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2010年5月

甫庵信長記

 これは当時、信長公記を元に書かれた歴史小説だと思います。信長公記の記述は簡素なもので、物語として読むには物足りません。現代でも資料を元に歴史小説を書くのなら、元の資料に書かれていない部分は作家が創作しています。それと同じです。ですから、歴史の資料として取り扱うことは当然出来ません。

 ただ、ほぼ同時代の人間(信長よりは約30年ほど後の生まれ)ですから、現在の我々の感覚よりも、桶狭間の戦いの時代にはるかに近い感覚を持っていた人です。ですので、創作の部分であっても、その当時の人間が書かれていないがこうだったのではないかと考えた部分もあるのではないでしょうか?

 前置きが長いですが、ここで何を言いたいかというと。今川軍へ突入前の会話の部分に一つ気になるというか、興味深い部分があることです。簗田が、信長に敵は丸根砦と鷲津砦を攻めた後、陣を変えていないとすると、先備が後備になり、後備が先備になると言っている部分です。

 これは信長公記で、信長が敵は丸根砦と鷲津砦を攻めて疲労していると述べたことと関係している訳ですが、ここで言いたいのは、甫庵は、信長公記の記述を見て、今川軍は中島砦がある側から丸根砦と鷲津砦を攻撃したと考えたのではないか、ということです。そうでないと前後が逆にはなりません。

 現代では一部の限られた意見を覗けば、丸根砦と鷲津砦を攻めたのは別動隊だと考え、この日、佐々・千秋や信長が戦った相手とは違うと考えられており、信長の誤認または味方を鼓舞するために違うと知りつつそのように述べたと考えられています。

 しかし、彼は素直に信長の言葉をその通りに受け取り、それに肉づけしたのでしょう。なかなか興味深いです。まあ、少数で多数を打ち破ったというのを読者が納得出来るように書かないといけない、と考えていたので、後備から攻撃したことにすると都合が良いというのもあったのかもしれません。

 ただ、丸根砦と鷲津砦を東海道方面から攻めて、後備が中島砦の前面にいたとすると本隊はどこにいたのでしょう?普通に考えれば、桶狭間方向ではありません。でも、その後の記述は桶狭間で討ち取ったといっています。

 そうするとこれは今川軍は大高方面から丸根砦と鷲津砦を撃破し、東海道を経由して桶狭間へ至った。本隊は桶狭間にいて、後備が中島砦の周辺にいたと考えていたと解釈することも出来ます。おや、どこかの説と同じですね?三河物語もそう解釈出来るという話もあるので、当時、そう考える人はいたのかもしれません。

 今日の話はこれだけです(笑)。

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信長公記を読み直す

 ちょっと中断していたシリーズ桶狭間(笑)を再開します。

 変な架空戦記もどきの後は、原点に立ち返って、信長公記を読み直してみたいと思います。桶狭間の戦いは首巻に記載されていますが、最近の言い方を使うと陽明本と天理本の二種類があるようです。後者の方は記述が詳しく、より古いと主張する人もいるようですが、普通に考えると記述が少ない方が古く、後に追記されたものが天理本ではないかと思います。私の手元にある信長公記は新人物往来社のものですが、町田家本を元にしていると書かれていますが、桶狭間の記述は陽明本と同じです。。
 ここではより簡素な記述でオリジナルに近いと思われる陽明本の記述を元にします。なお、全文引用しませんので、オリジナルは「桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった」やら、歴史街道の6月号やらに載っているのを読んで下さい。
 今回は記述の中で気になる部分、重要な部分について述べ、余り重要ではないと私が考える部分には触れません(もしかするとそこに重要な記述があるかもしれませんが)。。

 戦闘開始前は特に問題になる(解釈が難しい)部分はないので割愛します。

 さて、義元の出陣からです。

 「天文廿一年壬子五月十七日」と書かれてから、義元が沓掛に到着。十八日夜に大高城へ兵糧を入れ、救援が行きにくいように満ち潮の時間を選んで十九日朝に砦を排除にかかると思われると、佐久間大学(丸根砦)、織田玄蕃(鷲津砦)から十八日の夕方に報告があった、と書かれています。この部分はこう解釈するしかないと思うのですが、中にはそう解釈しない人もいるようですが。

 ただ、改めて読み直して一つ引っ掛かったのは、

 天文廿一年壬子五月十七日

と書かれて次に

一、今川義元沓懸へ参陣。

と書かれていることです。これを場所を書き間違えていると主張している人はいるにしても、五月十七日に義元が沓掛に到着したと解釈しています。本来、永禄三年であるべきところが天文廿一年になっているのは、後世で追記されたものだと考えられている(または、だから信長公記も必ずしも信用できないという論拠にしている)ようですが、追記されたのが「天文廿一年壬子」だけで「五月十七日」は元々書かれていたと解釈しているようです。
 でも、よく考えると違和感が残ります、「一、」で書き出すのが特長の一つですが、その先に十八日、十九日と日付が入っているのに、その前に、五月十七日とわざわざ書くのがちょっと不自然に思います。「天文廿一年壬子五月十七日」前部が後世の追記だったということは考えられないでしょうか?残されている首巻は大田牛一自筆のものではありませんので、写本した人物が、ここにそう追記し、記憶違いで、天文廿一年と書いてしまったと考えることも出来ませんか?
 その次が十八日に兵糧をいれてうんぬんなので、十七日に沓掛に到着したと考えて、その旨追記したということではないだろうかと思うのです。
 ここに触れたのは、十七日に沓掛にきたのに、十九日に桶狭間に姿を表すまでの義元の行動が分からない、何をしていたのだろう?という疑問への回答であると考えるからです。三河物語を根拠に十八日に大高城へ入ったとしても、沓掛城から大高城までは一日で楽に行ける距離です。清須から善照寺砦よりも距離は短いのですから。
 この一行が後世の追記だとすると、沓掛城に入ったのは十八日で、その日はそこに宿泊し、十九日早朝に沓掛城に出発したと考えることが出来ますし、それが自然ではないかと思います。三河物語には「永禄三年庚申五月十九日に、義元は池鯉鮒より段々に押して大高へ行き」と書かれているそうですが、いずれにしても、十八日日までは戦場付近への移動であり、作戦行動は十九日に開始されたと考えられます。十七日に沓掛に到着していたとすると少なくとも十八日に何らかの行動を行っているはずです。まあ、作戦前に一日休養という可能性はないでもないですが。

 次の十八日夜の清洲での様子は戦いの推移に余り関係しないので割愛します。織田方の軍勢の過半は前線に既に移動していたから軍議がなかったのだとかいう人もいるようですが、裏付けるものはありません。ただし、清須から善照寺砦の距離を考えると今川軍出撃す!の情報を得てから、前線の砦に増援が送られていた可能性はあるでしょう。「軍の行は努々これなく」の部分を砦へ増援を送る指示もなかったと解釈する人もいるようですが、ここではどういう風に迎え撃つかの作戦の議論も指示もなかったと解釈すべきであろうと思います。

 さて、次は当日の朝です。

 丸根砦と鷲津砦が攻撃を受けたと報告があり、信長は急きょ出陣し、熱田へ向かい、辰の刻に到着します。熱田から東を見ると二砦が落ちらしい煙が上がっているのが見えます。この時には小姓衆と信長の六騎と雑兵二百に過ぎなかったと書かれています。

 清須から熱田まで「三里を一時」にかけたと書かれていますが、「一時」が約二時間なのか、一気にかけていったという意味なのかで議論をよんでいます。ですが、私は気にしません。要は熱田に辰の刻に着いたと書かれているので、何時に清須を出たかの時間はそれほど重要ではないからです。三里=12kmだとすると二時間であっても相当の強行軍ではありますが。
 ただし、辰の刻といっても、朝の八時頃、という程度で正確な時間はわかりません。前後一時間ずれても辰の刻です。信長は時計を携帯し、戦闘詳報に時間を正確に記録しながら行動していた・・・訳ではありませんから、後で参加者に聞いた話で、大体その頃に着いたという証言を得ただけでしょう(到着時に大田牛一は少なくとも熱田にはいないと思われる)。

 夜明け前か夜明け頃に今川方は攻撃を開始し、数時間で攻略したのでしょう(煙が上がったのを信長が見た段階で砦が陥落していたとは言い切れませんが)。

 さて、問題は次です。

 今川義元は、四万五千を率いて、おけはざま山に人馬を休めていたと書かれています。
 四万五千を正確な数だと考える人はいない・・・と思ったらいない訳ではないようですが、まあ、これが正確な数だは思えません。大田牛一にしても敵の正確な数はわかりませんし、今川側も実数は必ずしも把握出来ていなかったでしょう。なので、従来、私も今川が大軍を率いて出陣したと宣伝していたこと、確かに織田から見て今川は相対的に大軍であったということから、そう記述したに過ぎないと考えています。
 まあ、そこはそう問題ではありません。問題はその後です。「おけはざま山」で休息していたという部分です。
 では、実はこの部分も後世の追記だったとしたらどうなるでしょう?なんかここもぶつ切れで違和感を感じるのです。勿論、首巻はぶつ切りの文章が多く、元々メモしていたのを一つにまとめた程度のものだという話はあるので、別に追記されたものではなく、最初からこういう風に書かれていた可能性はあります(というか普通はそう考えられています)。とはいえ、そういうことを言いだすとあちこち追記になってしまうので、ちょっと気になったというだけにとどめます。
 ここは最初からある記述だとして、これが何時頃のことか?が問題です。記述が概ね時系列に並んでいるとすれば午前中の昼よりは前だと考えられますし、信長が善照寺砦についた時には、「おけはざま山」にいたと解釈されます。ただ、本当にそうか?というのは疑問が残りますが。

