« 信長公記を読み直す | トップページ | 清須は遠くにありにけり »

甫庵信長記

 これは当時、信長公記を元に書かれた歴史小説だと思います。信長公記の記述は簡素なもので、物語として読むには物足りません。現代でも資料を元に歴史小説を書くのなら、元の資料に書かれていない部分は作家が創作しています。それと同じです。ですから、歴史の資料として取り扱うことは当然出来ません。

 ただ、ほぼ同時代の人間(信長よりは約30年ほど後の生まれ)ですから、現在の我々の感覚よりも、桶狭間の戦いの時代にはるかに近い感覚を持っていた人です。ですので、創作の部分であっても、その当時の人間が書かれていないがこうだったのではないかと考えた部分もあるのではないでしょうか?

 前置きが長いですが、ここで何を言いたいかというと。今川軍へ突入前の会話の部分に一つ気になるというか、興味深い部分があることです。簗田が、信長に敵は丸根砦と鷲津砦を攻めた後、陣を変えていないとすると、先備が後備になり、後備が先備になると言っている部分です。

 これは信長公記で、信長が敵は丸根砦と鷲津砦を攻めて疲労していると述べたことと関係している訳ですが、ここで言いたいのは、甫庵は、信長公記の記述を見て、今川軍は中島砦がある側から丸根砦と鷲津砦を攻撃したと考えたのではないか、ということです。そうでないと前後が逆にはなりません。

 現代では一部の限られた意見を覗けば、丸根砦と鷲津砦を攻めたのは別動隊だと考え、この日、佐々・千秋や信長が戦った相手とは違うと考えられており、信長の誤認または味方を鼓舞するために違うと知りつつそのように述べたと考えられています。

 しかし、彼は素直に信長の言葉をその通りに受け取り、それに肉づけしたのでしょう。なかなか興味深いです。まあ、少数で多数を打ち破ったというのを読者が納得出来るように書かないといけない、と考えていたので、後備から攻撃したことにすると都合が良いというのもあったのかもしれません。

 ただ、丸根砦と鷲津砦を東海道方面から攻めて、後備が中島砦の前面にいたとすると本隊はどこにいたのでしょう?普通に考えれば、桶狭間方向ではありません。でも、その後の記述は桶狭間で討ち取ったといっています。

 そうするとこれは今川軍は大高方面から丸根砦と鷲津砦を撃破し、東海道を経由して桶狭間へ至った。本隊は桶狭間にいて、後備が中島砦の周辺にいたと考えていたと解釈することも出来ます。おや、どこかの説と同じですね?三河物語もそう解釈出来るという話もあるので、当時、そう考える人はいたのかもしれません。

 今日の話はこれだけです(笑)。

|

« 信長公記を読み直す | トップページ | 清須は遠くにありにけり »

戦史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 甫庵信長記:

« 信長公記を読み直す | トップページ | 清須は遠くにありにけり »