのだと思います。戦闘が行われている気配は感じられても、それは救援部隊が織田軍を攻撃している、としか思えなかった可能性はあるでしょう。伝えられているように桶狭間で戦いが行われていたとしたら、鳴海城からは見えないでしょうから。織田方が善照寺砦に多くの兵を残したように見せかけたという話もありますので、相対的に劣勢と判断したということはあると思います。

3.在大高城部隊の動向
  大高城には、本隊に次ぐ有力部隊が存在したのですが、これらも敗戦後にそれを知るまで動いた気配がありません。二つの砦を落とした後、全員が大高城に引き上げたのであれば、これまた知るすべがありませんので仕方無いでしょう。でも、少数の監視部隊位は砦の跡地に残さなかったのでしょうか?残していれば高みから戦闘が行われ、織田が押していることはわかりそうなものです。また、次の目標は鳴海城救援なのは明らかです。であれば、当然、中島砦方向へ前進してもおかしくないと思うのですが・・・・。
 油断、でしょうか?自分たちは命じられた任務を無事に終えていますし、兵力差から考えて、中島砦、善照寺砦攻撃が失敗するとは思えません。短時間で強襲して攻め落としたので、相応の損害も出ているでしょう(三河物語によると松平勢は名のある武将も何人か討ち死にしたとある)し、疲労もしていたでしょう。元康は別にしても、家臣には、義元への反発心もあるでしょうから、仕事は終わった、しばらくは休ませてもらう、という気持で他のことに関心を持たなくても不思議ありません。
 もし、義元の危機を知ることが出来れば、救援にかけつけたと思います。その時には戦いは既に終わっていた(義元は討たれていた)かもしれませんが、織田も背後を新手に突かれることになりますから、元康らは、義元の敵を討てたかもしれません。
 ただ、それにしても、丸根砦、鷲津砦またはその前方にまったく部隊を展開していなかった・・・というのは信じ難いのですが・・・。大高城へ下がったのは明らかな松平勢は別にして朝比奈らは何をしていたのでしょう?ここは私にとって最大の謎です。

4.丸根砦、鷲津砦を先に攻撃し、中島砦、善照寺砦を後回しにしたのは何故?
 今川勢の作戦を考える上でもっとも重要な疑問はこれだと思います。包囲されてしまっている鳴海城と比べれば状況はそれほど悪くはなかったと思われる大高城への補給と丸根砦、鷲津砦の攻撃の方が先に行われているのがどうにも理解出来ません。丸根砦、鷲津砦を落としても中島砦が残れば、鳴海城の包囲はとけません。その理由を考えてみたいと思います。

可能性1:偶発的な出来事による
  本来は中島砦、善照寺砦と同時に丸根砦、鷲津砦を攻撃する予定であったのが何らかの問題が生じて、丸根砦、鷲津砦攻撃が早まってしまったか、中島砦、善照寺砦攻撃が遅れてしまったということもあるかもしれません。無線どころか有線電話もなく、伝令を走らせるしかありません(狼煙などもあるにはあるにしても野戦では無理でしょう)。予定外の出来事が起きたとしても、それに併せて行動を変えるのは容易ではありません。

可能性2:鳴海城救援は目的ではなかった
 小和田氏らが主張するように義元は大高城へ向かっていたとします。そうであるとすれば、大高城の安全を優先するのもわかります。また、元康らが大高城にとどまったのも義元と合流するためと考えれば理解しやすいです。
 義元の作戦が丸根砦、鷲津砦をまず攻撃し、大高城の安全を確保しまたそれにより信長を清洲からひっぱり出し、中島砦、善照寺砦を別動隊により占領し、信長本隊には三河衆らをぶつける、というものであれば、なんら不思議はありません。
 その場合には、出兵の目的は単に鳴海城救援ではなく、織田の主力の撃破とあわよくば更に奥深く尾張へ進攻すること、であったでしょう。
  ただ、大高城と鳴海城の間は海沿いの道しかないので、尾張進攻作戦の拠点にするには不便にも思えます。

可能性3:安全策を取った
 信長公記に記述されているように満ち潮の時間を選べば、丸根砦、鷲津砦へ織田側は増援を送りにくくなるので、潮の時間にあわせてまず丸根砦、鷲津砦を攻撃。それにより両方向から中島砦、善照寺砦を攻撃出来る体制を確保してから、総攻撃を考えていたのかもしれません。
  善照寺砦は規模は大きかったようですので、強襲により短時間で攻略するのは難しい(犠牲が多くなる)と考えて、言わば、善照寺砦を鳴海城を合わせて三方から包囲して攻略する計画であったのかもしれません。
 ただ、その場合、義元が19日の夜、野営する必要があるかもしれません。もっとも中島砦は規模は小さいようなので、19日の内に攻略して、鳴海城へ入るつもりだったかもしれません。
 そして、20日に善照寺砦に対する総攻撃、と。

 でも、やっぱりなんかすっきりしません。現代人の私なら、鎌倉街道、東海道、大高道の三方向から分進合撃を何故行わない?と思ってしまいます。

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コメント

川中島で武田君には2千の今川軍の援軍があった。
武田、北条から千騎づつぐらい援軍があってもおかしくはないだろう。
駿河、遠州、三河70万石であっても、おそらく今川軍は2万近い大軍であったのは間違いないと思われる
尾張57万石の約半分が織田信長とすると、織田軍は7千
桶狭間に進撃した兵数は不明だが、5千ぐらいはいたであろう
当時の書物の兵力は勝者を美化するよう書かれる事情があった
甲陽軍艦の記録も辻褄が合わない事が多いのものちの徳川政権に対した配慮がある
織田軍が勝利するには
奇襲以外に活路は見いだせなかった
そして豪雨が味方した
信長の戦略は正しかったという事だろう

投稿: | 2017年7月27日 (木) 16時37分

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