 続けて

 天文廿一年壬子五月十九日午の刻

と書かれて、

 北西方向に向けて陣を構えて、丸根砦と鷲津砦が陥落出来てめでたいと謡を三番歌ったと書かれ、家康は大高城への兵糧運び込みをして、丸根砦と鷲津砦攻撃で苦労してので、大高城で休息していたと書かれています。

 またまた問題はこの日時全てが追記ではないかという疑問です。他は文章の中になんとかの刻と書かれているのにここは年月日時間です。もし、年だけが追記なら良いのですが、十九日の出来事を記述している途中でまた年月日が出てくるのは不自然です。この行が時間含めて後世の追記である可能性はあると思います。むろん、メモのかたまりなのでそういう不自然な記述になっていただけかもしれませんが。

 午の刻がオリジナルから記述されていたとすると、概ね12時頃に北西方向に向けて今川方が陣を構えたということだと理解出来ますが、ここが「おけはざま山」であるとは限らないと思います。これは後述します。

 続いて信長は善照寺砦に到着したのを見て、佐々、千秋ら約三百人の打って出て、今川軍と戦闘し、約五十騎を討ち取られるという大敗を喫ししたとあります。ここは記述通りなら、その戦闘が見える場所に義元は陣を構えていたはずです。謡をまた歌ったのか、これも三番歌った中に含まれるのかは気にしません(戦局に影響はない)。重要なのは義元の見える場所で戦いが発生したということです。

 桶狭間近辺から中島砦の周辺までの距離は3km程度です。一時間程度あれば移動は可能でしょう。沓掛城から桶狭間周辺まで約6kmです。二時間でいけるでしょう。沓掛城を出て、10時頃に一度、桶狭間周辺で休息し、そこから中島砦の対面の山地のどこかに昼頃到着することは可能です。可能というか、もしそうだとするとずいぶん朝はゆっくりしていたことになる位です。
 勿論、当日、大高城救援隊が先発し、道路渋滞を避けるために本隊の出発を遅らせた可能性はあります。ま、それでも、沓掛から出発して桶狭間で休息する理由はよくわかりません。桶狭間にしばらくとどまったのだとすると可能性が高いのは、そこまでは軽装で戦略移動していたのをそこで装備を調えたということでしょうか?それなら納得できます。概ね10時頃にそうやって戦闘態勢を桶狭間で整えており、その後、佐々、千秋隊の戦闘が見える場所へお昼頃までには移動していた、と私は思います。

 続けて反対を押しきって信長は善照寺砦から中島砦へ移動したとかかれ、その時、二千に足らない人数だったと記述されています。ここは解釈に困る部分はないと思います。

 さて、次が問題です。信長は訓示をして反対を押しきり中島砦から出撃します。問題はその訓示の内容です。攻撃しようとしている相手は昨夜、大高城に兵糧を運び込み、朝、丸根砦と鷲津砦を攻めて疲労しているが、自分らは新手だ、少数で多数に向かうことを恐れるな、運は天にありと言っています。そして攻めてくれば引いて、引いたら攻めろ、分捕りするな、は打ち捨てにしろ・・・と命じます。

 これまでの記述からすると今川方は桶狭間方面にいたまたはそこから移動してきたと受け取れます。敵はそれまでの作戦行動で疲労しているといったのは、従来、これは信長の誤認か、味方を鼓舞するために信長がそういったと解釈されています。

 それに対して、これは事実ではないだろうというのはおかしいだろうという反論もされています。また、鼓舞するために言ったにしても、目の前で佐々、千秋ら敗退するのを見ています。また、義元はこの戦いを見える場所まで移動してきていると思われますので、そうすると桶狭間方面から移動してきたというのは織田方でも分かるはずです。
 そうすると、この時、信長が攻めようとした相手は本当に桶狭間方面からやってきたのでしょうか?丸根砦と鷲津砦を攻めた今川勢の内、元康率いる三河衆は大高城に居たことが分かっています。が、信長公記にはなんら記録はないものの、他の資料には、朝比奈泰朝がいたことが書かれています。それを信じるのなら、砦を攻めた朝比奈泰朝率いる軍勢がそのまま中島砦側へ向かってきていても不思議はないでしょう。
 そうであれば、信長の言葉は間違いではありません。砦を陥落させられた規模であるとすれば、最低でも二千はいたでしょう。もっといてもおかしくありません。であれば、三百で向かっていって敗北しても不思議ではありません。信長は推測ですが、多くても二千程度を率いていたと思われます。善照寺砦から中島砦に移動した時に二千に足らない程度です。中島砦の兵力を数百でしょうし、ある程度は残すでしょうから、出撃可能な数は二千程度であろうと考えられます。
 二つの砦を落とされたということを考えて、山の斜面に展開している敵の数を過大に評価することもありえます。また、それとは別に義元らの軍勢も見える位置にいたはずです。
 信長が手近にいる、疲労していると思われる敵に一撃を加え、劣勢な状況を挽回しようとした、ということだった可能性はありそうです。ただし、それ以上の記述はないので、そうであると断言することも出来ませんし、相手が誰であったかも、わかりません。

 続いて、そこへ、前田利家らが首をもってやってきたと書かれています。これを見て、三度戦闘があり、一回目は織田の負け、二回目は織田が優勢(複数の首をとったから)、三回目に義元本隊とたたかって勝ったと解釈する人がいるようです。しかし、二度目の戦闘があったとは書かれていません。なので、前田らは佐々・千秋らの突撃に加わって、生還したと考えるべきだと思います。

 さて、前田らに打ち捨てにせよと再度訓示して、山際まで移動したら、大雨が降り出したと書かれています。ここの沓掛の峠の楠の大木が倒れたという部分は、これは単にそれだけ凄い風雨だったということを述べているだけだと思うのですが、それが見える場所に織田の軍勢がいたはずだという主張をされる方がいらっしゃるようですね。私は単に織田方には追い風、今川方は向かい風の凄い風雨だったというだけだと理解しています。

 「急雨石氷を投打つ」とあるので、雹が降ったのだと言う人がいるようです。確かにそうであってもおかしくありません。もし、そうであれば、今川方はその間まともに行動出来なかったでしょう。

 さて、ここにも一つ重要な点があります。それは従来、織田は東へ向けて移動したと解釈されています。雨は味方の後ろから降って、敵の方へ迎えて降っていたと書かれており、その後に大木が東側へ倒れたと書かれているためです。風雨で大木が東側へ倒れたのなら、風は西から東へ吹いているはずですから、それが味方の後ろ、敵の前へ吹き付けたのなら、当然、敵は味方からみて東にいた、と解釈出来ます。ただし、あくまで東は峠の大木が倒れた方向であって、雨が西から東へ降ったと書かれている訳ではないことに注意は必要でしょう。牛一は余り意図せず、後で、大木が東側へ倒れたと聞いたのでそう記述しただけで、この時の雨が西から東へ降っていたという意味で書いた訳ではないかもしれません。ここでは雨は東向きに降った訳ではないとまで主張している訳ではなく、従来、余りに議論せず東向きだと考えられていることに対する問題提起をしたかったのです。言い換えると中島砦から山際へ行ってそこから東へ移動した、とそのものずばり書かれている訳ではないでしょう、と言いたいのです。

 雨が上がった後、信長は突撃を命じて、今川勢に突入します。すると今川勢はもろくも崩れて装備を放棄して敗走したと書かれています。義元の塗輿も破棄されたと書かれています。
 ここにまた「天文廿一年壬子五月十九日」と書かれています。意味がわかりませんが、後世の追記だとやはり解釈しておきます。

 そして、旗本はこれだ、これを攻撃せよと命令し、午後二時頃に東へ向かって攻め込んだと書かれています。「旗本は是なり」の意味が、織田方の旗本はこれを攻撃せよと解釈する人もいるようですが、私は義元の旗本、つまり、義元がここにいるぞ、攻撃せよと解釈します。

 最初は約三百騎(身分は別して三百人位に見える集団)に守られて義元は後退していきますが、次第に討ち減らされて、最後は義元が討ち取られる様子が書かれています。織田方の損害も決して軽くは無かったようです。私は「御」がついているので、「手負・死人員を知らず」は織田方の話だと解釈します。

