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信長公記を読み直す

 ちょっと中断していたシリーズ桶狭間(笑)を再開します。

 変な架空戦記もどきの後は、原点に立ち返って、信長公記を読み直してみたいと思います。桶狭間の戦いは首巻に記載されていますが、最近の言い方を使うと陽明本と天理本の二種類があるようです。後者の方は記述が詳しく、より古いと主張する人もいるようですが、普通に考えると記述が少ない方が古く、後に追記されたものが天理本ではないかと思います。私の手元にある信長公記は新人物往来社のものですが、町田家本を元にしていると書かれていますが、桶狭間の記述は陽明本と同じです。。
 ここではより簡素な記述でオリジナルに近いと思われる陽明本の記述を元にします。なお、全文引用しませんので、オリジナルは「桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった」やら、歴史街道の6月号やらに載っているのを読んで下さい。
 今回は記述の中で気になる部分、重要な部分について述べ、余り重要ではないと私が考える部分には触れません(もしかするとそこに重要な記述があるかもしれませんが)。。

 戦闘開始前は特に問題になる(解釈が難しい)部分はないので割愛します。

 さて、義元の出陣からです。

 「天文廿一年壬子五月十七日」と書かれてから、義元が沓掛に到着。十八日夜に大高城へ兵糧を入れ、救援が行きにくいように満ち潮の時間を選んで十九日朝に砦を排除にかかると思われると、佐久間大学(丸根砦)、織田玄蕃(鷲津砦)から十八日の夕方に報告があった、と書かれています。この部分はこう解釈するしかないと思うのですが、中にはそう解釈しない人もいるようですが。

 ただ、改めて読み直して一つ引っ掛かったのは、

 天文廿一年壬子五月十七日

と書かれて次に

一、今川義元沓懸へ参陣。

と書かれていることです。これを場所を書き間違えていると主張している人はいるにしても、五月十七日に義元が沓掛に到着したと解釈しています。本来、永禄三年であるべきところが天文廿一年になっているのは、後世で追記されたものだと考えられている(または、だから信長公記も必ずしも信用できないという論拠にしている)ようですが、追記されたのが「天文廿一年壬子」だけで「五月十七日」は元々書かれていたと解釈しているようです。
 でも、よく考えると違和感が残ります、「一、」で書き出すのが特長の一つですが、その先に十八日、十九日と日付が入っているのに、その前に、五月十七日とわざわざ書くのがちょっと不自然に思います。「天文廿一年壬子五月十七日」前部が後世の追記だったということは考えられないでしょうか?残されている首巻は大田牛一自筆のものではありませんので、写本した人物が、ここにそう追記し、記憶違いで、天文廿一年と書いてしまったと考えることも出来ませんか?
 その次が十八日に兵糧をいれてうんぬんなので、十七日に沓掛に到着したと考えて、その旨追記したということではないだろうかと思うのです。
 ここに触れたのは、十七日に沓掛にきたのに、十九日に桶狭間に姿を表すまでの義元の行動が分からない、何をしていたのだろう?という疑問への回答であると考えるからです。三河物語を根拠に十八日に大高城へ入ったとしても、沓掛城から大高城までは一日で楽に行ける距離です。清須から善照寺砦よりも距離は短いのですから。
 この一行が後世の追記だとすると、沓掛城に入ったのは十八日で、その日はそこに宿泊し、十九日早朝に沓掛城に出発したと考えることが出来ますし、それが自然ではないかと思います。三河物語には「永禄三年庚申五月十九日に、義元は池鯉鮒より段々に押して大高へ行き」と書かれているそうですが、いずれにしても、十八日日までは戦場付近への移動であり、作戦行動は十九日に開始されたと考えられます。十七日に沓掛に到着していたとすると少なくとも十八日に何らかの行動を行っているはずです。まあ、作戦前に一日休養という可能性はないでもないですが。

 次の十八日夜の清洲での様子は戦いの推移に余り関係しないので割愛します。織田方の軍勢の過半は前線に既に移動していたから軍議がなかったのだとかいう人もいるようですが、裏付けるものはありません。ただし、清須から善照寺砦の距離を考えると今川軍出撃す!の情報を得てから、前線の砦に増援が送られていた可能性はあるでしょう。「軍の行は努々これなく」の部分を砦へ増援を送る指示もなかったと解釈する人もいるようですが、ここではどういう風に迎え撃つかの作戦の議論も指示もなかったと解釈すべきであろうと思います。

