« 桶狭間ブーム | トップページ | 私が義元だったら »

義元は18日中に大高城に入った?

 興味深いことを主張されている人がいます。

http://kagiya.rakurakuhp.net/

 信長公記は、義元は17日に沓掛城に参陣と書いており、その後、19日の昼間には桶狭間山にいたと書いています。が、その間の義元の行動が不明なのです。

 この点について、重要視している人が余りいません。私も気にしたこともありませんでした。

 もう一つ重要な指摘があります。それは信長が敵は大高城に兵糧を運び込んで、丸根砦、鷲津砦を攻めて疲れているが、こちらは新手だと演説している点をほとんどの人はこれは信長の誤認だとしています。しかし、本当にそうだろうか?と。敵がどこから現れたかは砦にいても分かるでしょう。東海道方面から現れたのであれば、信長がいくらそういっても、敵も新手じゃないか、と分かってしまうだろうと。

 確かにそうです。藤本氏がとなえた正面攻撃説(ととりあえず呼んでおきます)は、言いかえると信長公記の記述に忠実に解釈した説、です。なのにここの部分だけ誤認だと言うのはおかしくないかと言われるとその通りです。自説に都合が悪い資料・解釈は使わず、都合が良い資料・解釈ばかり採用する傾向があると指摘しているのは藤本氏ですが、その本人も同じことをやってしまっていないでしょうか?

 この二つの指摘は、目から鱗、でした。また、それに関連して、丸根砦、鷲津砦を攻め落とした今川勢が何故動かなかったのか、という点についても触れています。

 ただし、それに対する回答は・・・納得出来るものではありませんでした(苦笑)。簡単に言えば、義元は18日に大高城に行き、19日に、義元の指揮して丸根砦、鷲津砦を攻め落とし、元康を大高城の守備に残して、残りは中島砦の前を通って東海道から後退。桶狭間近辺で休憩。佐々、千秋は前衛ではなく、その後衛に足止めのために攻撃するも敗北。後衛もその後撤退。信長本隊は追撃し、休息中の義元本隊にぶつかり、攻撃し、撃破したと主張しています。細かくいうと長いですが。

 確かにつじつまはあいます。あいますが・・・何故、鳴海城はそのままなんでしょう?大高城よりもより危機的状況になったと考えるべきではないでしょうか?何故、義元はそのまま引き上げないといけないのでしょう?そして何故、わざわざ危険な敵前を通って?示威行為とも書かれていますが・・・だったら、いっそ中島砦位攻めて、鳴海城に補給しませんか?

 また、大高城に義元がいた根拠に三河物語で軍議があったとかいていることをあげているのも。むろん、事実かもしれませんが、三河物語だけだと弱いでしょう。沓掛城かどこかでの軍議と混同して記述されているかもしれませんし。

 三河物語だけではなく他の資料に書かれている出来事もなるべく盛り込もうとして構築された説です。それはそれで良いのですが、そもそも義元の出兵の理由が見えません。危機に陥っているのは大高城だけで、それも途中から補給の必要性がわかり、更に丸根砦、鷲津砦の排除も後で決まったと主張されていますが、そういう判断なら、出兵そのものがないでしょう?
 それに味方の城が包囲されている以上、後詰めするのが当然です。隣の大高城には兵糧を運び込み、付け城を排除したにの、鳴海城へは見える場所まできて何もせずに帰ったら、織田へ下ってしまうでしょう。それをふせぐための後詰めですから。むろん、後詰めに出兵出来ないことはあります。ありますが、今回は出兵していますからね・・・・。
 刈谷や緒川を攻略するのが目的だったのではないかと記述されている部分もありますが、それなら、先にそっちに行けば良いでしょう。

 しかし、従来なかった発想は興味深いですし、問題提起としては大きな意味があると思います。そこで、19日の朝、義元は大高城にいたという前提で、私なりの説を考えてみました。別の言い方をすると三河物語の記述はおおむね正しいと仮定した場合の説です。