 そしてその後に「おけはざま」というところは・・と書かれており、義元ら今川勢が討ち取られたのは「おけはざま」であることを示しています。

 信長は打ち捨てろと命じたものの、実際には織田方は義元を含む多数の首をとっており、清洲にて首実検が行われたことがかかれ、元来た道を戻ったとあります。

 なお、歴史街道の六月号も、「奇襲神話は嘘だった」も掲載しているのはここまでですが、その後ろにも関連する記述はあります。

 山口父子が今川に内応し、笠寺に要害を設け、岡部五郎兵衛(元信)、かつら山、浅井小四郎、飯尾豊前、三浦左馬助が入り(今川からやってきた)。鳴海城には息子の山口、九郎二郎、笠寺の並びの中村に山口左馬助本人が在陣したと書かれています。
 その後、山口父子は駿府に呼ばれた上、理由ははっきりしませんが(織田の謀略と解釈されていることが多いです)、殺害されています。
 それから桶狭間の戦いの間は記述されていませんが、岡部らは鳴海城に入ったのは間違いないようです。そして織田の反撃を受け、笠寺、中村は落とされ、鳴海城は包囲され、桶狭間の戦いを迎えたと思われます。当初、笠寺に入った今川の武将の内、岡部以外がどうなったかは読み取れません。

 駿河の山田新右衛門という人物が義元が討ち死にしたと聞いた後、馬を乗り帰して討ち死に。二股(二俣)城の城主の松井五八郎(宗信)ら松井一門、二百人が枕を並べて討ち死にしたと書かれています。
 河内の服部左京助という坊主が、武者船を千艘出して今川へ味方し、大高城近くまでいったものの特に何も出来ず、帰りに熱田を襲ったら、地元民の反撃を受けて、十数人討ち取られたと書かれています。

 それと織田がとった首級は三千に上ったとも書かれています。ですので、少なくとも直接戦闘した今川勢は三千以上、この時代に過半が戦死ということはないでしょうから、五、六千は最低でもいたでしょう。それでも半数戦死は多すぎます。三方原ですら、戦死は20%に満たないのですから。戦死が30%としても一万程度はいた(敗走した部隊が)と推測出来ます。

 戦闘後、岡部元信は助命され、鳴海、大高、沓掛、池鯉鮒、鴫原の五カ所同時に退散したと書かれています。この間の経緯はよくわかりませんが、この地域の今川勢力が一掃されたのは確かです。岡部が刈谷城を攻めたことは記述されていません。

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ノスタルジックカーショー

 相方がニコンのカメラ教室の撮影会だったので、土曜日にノスタルジックカーショーに一人で行ってきました。
 行ってみて驚いたのは人が少ないことです。ビックサイトについた段階で人が余り歩いておらず、本当にイベントやっているんだろうか?と思った位。チケットは当日券しかないのですが、並ばずに買えました。
 中に入っても人は多くありません。勿論、おかげで写真は撮りやすいのですが・・・・・。キャステルの社長に挨拶した時に聞いてみたところ、ここのところ、毎年こんなものですよと言われました。うーん、そうなんですか。やはり入場料が高いせいでしょうか?勿論、車趣味の人間が減っているというのもあるでしょうが、ニューイヤーミーティングなどはもっと人が多いですからね。まあ、基本的に展示しているだけで、1800円だから・・・やっぱ高いかな?
 今回の目玉はLP400とミウラです。はい、LP400を見に行きました。カウンタック自体は時々見かけますが、ほとんどがクワトロバルボーレを始め、オバフェンの中後期型ばかりです。LP400を公道で見たことはありません。

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 今回は、LP400、LP400S、LP500Sの三台が並べられていましたが・・・・やっぱりLP400は違いますね。基本は同じ車ですけれど、別の車に見えます。ヨーロッパのS1/S2、TC/SPLがかなり違いますが、それ以上でしょう。LP400はやはり良いです。

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 エンジンルームを見ると・・・・やっぱり高いですね。LP500Sはリアハネが邪魔でうまく撮影出来ませんでした。えっとこっちはサイドドラフトからダウンドラフトになっているのかな?

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有名なペリスコープ。追加ミラーでもつけないと意味ありません(苦笑)。

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LP500Sのフロント。荷物は入りませんね。

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 そして珍しいのがウラッコ!乗るといまいちという話も聞きますが、ウラッコもなかなか良いですし、これはカウンタック以上に見かけません。これもいい味だしていましたし、そして右ハンドルでした!いいなあ、これも。

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 キャステルブースのもう一つの目玉はミウラです。400S仕様でしたか?ミウラは詳しくないのでよくわかりません(苦笑)。人がそれほど多くなかった今回のショーですが、カウンタックとミウラの前だけは人だかりでした。

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 エンジンはこうしてみるとそう悪くはない気がします。横置きですが、バルクヘッドぎりぎりに配置していますので、重量配分だけ見れば意外と悪くないように見えます。多分、ミウラはボディ剛性の不足が最大の問題ではないかと思います。

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 ディノも格好良くて好きな車ですが、今回は影が薄かったです(苦笑)。

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 キャステルの裏の目玉はストラトスのボディです。レストア途中で下地まで終わったボディを斜めにして展示していました。これは本当にまず我々が見ることはないものです。じっくり観察して撮影してきました。

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 後、サーキットの狼のディノレーシングスペシャルを実際につくってしまおう!というもののが。雑誌でみたことがあります。今年中にはとりあえず走れる状態になるとか。

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 国産車勢はやっぱりというか、箱スカが中心。次がZと2000GTで正直飽きました(苦笑)。しかし、その中で光り輝いていたのは(私の目にだけでしょうが(笑))はAW!おお!!ついにAWがこういうイベントに登場する車になったのです!

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 1984年式の一型、緑メタとゴールドのツートンカラー、つまりカタログのあの写真の色です。ただ、塗装は綺麗に塗り直されていましたが、細部を見るとフルレストアというほどではありません。ま、展示販売中55万ですからね。箱スカと比べると値段の桁が違います。走行距離8.5万kmだそうですが、まあそのわりには綺麗かな?内装は綺麗に掃除をした程度でした。ホイールとマフラーはノンオリジナル。機械的な部分はわかりませんが、サスペンション周りは覗いた限りではまあまあ綺麗でしたから、そう程度は悪くはないかもしれません。
 でも、それで良かったかな?もし、フルレストア、300万!だったら、どうなっていたかを考えると(笑)。

#勿論、ピー次郎を養子に出して、我が家に招き入れていたでしょう。(^O^)

 隣にあったのは914。エンジンルームを見ると・・・あれ?エンジンがない!?と一瞬思う位、上部がすかすかで低い位置に配置されています。カウンタックと比べると大違い。うーむ、これだけは914をほめるしかありませんね。AWと並んでいましたが、見た目はぶっちぎりでAWの勝ちですが。(^O^)

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 他は少し珍しいのが箱スカのバン。GTRが過半で、普通の箱スカもそう多くはありませんが、バンとなると珍しいですね。

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 それからKPもこういう車の仲間入りですね。出来たら、フルノーマル、フルレストアなんてKP見てみたいですが・・・・誰もやらないか。(^^;

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 それとAWの同世代(少しAWよりも上か)の初代ソアラ、Z31もありました。その間にいたのはGTRではないケンメリ。これも珍しいですね。

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 そしてヨタハチのEV。おいてあったのはEV化された車というよりもレストア途中の車、という感じでボディだけでしたが。

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 後、ビニールレザーのシートや内装の補修のデモもやっていました。写真は撮りわすれましたが。

 ああ、忘れてはいけないロータス。キャステルブースにS2とSPL、それにエスプリ。ベンオートがエリートとS2を展示していました。ベンオートはF2を2台。一台は風戸祐が乗ったマシン。

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 そろそろ帰ろうかなと思っていたらキャステルがミウラとLP400Sのエンジンをかけて音を聞かせてくれるというのでそれを見て帰りました。ま、これは会場中の人が集まったのではなかろうかと位で、車は見えず、聞くだけでしたが(笑)。マフラーの問題もありますが、音だけならミウラの方がいいです。

 人混みが苦手なので、まあ、すいていてよかったです。ま、それでも撮影していると人が入らない、という瞬間はほとんどありませんが。

 ノスタルジックカーショーは初めていきましたが、たまにはいいですね。ただ、キャステルが出展していなかったら・・・・ずいぶん寂しいものになっていたでしょう。

 で、帰りに同じビックサイトでポルシェの認定中古車フェアをやっていたのでちょいと覗いて帰りました。

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 そうしたら担当営業氏がいてどうやら一台売りつけた様子だったので手を振って帰ってきました。

 そうしたら後で電話かけてきました。さすがだね、悪徳・・・・もとい優秀な営業は違いますね。


 

 

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私が義元だったら

 もう一つ、珍説を考えてみます。なお、説を考えたといっても、実はこうだった、というものはなく、あくまで私が義元だったらこうしたというものです。なお、桶狭間の戦いではありますが、桶狭間は戦場にならない・・かも(笑)。

 