 さて、次は当日の朝です。

 丸根砦と鷲津砦が攻撃を受けたと報告があり、信長は急きょ出陣し、熱田へ向かい、辰の刻に到着します。熱田から東を見ると二砦が落ちらしい煙が上がっているのが見えます。この時には小姓衆と信長の六騎と雑兵二百に過ぎなかったと書かれています。

 清須から熱田まで「三里を一時」にかけたと書かれていますが、「一時」が約二時間なのか、一気にかけていったという意味なのかで議論をよんでいます。ですが、私は気にしません。要は熱田に辰の刻に着いたと書かれているので、何時に清須を出たかの時間はそれほど重要ではないからです。三里=12kmだとすると二時間であっても相当の強行軍ではありますが。
 ただし、辰の刻といっても、朝の八時頃、という程度で正確な時間はわかりません。前後一時間ずれても辰の刻です。信長は時計を携帯し、戦闘詳報に時間を正確に記録しながら行動していた・・・訳ではありませんから、後で参加者に聞いた話で、大体その頃に着いたという証言を得ただけでしょう(到着時に大田牛一は少なくとも熱田にはいないと思われる)。

 夜明け前か夜明け頃に今川方は攻撃を開始し、数時間で攻略したのでしょう(煙が上がったのを信長が見た段階で砦が陥落していたとは言い切れませんが)。

 さて、問題は次です。

 今川義元は、四万五千を率いて、おけはざま山に人馬を休めていたと書かれています。
 四万五千を正確な数だと考える人はいない・・・と思ったらいない訳ではないようですが、まあ、これが正確な数だは思えません。大田牛一にしても敵の正確な数はわかりませんし、今川側も実数は必ずしも把握出来ていなかったでしょう。なので、従来、私も今川が大軍を率いて出陣したと宣伝していたこと、確かに織田から見て今川は相対的に大軍であったということから、そう記述したに過ぎないと考えています。
 まあ、そこはそう問題ではありません。問題はその後です。「おけはざま山」で休息していたという部分です。
 では、実はこの部分も後世の追記だったとしたらどうなるでしょう?なんかここもぶつ切れで違和感を感じるのです。勿論、首巻はぶつ切りの文章が多く、元々メモしていたのを一つにまとめた程度のものだという話はあるので、別に追記されたものではなく、最初からこういう風に書かれていた可能性はあります(というか普通はそう考えられています)。とはいえ、そういうことを言いだすとあちこち追記になってしまうので、ちょっと気になったというだけにとどめます。
 ここは最初からある記述だとして、これが何時頃のことか?が問題です。記述が概ね時系列に並んでいるとすれば午前中の昼よりは前だと考えられますし、信長が善照寺砦についた時には、「おけはざま山」にいたと解釈されます。ただ、本当にそうか?というのは疑問が残りますが。

 続けて

 天文廿一年壬子五月十九日午の刻

と書かれて、

 北西方向に向けて陣を構えて、丸根砦と鷲津砦が陥落出来てめでたいと謡を三番歌ったと書かれ、家康は大高城への兵糧運び込みをして、丸根砦と鷲津砦攻撃で苦労してので、大高城で休息していたと書かれています。

 またまた問題はこの日時全てが追記ではないかという疑問です。他は文章の中になんとかの刻と書かれているのにここは年月日時間です。もし、年だけが追記なら良いのですが、十九日の出来事を記述している途中でまた年月日が出てくるのは不自然です。この行が時間含めて後世の追記である可能性はあると思います。むろん、メモのかたまりなのでそういう不自然な記述になっていただけかもしれませんが。

 午の刻がオリジナルから記述されていたとすると、概ね12時頃に北西方向に向けて今川方が陣を構えたということだと理解出来ますが、ここが「おけはざま山」であるとは限らないと思います。これは後述します。

 続いて信長は善照寺砦に到着したのを見て、佐々、千秋ら約三百人の打って出て、今川軍と戦闘し、約五十騎を討ち取られるという大敗を喫ししたとあります。ここは記述通りなら、その戦闘が見える場所に義元は陣を構えていたはずです。謡をまた歌ったのか、これも三番歌った中に含まれるのかは気にしません(戦局に影響はない)。重要なのは義元の見える場所で戦いが発生したということです。