1.今川軍の編成
 前衛
  松平元康:約千
  井伊直盛:約千
  朝比奈泰朝:約二千

 本隊
  今川義元、松井宗信:約六千
 補給隊
  約四千

 別動隊1
  瀬名氏俊:約二千

 別動隊2
  約二千

 合計二万

2.今川軍の行動計画
 目的は大高城と鳴海城の救援。兵糧の運び込みと付け城の排除を行う。最低でも包囲を崩し、両城への補給を実施。
 まず、大高城の救援を実施し、翌日、鳴海城を救援する。

3.実際の行動(もちろん、推測)
 17日
  義元本隊が沓掛城に到着。先行していた前衛らと軍議を行う。
  別動隊1は先発し、桶狭間近辺に陣地構築(瀬名陣地)

 18日
  早朝、前衛は輸送隊の一部(約千)を伴い、桶狭間付近を経由し、大高城へ出発
  続いて本隊も同じ経路で大高城へ向けて出発
  最後に別動隊2が出発し、鎌倉街道を進み、織田側の攻撃に備える(鎌倉街道から背後に回られないようにする)。

  前衛は知多半島側の砦をまず攻撃するが、守備隊は交戦前に砦を放棄し、逃亡。
  前衛は丸根砦、鷲津砦攻撃への攻撃を開始するには時間が遅いので大高城へ入る。随伴の輸送隊により、兵糧の運び込み完了
  夜、義元本隊が輸送隊の残り(約三千)を伴い大高城へ到着。
  接近する輸送隊を目撃した丸根砦、鷲津砦守備隊から清洲へ通報

 19日
  早朝、丸根砦、鷲津砦攻撃開始。
   丸根砦攻撃
    松平元康:約千
    井伊直盛:約千

   鷲津砦攻撃
    朝比奈泰朝:約二千

  砦攻略後、松平元康、朝比奈泰朝らは大高城にへ入り休息。
  井伊直盛はそのまま中島砦方面へ前進
  義元本隊は引き潮を待ち、海沿いの道から中島砦前面へ押し出し、向かい側の山(漆山)に陣取る。

  信長本隊は善照寺砦に到着、桶狭間方向の山に今川勢が陣取るのを認識。
  佐々、千秋らは中島砦から抜け駆けし、義元本隊の内、松井宗信らと交戦するが、敗退。
  信長本隊は中島砦へ移動。
  訓示を行った後、一度南側へ移動し、渡河し、前田利家らと合流
  強い雨が降り出す。この段階で相対的に義元本隊は信長から見て概ね東側に位置。
  雨があがった後、義元本隊が急な雨により態勢が崩れたのをみて、突撃開始。
  前衛(本隊の)が崩れつつあるのをみて、義元は一時退避を決定
  織田が東側から攻撃してきているため、義元本隊は東海道方向へ後退。  
  義元後退を見た今川勢は士気喪失し、敗走。
  井伊直盛は山を降りて戦いに加わるが、混乱に巻き込まれる。  
  雨でぬかるんでいるため、塗輿は放棄。
  信長は後退しつつある義元を発見し、これに攻撃を集中
  追撃戦の末、義元は討ち取られる。
  混乱し、敗走した今川勢は多数が討たれる

  大高城の朝比奈や松平らは状況がつかめないため、積極的な行動には出られない。
  物見が本隊が敗走し、多数の味方が討ち取られているのを目撃。
  当初の兵力差からは敗走が理解出来なかった物見は織田勢を過大評価し、大高城へ報告。
  朝比奈と松平は相談し、義元は後退したとはいえ、討ち取られることはなく、態勢を整え直すだろうと判断。今から中島砦方面へ討って出るのは困難であるため、朝比奈らは大高道を桶狭間方面へ向かい、松平勢は大高城を守ることを決定。