1.今川軍の編成
 大高城方面隊:約五千
  丸根砦攻撃隊:松平元康:約千、井伊直盛:約千
  鷲津砦攻撃隊:朝比奈泰朝:約二千
   補給隊:約千

 主隊:約一万
  前衛
   松井宗信:約二千
  本隊
   今川義元:約四千
  補給隊:約二千

 東海道方面隊:約三千
  瀬名氏俊:約三千

 合計一万六千

2.今川軍の行動計画
 目的は大高城と鳴海城の救援。兵糧の運び込みと付け城の排除を行う。最低でも包囲を崩し、両城への補給を実施。

 東海道方面隊は、18日に沓掛城を出発し、桶狭間周辺に陣地を構築し、交通路を確保し、織田軍の反撃を備える。
 大高城方面隊は、18日に沓掛城を出発し、大高城へ補給を実施、その後、丸根砦、鷲津砦を攻略。 
 主隊は、19日 に沓掛城を出発し、鎌倉街道から善照寺砦全面へ展開。

3.実際の行動(私の仮想世界での)
 17日
  義元本隊が沓掛城に到着。軍議を行う。

 18日
  早朝、東海道方面隊は先発し、桶狭間近辺に陣地を構築(瀬名陣地)
  早朝、大高城方面隊は、沓掛城を東浦海道から大高道を使って大高城へ向けて出発。

  知多半島側の砦をまず攻撃するが、守備隊は交戦前に砦を放棄し、逃亡。
  丸根砦、鷲津砦攻撃への攻撃を開始するには時間が遅いので大高城へ入る。随伴の輸送隊により、兵糧の運び込み完了

 19日
  早朝、主隊は、沓掛城を出発、鎌倉街道から善照寺砦へ向けて出発。
  早朝、大高城方面隊は丸根砦、鷲津砦攻撃し、陥落させる。
   丸根砦攻撃
    松平元康:約千
    井伊直盛:約千

   鷲津砦攻撃
    朝比奈泰朝:約二千

  砦攻略後、井伊直盛は大高城にへ入り、知多半島方面からの攻撃に備える。
  朝比奈泰朝、松平元康は、そのまま中島砦方面へ前進

  東海道方面隊は一部を桶狭間に残し、東海道から中島砦前面へ前進。

  主隊は前衛を善照寺砦東側に展開させる。
  本隊は扇川を挟んで、反対側(東南側)の丘陵地帯に陣を張る。

  信長丹下砦から善照寺砦に入るが、既に三方向を今川軍に包囲され身動き出来ない。
  東海道方面隊は中島砦を攻撃し、これを陥落させる。

  朝比奈泰朝は鳴海城を経由し、善照寺砦と丹下砦の間へ前進。
  松平元康はは鳴海城と善照寺砦の間へ展開

  信長は完全包囲されたため、逃げ出すことも出来ず。

  この頃、急に大雨が降り出す。これを見て、信長は前面の義元本隊への急襲を決意。雨に乗じて出撃する。
  焼田橋を渡り、本陣へ向けて突撃。

  激しい雨により、信長の出撃の発見が遅れる。

  義元本陣の目の前まで到達した時に雨は上がり、信長は攻撃開始を指示し、突入。

  これに気が付いた松井宗信は救援にかけつけようとしたが、善照寺砦に残留した織田勢からの応射を受けて足留めされる。
  瀬名氏俊は救援にかけつけるが、中島砦攻略の疲労もあり、行動が鈍く、織田勢の後後衛に阻まれる。
  朝比奈泰朝も移動しようとするが、丹下砦から織田勢が打って出てきたため、足留めされる。
  松平元康は善照寺砦を避けて中島砦側へ移動。

  義元は一時的に後退を決意。
  織田は義元を追撃しようとするが、本隊のその他の部隊に阻まれる。そこに後方から織田勢後衛と瀬名氏俊が戦う横をすり抜けた松平元康が後方から突入。
  織田勢は限界を越えて敗走。信長は鎌倉街道方向へ逃げるが、ようやく前進してきた松井宗信に捕捉され、討たれる。
  朝比奈泰朝は善照寺砦へ突入し、これを陥落させる。
  丹下砦の残存兵力は熱田方向へ退却。
  一連の戦いは終結。

 あれ?今川が勝っちゃった(笑)。やり直さないと。(^^;

 19日:ケース2
  早朝、主隊は、沓掛城を出発、鎌倉街道から善照寺砦へ向けて出発。
  早朝、丸根砦、鷲津砦攻撃し、陥落させる。
   丸根砦攻撃
    松平元康:約千
    井伊直盛:約千

   鷲津砦攻撃
    朝比奈泰朝:約二千

  砦攻略後、井伊直盛は大高城にへ入り、知多半島方面からの攻撃に備える。
  朝比奈泰朝、松平元康は、そのまま中島砦方面へ前進

  東海道方面隊は一部を桶狭間に残し、東海道から中島砦前面へ前進。

  主隊は前衛を善照寺砦東側に展開させる。
  本隊は扇川を挟んで、反対側(東南側)の丘陵地帯に陣を張る。

  信長丹下砦から善照砦に入るが、既に三方向を今川軍に包囲され身動き出来ない。

  中島砦から織田勢約三百が打って出る。東海道方面隊はこれを撃破するが、陣形が乱れ、砦攻撃は遅延する。

  朝比奈泰朝は手越川を挟んで中島砦の西側へ展開し、砦攻撃の構えを取る。
  松平元康は朝比奈泰朝の命により、手越川の北側を移動し、渡河可能な場所を探す。

  この頃、急に大雨が降り出す。これを見て、信長は前面の義元本隊への急襲を決意。雨に乗じて出撃する。
  焼田橋を渡り、本陣へ向けて突撃。

  激しい雨により、信長の出撃の発見が遅れる。

  義元本陣の目の前まで到達した時に雨は上がり、信長は攻撃開始を指示し、突入。

  これに気が付いた松井宗信は救援にかけつけようとしたが、善照寺砦に残留した織田勢からの応射を受けて足留めされる。更に丹下砦から打って出た織田勢に側撃され、行動不能に陥る。

  瀬名氏俊は救援にかけつけるが、行動が鈍く、織田勢後衛に阻まれる。運悪く瀬名氏俊が討ち死にし混乱する。
  朝比奈泰朝も移動しようとするが中島砦から応射を受け、渡河出来ずに足留めされる。

  義元は一時的に後退を決意。
  織田は義元を追撃。優勢だったはずの今川勢は他から救援がこないため、本隊は動揺し、崩される。
  義元はとっさに東海道方向への後退を指示。しかし、織田の追撃は激しく次第に打ち減らされる。
  桶狭間近辺に達したところでついに義元は討たれる。

  手越川沿いに移動した松平元康が追いついてくるが、織田勢は大将ヶ根付近から丘陵地帯を北側(鎌倉街道方向)へ撤退。松平元康は義元を探し、それを追撃せず。首をとられた義元の遺体を発見。
  朝比奈泰朝は中島砦に突入し、これを陥落させてたところで、義元討ち死にを知らされる。
  丹下砦の織田勢との戦いで、更に善照寺砦の残存部隊に突入され、数に勝っていたはずの松井宗信が討ち死に。
  松平元康は朝比奈泰朝らと協議するために鳴海城方面へ戻る。
  この頃、織田側は討ち取られるか敗走し(善照寺砦に残っていた部隊も)、戦闘は終結していた。
  朝比奈泰朝、松平元康らは鳴海城に入り、岡部元信と協議。
   残存部隊を再編成し、鳴海城へ増援を入れ、岡部元信は引き続きとどまる。
   朝比奈泰朝は義元の遺体をもって駿府へ帰還。
   松平元康は岡崎まで戻り、織田の攻撃に備える
  ことを決定し、後退した。 

 よし、今度はちゃんと義元が負けし、桶狭間で討ち取られたし、戦死者も史実通りで、結果的に史実通りの世界につながるはず。(^O^)
 地図を見ながら机上で考えたのですが、大高城方向からくると中島砦を取らないと川に阻まれて移動しにくいです。当たり前ですが、良い場所に砦を築いています。ケース2では、中島砦の早期攻略に失敗したため、義元本隊への増援が遅れ、結果的に討ち取られたという訳です。

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義元は18日中に大高城に入った?

 興味深いことを主張されている人がいます。

http://kagiya.rakurakuhp.net/

 信長公記は、義元は17日に沓掛城に参陣と書いており、その後、19日の昼間には桶狭間山にいたと書いています。が、その間の義元の行動が不明なのです。

 この点について、重要視している人が余りいません。私も気にしたこともありませんでした。

 もう一つ重要な指摘があります。それは信長が敵は大高城に兵糧を運び込んで、丸根砦、鷲津砦を攻めて疲れているが、こちらは新手だと演説している点をほとんどの人はこれは信長の誤認だとしています。しかし、本当にそうだろうか?と。敵がどこから現れたかは砦にいても分かるでしょう。東海道方面から現れたのであれば、信長がいくらそういっても、敵も新手じゃないか、と分かってしまうだろうと。

 確かにそうです。藤本氏がとなえた正面攻撃説(ととりあえず呼んでおきます)は、言いかえると信長公記の記述に忠実に解釈した説、です。なのにここの部分だけ誤認だと言うのはおかしくないかと言われるとその通りです。自説に都合が悪い資料・解釈は使わず、都合が良い資料・解釈ばかり採用する傾向があると指摘しているのは藤本氏ですが、その本人も同じことをやってしまっていないでしょうか?