 桶狭間近辺から中島砦の周辺までの距離は3km程度です。一時間程度あれば移動は可能でしょう。沓掛城から桶狭間周辺まで約6kmです。二時間でいけるでしょう。沓掛城を出て、10時頃に一度、桶狭間周辺で休息し、そこから中島砦の対面の山地のどこかに昼頃到着することは可能です。可能というか、もしそうだとするとずいぶん朝はゆっくりしていたことになる位です。
 勿論、当日、大高城救援隊が先発し、道路渋滞を避けるために本隊の出発を遅らせた可能性はあります。ま、それでも、沓掛から出発して桶狭間で休息する理由はよくわかりません。桶狭間にしばらくとどまったのだとすると可能性が高いのは、そこまでは軽装で戦略移動していたのをそこで装備を調えたということでしょうか?それなら納得できます。概ね10時頃にそうやって戦闘態勢を桶狭間で整えており、その後、佐々、千秋隊の戦闘が見える場所へお昼頃までには移動していた、と私は思います。

 続けて反対を押しきって信長は善照寺砦から中島砦へ移動したとかかれ、その時、二千に足らない人数だったと記述されています。ここは解釈に困る部分はないと思います。

 さて、次が問題です。信長は訓示をして反対を押しきり中島砦から出撃します。問題はその訓示の内容です。攻撃しようとしている相手は昨夜、大高城に兵糧を運び込み、朝、丸根砦と鷲津砦を攻めて疲労しているが、自分らは新手だ、少数で多数に向かうことを恐れるな、運は天にありと言っています。そして攻めてくれば引いて、引いたら攻めろ、分捕りするな、は打ち捨てにしろ・・・と命じます。

 これまでの記述からすると今川方は桶狭間方面にいたまたはそこから移動してきたと受け取れます。敵はそれまでの作戦行動で疲労しているといったのは、従来、これは信長の誤認か、味方を鼓舞するために信長がそういったと解釈されています。

 それに対して、これは事実ではないだろうというのはおかしいだろうという反論もされています。また、鼓舞するために言ったにしても、目の前で佐々、千秋ら敗退するのを見ています。また、義元はこの戦いを見える場所まで移動してきていると思われますので、そうすると桶狭間方面から移動してきたというのは織田方でも分かるはずです。
 そうすると、この時、信長が攻めようとした相手は本当に桶狭間方面からやってきたのでしょうか?丸根砦と鷲津砦を攻めた今川勢の内、元康率いる三河衆は大高城に居たことが分かっています。が、信長公記にはなんら記録はないものの、他の資料には、朝比奈泰朝がいたことが書かれています。それを信じるのなら、砦を攻めた朝比奈泰朝率いる軍勢がそのまま中島砦側へ向かってきていても不思議はないでしょう。
 そうであれば、信長の言葉は間違いではありません。砦を陥落させられた規模であるとすれば、最低でも二千はいたでしょう。もっといてもおかしくありません。であれば、三百で向かっていって敗北しても不思議ではありません。信長は推測ですが、多くても二千程度を率いていたと思われます。善照寺砦から中島砦に移動した時に二千に足らない程度です。中島砦の兵力を数百でしょうし、ある程度は残すでしょうから、出撃可能な数は二千程度であろうと考えられます。
 二つの砦を落とされたということを考えて、山の斜面に展開している敵の数を過大に評価することもありえます。また、それとは別に義元らの軍勢も見える位置にいたはずです。
 信長が手近にいる、疲労していると思われる敵に一撃を加え、劣勢な状況を挽回しようとした、ということだった可能性はありそうです。ただし、それ以上の記述はないので、そうであると断言することも出来ませんし、相手が誰であったかも、わかりません。

 続いて、そこへ、前田利家らが首をもってやってきたと書かれています。これを見て、三度戦闘があり、一回目は織田の負け、二回目は織田が優勢(複数の首をとったから)、三回目に義元本隊とたたかって勝ったと解釈する人がいるようです。しかし、二度目の戦闘があったとは書かれていません。なので、前田らは佐々・千秋らの突撃に加わって、生還したと考えるべきだと思います。

 さて、前田らに打ち捨てにせよと再度訓示して、山際まで移動したら、大雨が降り出したと書かれています。ここの沓掛の峠の楠の大木が倒れたという部分は、これは単にそれだけ凄い風雨だったということを述べているだけだと思うのですが、それが見える場所に織田の軍勢がいたはずだという主張をされる方がいらっしゃるようですね。私は単に織田方には追い風、今川方は向かい風の凄い風雨だったというだけだと理解しています。

 「急雨石氷を投打つ」とあるので、雹が降ったのだと言う人がいるようです。確かにそうであってもおかしくありません。もし、そうであれば、今川方はその間まともに行動出来なかったでしょう。