  鳴海城からは状況がはっきり分からないため、行動出来ず。
  信長は追撃を討ちきり、本隊を率いて帰還。
  中島砦と善照寺砦には守備隊を残す。

  朝比奈らは敗走する味方を収容し、撤退。別動隊も同様に後退。

  情報が途絶えて身動き出来なかった元康の元に水野信元から使者が訪れて、今川軍は既に撤退したと知り、後退を決意し、岡崎へ向かう。

  岡部らは鳴海城をあくまで固守。最終的には義元の首をもらう受けることを条件に退去。
  帰路、刈谷城を攻める。

 以上の場合、今川の敗因は、野戦慣れしていない義元の判断ミス(後退の決定が早過ぎた)であると言えます。義元が後退したために士気喪失し、敗走したようなものですから。そのままどんと構えていれば、序盤の混乱も収まって反撃も可能だったでしょう。使者を大高城に送って海沿いから織田の後方を突かせることも出来るでしょう。

 正しいかどうかよりも、つじつまが合うかを重視したものですので・・・やっぱり無理がありますね。
 義元が大高城からわざわざ中島砦の前を横切って、漆山に登る必然性が・・・。(^^;義元がもし、本当に大高城へ入ったのであるとすれば、少なくとも中島砦を落とす位まではそこにいて、部下に任せれば良いように思います。義元は従来、部下に任せて(部下をうまく使って)戦い、相続当初は別にして、自身は余り前線へ出ていません。大原崇孚が健在なら、今回も任せたのでしょうけれど・・・。もしくは、元康がもう少し経験を積んでいれば任せることも出来たかもしれませんが・・・。そういう意味では、たまたま任せられる人材がいなく、やむなく自ら出馬し、戦慣れしていないために肝心の部分で判断ミスをした、ということでしょうか?

 でも、やっぱりなんか無理があります。沓掛城から大高城まで、約21km(地図からはかりとった道のりで)ほどです。時速3kmなら、7時間ですから、朝出て夕方入るのは妥当です(途中の休息も含めれば)。
 ただ、沓掛城から鎌倉街道を通って善照寺砦まで約12kmです。これなら4時間ほどで行けます。道のりだけなら、沓掛城から桶狭間とほぼ同じです。桶狭間から東海道を通って中島砦は約6.5km、2時間ちょっと。
 大高城から海沿いに中島砦にいくとすると約9km。3時間です。

 わざわざ遠回りしなくても、沓掛城を早朝に出れば午前中のうちに善照寺砦を攻めることが出来ます。道のりだけから言えば。

 19日の昼前に桶狭間についたのだとすると、義元は19日の朝に沓掛城を出たのでしょう。18日の朝に松平や朝比奈らが沓掛城を出たとすると大高城へ夕方入るのもおおむね妥当です。輸送隊を伴えば行軍速度も低下するでしょうし、入城前に進路を確保することも必要でしょうから。

 うーん、先行させた前衛隊に大高城を開放させ、それに続けて、本隊桶狭間から東海道を通って進撃し、中島砦、善照砦を攻略し、鳴海城を救援、というのは間違っていないように思えてきました。沓掛城から鎌倉街道を通って善照寺砦を攻撃するのは手っとり早いですが、攻略に手間取ると大高城方面と分断されますので、安全策を取るのなら、東海道経由中島砦、でしょう。本隊まで大高城経由でいくと遠回りですし、道路も渋滞するでしょう。

 そういう風に考えれば、松平、朝比奈らは、本隊が中島砦、善照砦を攻略するまでは休養していて良いと言われて、19日中は大高城にとどまる予定だったのかもしれません。
 鳴海城が開放され、本隊がそこに入った後、次の行動を決めるつもりだった、とするとそう不自然ではないでしょう。のんびり連絡を待っていたら、本隊が敗走してしまった・・・と。邪推すると元康らが油断して気が付くのが遅くなるという失態を犯し、神君家康公の失態を隠すために資料上、触れられていない、ということかもしれません。

|

« 桶狭間ブーム | トップページ | 私が義元だったら »

戦史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 義元は18日中に大高城に入った?:

« 桶狭間ブーム | トップページ | 私が義元だったら »