 この二つの指摘は、目から鱗、でした。また、それに関連して、丸根砦、鷲津砦を攻め落とした今川勢が何故動かなかったのか、という点についても触れています。

 ただし、それに対する回答は・・・納得出来るものではありませんでした(苦笑)。簡単に言えば、義元は18日に大高城に行き、19日に、義元の指揮して丸根砦、鷲津砦を攻め落とし、元康を大高城の守備に残して、残りは中島砦の前を通って東海道から後退。桶狭間近辺で休憩。佐々、千秋は前衛ではなく、その後衛に足止めのために攻撃するも敗北。後衛もその後撤退。信長本隊は追撃し、休息中の義元本隊にぶつかり、攻撃し、撃破したと主張しています。細かくいうと長いですが。

 確かにつじつまはあいます。あいますが・・・何故、鳴海城はそのままなんでしょう?大高城よりもより危機的状況になったと考えるべきではないでしょうか?何故、義元はそのまま引き上げないといけないのでしょう?そして何故、わざわざ危険な敵前を通って?示威行為とも書かれていますが・・・だったら、いっそ中島砦位攻めて、鳴海城に補給しませんか?

 また、大高城に義元がいた根拠に三河物語で軍議があったとかいていることをあげているのも。むろん、事実かもしれませんが、三河物語だけだと弱いでしょう。沓掛城かどこかでの軍議と混同して記述されているかもしれませんし。

 三河物語だけではなく他の資料に書かれている出来事もなるべく盛り込もうとして構築された説です。それはそれで良いのですが、そもそも義元の出兵の理由が見えません。危機に陥っているのは大高城だけで、それも途中から補給の必要性がわかり、更に丸根砦、鷲津砦の排除も後で決まったと主張されていますが、そういう判断なら、出兵そのものがないでしょう?
 それに味方の城が包囲されている以上、後詰めするのが当然です。隣の大高城には兵糧を運び込み、付け城を排除したにの、鳴海城へは見える場所まできて何もせずに帰ったら、織田へ下ってしまうでしょう。それをふせぐための後詰めですから。むろん、後詰めに出兵出来ないことはあります。ありますが、今回は出兵していますからね・・・・。
 刈谷や緒川を攻略するのが目的だったのではないかと記述されている部分もありますが、それなら、先にそっちに行けば良いでしょう。

 しかし、従来なかった発想は興味深いですし、問題提起としては大きな意味があると思います。そこで、19日の朝、義元は大高城にいたという前提で、私なりの説を考えてみました。別の言い方をすると三河物語の記述はおおむね正しいと仮定した場合の説です。

1.今川軍の編成
 前衛
  松平元康:約千
  井伊直盛:約千
  朝比奈泰朝:約二千

 本隊
  今川義元、松井宗信:約六千
 補給隊
  約四千

 別動隊1
  瀬名氏俊:約二千

 別動隊2
  約二千

 合計二万

2.今川軍の行動計画
 目的は大高城と鳴海城の救援。兵糧の運び込みと付け城の排除を行う。最低でも包囲を崩し、両城への補給を実施。
 まず、大高城の救援を実施し、翌日、鳴海城を救援する。

3.実際の行動(もちろん、推測)
 17日
  義元本隊が沓掛城に到着。先行していた前衛らと軍議を行う。
  別動隊1は先発し、桶狭間近辺に陣地構築(瀬名陣地)

 18日
  早朝、前衛は輸送隊の一部(約千)を伴い、桶狭間付近を経由し、大高城へ出発
  続いて本隊も同じ経路で大高城へ向けて出発
  最後に別動隊2が出発し、鎌倉街道を進み、織田側の攻撃に備える(鎌倉街道から背後に回られないようにする)。

  前衛は知多半島側の砦をまず攻撃するが、守備隊は交戦前に砦を放棄し、逃亡。
  前衛は丸根砦、鷲津砦攻撃への攻撃を開始するには時間が遅いので大高城へ入る。随伴の輸送隊により、兵糧の運び込み完了
  夜、義元本隊が輸送隊の残り(約三千)を伴い大高城へ到着。
  接近する輸送隊を目撃した丸根砦、鷲津砦守備隊から清洲へ通報

 19日
  早朝、丸根砦、鷲津砦攻撃開始。
   丸根砦攻撃
    松平元康:約千
    井伊直盛:約千

   鷲津砦攻撃
    朝比奈泰朝:約二千

  砦攻略後、松平元康、朝比奈泰朝らは大高城にへ入り休息。
  井伊直盛はそのまま中島砦方面へ前進
  義元本隊は引き潮を待ち、海沿いの道から中島砦前面へ押し出し、向かい側の山(漆山)に陣取る。

  信長本隊は善照寺砦に到着、桶狭間方向の山に今川勢が陣取るのを認識。
  佐々、千秋らは中島砦から抜け駆けし、義元本隊の内、松井宗信らと交戦するが、敗退。
  信長本隊は中島砦へ移動。
  訓示を行った後、一度南側へ移動し、渡河し、前田利家らと合流
  強い雨が降り出す。この段階で相対的に義元本隊は信長から見て概ね東側に位置。
  雨があがった後、義元本隊が急な雨により態勢が崩れたのをみて、突撃開始。
  前衛(本隊の)が崩れつつあるのをみて、義元は一時退避を決定
  織田が東側から攻撃してきているため、義元本隊は東海道方向へ後退。  
  義元後退を見た今川勢は士気喪失し、敗走。
  井伊直盛は山を降りて戦いに加わるが、混乱に巻き込まれる。  
  雨でぬかるんでいるため、塗輿は放棄。
  信長は後退しつつある義元を発見し、これに攻撃を集中
  追撃戦の末、義元は討ち取られる。
  混乱し、敗走した今川勢は多数が討たれる

  大高城の朝比奈や松平らは状況がつかめないため、積極的な行動には出られない。
  物見が本隊が敗走し、多数の味方が討ち取られているのを目撃。
  当初の兵力差からは敗走が理解出来なかった物見は織田勢を過大評価し、大高城へ報告。
  朝比奈と松平は相談し、義元は後退したとはいえ、討ち取られることはなく、態勢を整え直すだろうと判断。今から中島砦方面へ討って出るのは困難であるため、朝比奈らは大高道を桶狭間方面へ向かい、松平勢は大高城を守ることを決定。

  鳴海城からは状況がはっきり分からないため、行動出来ず。
  信長は追撃を討ちきり、本隊を率いて帰還。
  中島砦と善照寺砦には守備隊を残す。

  朝比奈らは敗走する味方を収容し、撤退。別動隊も同様に後退。

  情報が途絶えて身動き出来なかった元康の元に水野信元から使者が訪れて、今川軍は既に撤退したと知り、後退を決意し、岡崎へ向かう。

  岡部らは鳴海城をあくまで固守。最終的には義元の首をもらう受けることを条件に退去。
  帰路、刈谷城を攻める。

 以上の場合、今川の敗因は、野戦慣れしていない義元の判断ミス(後退の決定が早過ぎた)であると言えます。義元が後退したために士気喪失し、敗走したようなものですから。そのままどんと構えていれば、序盤の混乱も収まって反撃も可能だったでしょう。使者を大高城に送って海沿いから織田の後方を突かせることも出来るでしょう。

 正しいかどうかよりも、つじつまが合うかを重視したものですので・・・やっぱり無理がありますね。
 義元が大高城からわざわざ中島砦の前を横切って、漆山に登る必然性が・・・。(^^;義元がもし、本当に大高城へ入ったのであるとすれば、少なくとも中島砦を落とす位まではそこにいて、部下に任せれば良いように思います。義元は従来、部下に任せて(部下をうまく使って)戦い、相続当初は別にして、自身は余り前線へ出ていません。大原崇孚が健在なら、今回も任せたのでしょうけれど・・・。もしくは、元康がもう少し経験を積んでいれば任せることも出来たかもしれませんが・・・。そういう意味では、たまたま任せられる人材がいなく、やむなく自ら出馬し、戦慣れしていないために肝心の部分で判断ミスをした、ということでしょうか?