 さて、ここにも一つ重要な点があります。それは従来、織田は東へ向けて移動したと解釈されています。雨は味方の後ろから降って、敵の方へ迎えて降っていたと書かれており、その後に大木が東側へ倒れたと書かれているためです。風雨で大木が東側へ倒れたのなら、風は西から東へ吹いているはずですから、それが味方の後ろ、敵の前へ吹き付けたのなら、当然、敵は味方からみて東にいた、と解釈出来ます。ただし、あくまで東は峠の大木が倒れた方向であって、雨が西から東へ降ったと書かれている訳ではないことに注意は必要でしょう。牛一は余り意図せず、後で、大木が東側へ倒れたと聞いたのでそう記述しただけで、この時の雨が西から東へ降っていたという意味で書いた訳ではないかもしれません。ここでは雨は東向きに降った訳ではないとまで主張している訳ではなく、従来、余りに議論せず東向きだと考えられていることに対する問題提起をしたかったのです。言い換えると中島砦から山際へ行ってそこから東へ移動した、とそのものずばり書かれている訳ではないでしょう、と言いたいのです。

 雨が上がった後、信長は突撃を命じて、今川勢に突入します。すると今川勢はもろくも崩れて装備を放棄して敗走したと書かれています。義元の塗輿も破棄されたと書かれています。
 ここにまた「天文廿一年壬子五月十九日」と書かれています。意味がわかりませんが、後世の追記だとやはり解釈しておきます。

 そして、旗本はこれだ、これを攻撃せよと命令し、午後二時頃に東へ向かって攻め込んだと書かれています。「旗本は是なり」の意味が、織田方の旗本はこれを攻撃せよと解釈する人もいるようですが、私は義元の旗本、つまり、義元がここにいるぞ、攻撃せよと解釈します。

 最初は約三百騎(身分は別して三百人位に見える集団)に守られて義元は後退していきますが、次第に討ち減らされて、最後は義元が討ち取られる様子が書かれています。織田方の損害も決して軽くは無かったようです。私は「御」がついているので、「手負・死人員を知らず」は織田方の話だと解釈します。

 そしてその後に「おけはざま」というところは・・と書かれており、義元ら今川勢が討ち取られたのは「おけはざま」であることを示しています。

 信長は打ち捨てろと命じたものの、実際には織田方は義元を含む多数の首をとっており、清洲にて首実検が行われたことがかかれ、元来た道を戻ったとあります。

 なお、歴史街道の六月号も、「奇襲神話は嘘だった」も掲載しているのはここまでですが、その後ろにも関連する記述はあります。

 山口父子が今川に内応し、笠寺に要害を設け、岡部五郎兵衛(元信)、かつら山、浅井小四郎、飯尾豊前、三浦左馬助が入り(今川からやってきた)。鳴海城には息子の山口、九郎二郎、笠寺の並びの中村に山口左馬助本人が在陣したと書かれています。
 その後、山口父子は駿府に呼ばれた上、理由ははっきりしませんが(織田の謀略と解釈されていることが多いです)、殺害されています。
 それから桶狭間の戦いの間は記述されていませんが、岡部らは鳴海城に入ったのは間違いないようです。そして織田の反撃を受け、笠寺、中村は落とされ、鳴海城は包囲され、桶狭間の戦いを迎えたと思われます。当初、笠寺に入った今川の武将の内、岡部以外がどうなったかは読み取れません。

 駿河の山田新右衛門という人物が義元が討ち死にしたと聞いた後、馬を乗り帰して討ち死に。二股(二俣)城の城主の松井五八郎(宗信)ら松井一門、二百人が枕を並べて討ち死にしたと書かれています。
 河内の服部左京助という坊主が、武者船を千艘出して今川へ味方し、大高城近くまでいったものの特に何も出来ず、帰りに熱田を襲ったら、地元民の反撃を受けて、十数人討ち取られたと書かれています。

 それと織田がとった首級は三千に上ったとも書かれています。ですので、少なくとも直接戦闘した今川勢は三千以上、この時代に過半が戦死ということはないでしょうから、五、六千は最低でもいたでしょう。それでも半数戦死は多すぎます。三方原ですら、戦死は20%に満たないのですから。戦死が30%としても一万程度はいた(敗走した部隊が)と推測出来ます。

 戦闘後、岡部元信は助命され、鳴海、大高、沓掛、池鯉鮒、鴫原の五カ所同時に退散したと書かれています。この間の経緯はよくわかりませんが、この地域の今川勢力が一掃されたのは確かです。岡部が刈谷城を攻めたことは記述されていません。

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