 でも、やっぱりなんか無理があります。沓掛城から大高城まで、約21km(地図からはかりとった道のりで)ほどです。時速3kmなら、7時間ですから、朝出て夕方入るのは妥当です(途中の休息も含めれば)。
 ただ、沓掛城から鎌倉街道を通って善照寺砦まで約12kmです。これなら4時間ほどで行けます。道のりだけなら、沓掛城から桶狭間とほぼ同じです。桶狭間から東海道を通って中島砦は約6.5km、2時間ちょっと。
 大高城から海沿いに中島砦にいくとすると約9km。3時間です。

 わざわざ遠回りしなくても、沓掛城を早朝に出れば午前中のうちに善照寺砦を攻めることが出来ます。道のりだけから言えば。

 19日の昼前に桶狭間についたのだとすると、義元は19日の朝に沓掛城を出たのでしょう。18日の朝に松平や朝比奈らが沓掛城を出たとすると大高城へ夕方入るのもおおむね妥当です。輸送隊を伴えば行軍速度も低下するでしょうし、入城前に進路を確保することも必要でしょうから。

 うーん、先行させた前衛隊に大高城を開放させ、それに続けて、本隊桶狭間から東海道を通って進撃し、中島砦、善照砦を攻略し、鳴海城を救援、というのは間違っていないように思えてきました。沓掛城から鎌倉街道を通って善照寺砦を攻撃するのは手っとり早いですが、攻略に手間取ると大高城方面と分断されますので、安全策を取るのなら、東海道経由中島砦、でしょう。本隊まで大高城経由でいくと遠回りですし、道路も渋滞するでしょう。

 そういう風に考えれば、松平、朝比奈らは、本隊が中島砦、善照砦を攻略するまでは休養していて良いと言われて、19日中は大高城にとどまる予定だったのかもしれません。
 鳴海城が開放され、本隊がそこに入った後、次の行動を決めるつもりだった、とするとそう不自然ではないでしょう。のんびり連絡を待っていたら、本隊が敗走してしまった・・・と。邪推すると元康らが油断して気が付くのが遅くなるという失態を犯し、神君家康公の失態を隠すために資料上、触れられていない、ということかもしれません。

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桶狭間ブーム

 「桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった」を読んだ後、たまたま雑誌の歴史街道の6月号が桶狭間特集だったので買って見ました。ふーん、小和田先生も正面攻撃説に転向しているですね。でも、いまだ、簗田情報に固執されているようで。
 方角誤記なんてことを言っている人もいるようですが、「東」と書かれているのに対して、もし、こっちなら「東南」だからおかしい・・・とうのはおかしいでしょう。この部分に「東」が三回、「戌亥」が一回です。ただ、この当時、コンパスと地図をもって行軍していた訳ではありませんから、時間と太陽の一から大ざっぱな方位が分かるだけです。時間も時計を持ち歩いていた訳ではありませんし、かなりの誤差はあります。ですので、「東」というのは西か東かと言えば東、という程度の大ざっぱな方向に過ぎないと思います。後は藤本氏が指摘するように自説に合わせた強引な解釈が多いですね。細かい評論はやめます。

 まあ、そういう訳で、たまたまなんですが、続けて桶狭間関係の文章を読んだので、現在、桶狭間の戦いが、所謂、マイブーム、です(笑)。

 基本的に資料が信長公記しかない上に劇的な勝利であるため、不明な点が多く色々な説が述べられている訳ですが、一般的には信長がどういう風に義元を攻撃して勝利したのか(双方の兵力や簗田出羽守がどういう働きをしたのかなども含めて)、に議論が集中しているように思います。それに続くのは義元の目的は何であったかという点でしょうか。

 それ以外にも疑問だらけで、私は以下のような点についてどうだったかに興味があります。

1.今川軍の行動計画と編成
2.在鳴海城守備隊の動向
3.在大高城部隊の動向
4.丸根砦、鷲津砦を先に攻撃し、中島砦、善照寺砦を後回しにしたのは何故?

 今川軍は信長公記の記述では四万五千ですが、実際にそうだったとは誰も考えないでしょう。太田牛一には味方の数は分かっても、敵の数は正確にはわかりません。これは今川がそう誇張していたという程度の話だと思われます。実際にはどれくらいだったのか?一万石で二百五十人動員という基準を元に二万五千人としたのは、参謀本部編纂の日本戦史です。何かと批判の多い日本戦史の記述ですが、この数字そのものはそれほど大きな批判は加えられてはいないようです。一万説を除けば、概ね二万前後だったと主張する意見が過半を占めているようです。
 ただ、義元本隊の数がどれ位だったのかという点は議論がありますが、今川軍の全体の編成とその行動計画はどういう風になっていたか、はそれほど明確な意見が述べられていないようです。
 勿論、信頼出来る資料が無かったので仕方無いといえばそうなんですが、何故、桶狭間の戦いがああいう結果に終わったかを説明するには重要な話に思えます。
 そしてそれは上記の2から4の疑問への答えにもなると思います。

 私は一次資料どころか、二次資料も読んだこともなく、精々三次資料以降しか読んでいません。ですから、これが真実だった!と主張する気はありません。ただ、疑問に思った点の自分なりの回答として考えてみたいと思います。それをもとに、もしかしたらこんな戦いだったのかも?というのを書いてみます。更に言えば、現在の常識を踏まえた私だったらそうしただろうという物でもあります(なので、当時の常識には反しているかもしれない)。

1.今川軍の行動計画と編成
 一万石につく二百五十人は目安に過ぎませんし、状況によっても異なってきます。それに反する動員を行った例はいくらでもあります(もっとも数の正確性はどれも保証されていないといえばそうですが)。

 まあ、そうとはいえ、二万前後というのは妥当な推測であろうと思います。後に家康が独立し、三河一国と遠江半国を領有していた時期に機動運用出来た軍は一万に届かなかったようです。この当時の今川の領土はその倍強はあるでしょうが、三倍まではないはずです(知多半島は概ね織田側)。ですので、今川が機動運用出来るのは二万程度というのは妥当な数でしょう。太閤検地のデータから言えば、駿河、遠江、三河の三国で合計約70万石。尾張の一部は勢力圏に納めていますが、刈谷は織田方ですし、戦国期に開墾されたのもあるでしょうから、石高から言えば、概ねこれが上限でしょう。単純計算では17500人です。石高だけで決まる訳ではない(戦国大名の収入源はそれ以外にもありますから)ですが、約二万程度というのは最大限動員すれば可能な数だと思います。

 なお、この二万は当然ながら、三河や遠江などの元々は独立していた今川に従属する周辺勢力から提供される兵力も含んでの話です。今川家譜代衆の兵力はそれよりも少なくいでしょう。

 ただし、動員可能兵力と動員された兵力は同一とは限りません。補給の問題も考慮して、全力出動・・・ではなかった可能性はあります・・・というか、全力動員なんてそうそうやらないでしょう。ゲームじゃないんですから。

 その内訳については農民兵が過半だったとかなんとかかんとかという議論はあっても、部隊別の推測を述べているものを余り見かけません。これはもっと議論があっても良いと思うのですが?勿論、資料が少ないというのはありますが・・・それをいったら奇襲論でも同じですからね。

 分かっていることを述べます。ただし、信長公記は織田側の記録であり、記述がほとんどありませんので、それよりは信頼性の落ちる他資料(三河物語などなど)を元にせざるを得ませんが。

 鳴海城守備隊
    岡部元信
 大高城守備隊
  鵜殿長照

 丸根砦、鷲津砦攻略隊兼大高城補給隊
  松平元康率、朝比奈泰朝

  少なくとも上記の部隊はその詳しい数は別にして存在と目的がはっきりしています。
しかし、それ以外がはっきりしません。

 前軍:松井信元、井伊直盛ら?
 本隊:今川義元、瀬名氏俊?

 の二つに分かれていたらしいこようには思いますが、前軍(前衛軍)と呼ばれる部隊が単に本隊の前方警戒部隊だったのか、それとも中島砦、善照寺砦攻撃隊であったのかははっきりしません。井伊直盛は丸根砦攻撃に加わっていたという説もあるようです。

 義元の本隊については、鳴海城へ向かっていたという説と大高城へ向かっていたという説はありますが、これはどちらかというとどこで織田軍から攻撃されたかの議論の一部として言われているだけに思えます。

 仮に本隊は大高城を目指していたとします。そうすると中島砦、善照寺砦攻撃隊が別に存在し、接近していたであろうと思います。少なくともその方面からの織田軍に備える部隊はいたはずです。ただ、そうであるとしたら、何故、それらはもっと早く攻撃を開始しなかったのでしょうか?鳴海城も大高城ど同様に兵糧などの補給も含めて救援を待っていたはずです。

 義元の作戦がわからないので、はっきりとしたことは言えませんが、義元が東海道から中島砦、善照寺砦方向へ向かっていたとするとその中には
 中島砦、善照寺砦攻撃隊
 本隊
 輸送隊:鳴海城への補給及び遠征に必要な物資の輸送

 の三つには分かれていたと思われます。また、本隊も相応の警戒部隊を周囲に配置
していた可能性あると思います。これはほとんど一体(連続して)になっていたかもしれませんが。

 また、鎌倉街道を尾張方向へ進んでいた部隊があってもおかしくはないと思います。この方向から沓掛城への織田の攻撃に備える必要はあると思います。そのまま進めば善照寺砦ですし、その後方を遮断することも出来ます。

 それぞれの数を推測してみます。大高城補給隊は丸根砦、鷲津砦攻略には直接参加
しませんから、二つに分けて考えます。

現地守備隊
 鳴海城守備隊:岡部元信:五百から千=>1
 大高城守備隊:鵜殿長照:五百から千=>2

大高道方面
 丸根砦、鷲津砦攻略隊:松平元康率、朝比奈泰朝:三千から四千=>3
 大高城補給部隊:千から二千?=>4

東海道方面
 中島砦、善照寺砦攻撃隊:松井信元、井伊直盛ら?:三千から四千?=>5
 本隊:今川義元、瀬名氏俊ら?:五千ら六千?=>6
 輸送隊:千から五千?=>7

鎌倉街道方面:存在した証拠はない
 別動隊:千から三千程度?=>8

  合計一万数千から二万程度(守備隊を除く)

1と2
 鳴海城守備隊と大高城守備隊は、数百だったかもしれません。が、岡部元信が義元の首をもらうまで籠城し、帰路刈谷城を攻めた、という話があるので(それが事実なら)、千はいたと思われます。数百だけなら、義元が救援に来る前に織田が強襲して鳴海城を奪取することも出来るでしょうし、刈谷城を攻めることも出来ないでしょうから。


 守備隊がそれぞれ千であるとするとそれを包囲する砦には数百から五百程度の織田軍がいたでしょう。そうするとそれらを攻撃する砦攻略隊もそれぞれの砦に千から二千の兵力を要します。丸根砦、鷲津砦攻略隊は、大高城への補給任務もありますので、大目にみて、それぞれ二千の合計四千。


 よくわかりません。どれだけの物資を持っていくかによります。大高城がどれだけの物資を必要としてたかわかりません。


 中島砦、善照寺砦攻撃隊は、善照寺砦はもっとも規模が多く、攻略にも兵力を要すると思われますので、やはり合計して四千程度と考えました。


 義元が三百騎に守られて後退したという記述を考えると崩れだした段階でもそれだけのまとまった戦力が存在したということが出来ます。この「騎」というのはあいまいな言葉ですが、士分の人間が約三百人ほどいたいように見えた、と解釈すると一般的には武士(士分)は一割程度だと言われていますので、義元本隊は最低三千程度はいたはずです。崩れだした段階でそれだけかたまっていたということは総兵力はもっと多いと考えられます。なので、五千から六千と想定しました。実際には人数が約三百(全員が士分ではない)だったかもしれませんが。


 輸送隊にどれだけの人員が必要になるかはどれだけの物資を輸送する必要になるかにより決まると思いますが、それは義元がどのような作戦を考えていたかが分からないと分かりません。遠征軍といっても、自己の勢力圏内ので移動ですから、本拠地から延々物資を運ぶ必要はないでしょう。基本的には三河にある物資を三河の人員で前線まで運んだだけだろうと思います。しかし、もし、清洲まで攻め込むつもりなら、兵糧は各自自弁が原則で、自ら運んでいた(各部隊の中にそれぞれ輸送に携わる人間がいた)としても、相応の規模の輸送隊が存在していたでしょう。


 存在を確認出来る資料はありませんので、いてもおかしくない、という程度に過ぎません。誰かというのは難しいです。

 織田側ですが、

 丸根砦守備隊:五百
 鷲津砦守備隊:五百
 中島砦守備隊:五百
 善照寺砦守備隊:七百
 丹下砦守備隊:三百
 信長直率:二千
 合計:四千五百

 と想定しました。勿論、この外の拠点の守備隊も存在していたはずですが、ここでは含めません。砦の守備隊はもう少し少ないかもしれませんが、佐々、千秋らが中島砦から三百で討って出たと考えると(そう明確に記述されている訳ではないし、彼らが中島砦の守備隊であるという根拠もありません。砦の長は、梶川平左衛門ですが、彼が出撃したとは書かれていません。そうすると清洲方面から先行してきていた可能性もあります。)、三百が中島砦守備隊の総数だったとは思えません。百か二百が残していたでしょう。そして丹下砦は別にして、残る四砦の中で中島砦はもっとも規模が小さかったように思えますので、中島砦に四、五百いたのなら、丸根砦、鷲津砦も少なくとも同数はいたでしょうし、善照寺砦はもっと多かったはずだと思います。配分は別にして五つの砦で合計二千五百というのは守備隊千が守る城を包囲するのには適切な数ではないかと思います。少なくとも合計で二千程度は必要ではないでしょうか?

 なお、大高城の知多半島側にあったとされる砦は、信長公記に記述がないので、判断が難しいです。大高城に兵糧を運び込まないといけなかったということは鳴海城と同様に包囲されていたはずで、そうであれば、知多半島側に砦があって守備隊がいてもおかしくありません。ただし、この方面は元々織田側ですし、三河から行くには大高道を通るしかないようなので、街道を封鎖出来れば、大兵力でないと補給は遅れない状態であったということかもしれません。または、これらの砦は知多半島の織田側が守備していたので触れていないということもあるでしょう。

 以上は細部はともかく、義元は沓掛城を出て、東海道から中島砦、善照寺砦方面へ向かっていた(鳴海城の救援に向かっていた)という前提で推測したものです。それが違うと話はまた違ってきます。この点はまた後で述べます。

2.在鳴海城守備隊の動向
 岡部元信は、何故、義元が危機に陥った際に出撃しなかったのでしょうか?勿論、まだ、包囲されており、精々千程度しかいないということを考えれば、打って出るのは危険ではあります。
 が、織田が中島砦や善照寺砦に残した戦力は合計しても、鳴海城守備隊を下回るでしょうから、義元の危機を知れば、織田の背後を付くのが自然です。臆病な武将に率いられていたのなら、こもったままでしょうが、忠義心の高い果敢な武将が率いていたのですから。
 状況が分からなかった、のでしょうか?鳴海城からは直接戦場が見えなかったのだと思います。戦闘が行われている気配は感じられても、それは救援部隊が織田軍を攻撃している、としか思えなかった可能性はあるでしょう。伝えられているように桶狭間で戦いが行われていたとしたら、鳴海城からは見えないでしょうから。織田方が善照寺砦に多くの兵を残したように見せかけたという話もありますので、相対的に劣勢と判断したということはあると思います。

3.在大高城部隊の動向
  大高城には、本隊に次ぐ有力部隊が存在したのですが、これらも敗戦後にそれを知るまで動いた気配がありません。二つの砦を落とした後、全員が大高城に引き上げたのであれば、これまた知るすべがありませんので仕方無いでしょう。でも、少数の監視部隊位は砦の跡地に残さなかったのでしょうか?残していれば高みから戦闘が行われ、織田が押していることはわかりそうなものです。また、次の目標は鳴海城救援なのは明らかです。であれば、当然、中島砦方向へ前進してもおかしくないと思うのですが・・・・。
 油断、でしょうか?自分たちは命じられた任務を無事に終えていますし、兵力差から考えて、中島砦、善照寺砦攻撃が失敗するとは思えません。短時間で強襲して攻め落としたので、相応の損害も出ているでしょう(三河物語によると松平勢は名のある武将も何人か討ち死にしたとある)し、疲労もしていたでしょう。元康は別にしても、家臣には、義元への反発心もあるでしょうから、仕事は終わった、しばらくは休ませてもらう、という気持で他のことに関心を持たなくても不思議ありません。
 もし、義元の危機を知ることが出来れば、救援にかけつけたと思います。その時には戦いは既に終わっていた(義元は討たれていた)かもしれませんが、織田も背後を新手に突かれることになりますから、元康らは、義元の敵を討てたかもしれません。
 ただ、それにしても、丸根砦、鷲津砦またはその前方にまったく部隊を展開していなかった・・・というのは信じ難いのですが・・・。大高城へ下がったのは明らかな松平勢は別にして朝比奈らは何をしていたのでしょう?ここは私にとって最大の謎です。

4.丸根砦、鷲津砦を先に攻撃し、中島砦、善照寺砦を後回しにしたのは何故?
 今川勢の作戦を考える上でもっとも重要な疑問はこれだと思います。包囲されてしまっている鳴海城と比べれば状況はそれほど悪くはなかったと思われる大高城への補給と丸根砦、鷲津砦の攻撃の方が先に行われているのがどうにも理解出来ません。丸根砦、鷲津砦を落としても中島砦が残れば、鳴海城の包囲はとけません。その理由を考えてみたいと思います。

可能性1:偶発的な出来事による
  本来は中島砦、善照寺砦と同時に丸根砦、鷲津砦を攻撃する予定であったのが何らかの問題が生じて、丸根砦、鷲津砦攻撃が早まってしまったか、中島砦、善照寺砦攻撃が遅れてしまったということもあるかもしれません。無線どころか有線電話もなく、伝令を走らせるしかありません(狼煙などもあるにはあるにしても野戦では無理でしょう)。予定外の出来事が起きたとしても、それに併せて行動を変えるのは容易ではありません。

可能性2:鳴海城救援は目的ではなかった
 小和田氏らが主張するように義元は大高城へ向かっていたとします。そうであるとすれば、大高城の安全を優先するのもわかります。また、元康らが大高城にとどまったのも義元と合流するためと考えれば理解しやすいです。
 義元の作戦が丸根砦、鷲津砦をまず攻撃し、大高城の安全を確保しまたそれにより信長を清洲からひっぱり出し、中島砦、善照寺砦を別動隊により占領し、信長本隊には三河衆らをぶつける、というものであれば、なんら不思議はありません。
 その場合には、出兵の目的は単に鳴海城救援ではなく、織田の主力の撃破とあわよくば更に奥深く尾張へ進攻すること、であったでしょう。
  ただ、大高城と鳴海城の間は海沿いの道しかないので、尾張進攻作戦の拠点にするには不便にも思えます。

可能性3:安全策を取った
 信長公記に記述されているように満ち潮の時間を選べば、丸根砦、鷲津砦へ織田側は増援を送りにくくなるので、潮の時間にあわせてまず丸根砦、鷲津砦を攻撃。それにより両方向から中島砦、善照寺砦を攻撃出来る体制を確保してから、総攻撃を考えていたのかもしれません。
  善照寺砦は規模は大きかったようですので、強襲により短時間で攻略するのは難しい(犠牲が多くなる)と考えて、言わば、善照寺砦を鳴海城を合わせて三方から包囲して攻略する計画であったのかもしれません。
 ただ、その場合、義元が19日の夜、野営する必要があるかもしれません。もっとも中島砦は規模は小さいようなので、19日の内に攻略して、鳴海城へ入るつもりだったかもしれません。
 そして、20日に善照寺砦に対する総攻撃、と。

 でも、やっぱりなんかすっきりしません。現代人の私なら、鎌倉街道、東海道、大高道の三方向から分進合撃を何故行わない?と思ってしまいます。

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ルーテシア試乗

 相方が美容院にいっている間に、ルノーのルーテシアに試乗してきました。ゴルフ6梅は素晴らしいのですが、大きいのと装備に難があるので、他に乗り心地の良い車がないかを調べるためです。
 試乗したのはフェイスリフト後のルーテシアの4AT(現状、特にグレードはなく、MTかATかの区別しかない)。ゴルフと比べると小さいのですが、全長が4025、全幅が1720と日本市場を考慮していない大きさです。3995、1695に抑えることは十分出来ると思いますが・・・・(4m未満だとフェリーの料金が安いし、5ナンバーだと有料道路で安い場合があるなど、メリットはある)。
 シートは意外と硬め。ポジションはまずまず合いますが、足下のオフセットはありません。ですが、ATの場合にはブレーキが左へオフセットしてくれた方が左脚ブレーキ踏みやすいので、実は都合が良いです。これだとちとそれがつらいです。
 視界などは普通です。さて、発進。あれ?ウインカーはどれだ?(^^;ああ、この短いのがそうですか。ライトとウインカーのレバーはあるのですが、やたら短くて太くて最初わかりませんでした。形状を除けば普通ですが。
 今度こそ、発進。なんかとろいな?エンジンは1.6で、車重はゴルフよりも軽いからもっとするっと出ると思ったのですが?その後も加速は期待よりものろいです。なんか我が家のなっちゃんと変わらない位。
 後で確認すると車重は1190kgで、112馬力、15.4kgmでした。うーん、でも、やっぱりゴルフE並というのは変なような?ここは6ATと4ATのミッションの違いでしょうか?
 さて、問題のというか、期待の乗り心地です・・・・あれ?なんか意外と硬さがあるような?全体としては柔らかいと思うのですが、時々硬さが出ます。うーん、乗り心地良くない・・・。ずっと柔らかいか、ずっと引き締まっていた方がいいです。なんだこれ?ティーダみたい(プラットフォーム同じ??)。やっぱりリアがトーションビームだからでしょうか。過去、FFで試乗して乗り心地が良いと思ったもので、トーションビームはごくわずか(フィエスタの前期型と先代C3)。なんかリアの動きに違和感があるのですよね。これもそんな感じがします。

 うーん、駄目。なっちゃんよりは良いですけど、乗り心地重視で買い換えるほどではありません。おまけにとろいし。

 ああ、先代でなんじゃこれと思った電動パワステは普通になってました。ただし、乗り心地は先代の方が良かったと思います。
 エンジンはこれはやはりMTでちょっと回し気味に乗ると良いのでしょうね。4ATだと合わない気がします。
 という訳で、ルーテシアは駄目です。残念。雑誌の評価は高かったのですけどねえ。あれかなあ?まだ距離走っていないので脚がなじんでいない、というやつでしょうか?まあ、それにしても・・・うーん、好みとはやっぱり違います。

 3ドアなので対象にしなかったトウィンゴはどうだろう?機会があれば試してみたいです。

 なお、ルーテシアRSの試乗車もあるということだったので、ついでに試乗させてもらおうと思っていたのですが、注文殺到で試乗車も中古車として売却済みになってしまっていて、試乗出来ませんでした。(^^;まだ、店頭においてあったので見るだけ見ましたが、結構、いい感じ。ま、これは自分の車にしかならないし、MTとはいえ、仏車のFFという選択はないとは思いますが。でも、フォーカスSTと同じにおいを感じますので乗れば良い車でしょうね。

 

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BMW X1・・・ではなく、アウディA3スポーツバック試乗

 相方が何故か、X1に興味を持って見に行きたいというので行ってきました。顔見知りの営業氏は不在。まあ、見せてもらえればいいやと思ったら、試乗車はフル回転中とのこと。おやま。まあ、試乗車が入ったのは今週末が最初みたいなのでこんなものでしょうか?
 ショールームの中にはありませんが、外にもう一台ありましたのでそれを見ました。ただし、これは納車予定の車をおいてあったようで中には入れませんでしたが。それを見た相方は・・・でかい!と。いや、でかいですよ、はい。あれ?もしかして知らなかった?(^^;ま、でかいといっても、3シリーズと比べるとまだ短いのですが。相方は1シリーズの屋根が少し高くなったようなものをイメージしていたそうです。スペックは確認しなかったのね。(^^;;まあ、なんで興味を持ったのか不思議だったのですが・・・そういうことでしたか。
 という訳で、X1はそれでおしまいです(笑)。

 16時に来客予定で、それまでまだ時間があるので、前回試乗しそこなったアウディへ行って試乗させてもらいました。A3スポーツバックの1.4です。候補になっているのはまさにこれです。前回、ショールームにおいてあったのはSラインだっけ?シートやら違う車だったので、ノーマルの1.4の実物は初めて見ました。
 シートはゴルフと同じかと思ったらそうでもなく、表面はやや柔らかめです。操作方法は同じなので、シートのフレームなどは共通でしょう。他は余り差はありません(兄弟車だから当たり前)。パドルはないのでレバーで操作するため、アームレストがちと邪魔ですが。

 さて発進。うーん、まあ、こんなものかな?特別速くはありませんが、うちのなっちゃんほどとろくもありません。ただ、ゴルフ6竹の方が出足は良かったようなと思いましたが、スペックを確認するとA3は1380kgなので、竹と比べると100kgほど重いことがわかりました。ここが6と5の差かな?とはいえ、実用上問題はありません。普通に走っていきます。
 乗り心地ですが、結構良いです。昔、A3スポーツバックという名前になった頃に試乗した時にはやたら硬くて酷い乗り心地でエンジンもがーがーうるさいし、速くもないし、酷い車で、アウディというのはこんな車だったとは思わなかった、という代物でしたが、これは別物です。多少、こつこつくる時もありますが、総じて乗り心地は良い方ですし、今のゴルフよりは遙かに上です(3年過ぎて、タイヤが劣化しているという部分を考慮する必要はありますが)。ただし、相方は少しこつこつが気になったようで、タイヤは薄いかと聞いて来ました。竹と同じサイズなので、特別薄くはないです。
 エンジンは基本的には竹と同じものですが、音はこっちの方が良いです。そして、静粛性も高いです。ただし、梅と比べるとどうかというと・・・・いい勝負かな?エンジン音は梅の方が良いかも。
 後は特にどうこういうことはありません。欠点らしい欠点のないなかなか良い車だと思います。装備もまずまず充実しています。値段も竹よりは高いですが、シートヒーター付きのレザーシートがつけられるので、純正オプションでシートヒーターは付きます(ファブリックではないですが)。ゴルフ6は純正ヒートヒーターをつけるとなると松にレザーシートしかないので、それよりは安いです(動力性能も違うけど)。
 問題は色です。白黒赤銀、それに紺とガンメタと暗いグレーしかありません。A4の展示車がガンメタ(ラバグレーパールエフェクト)だったのですが、相方はこの色ならいいかもと。そういえば、ガンメタ、車によっては好みますね。ゴルフも色は余りないので、そういう意味ではいい勝負ですね。
 そろそろ来客の時間なので撤退しました。ただ、車は良いと思いますが、アウディは営業の売る気がいまいち欠けていますね。見積もりを、とか、下取り査定を、とかがなくて。車検通したばかりだったので、まだまだ先だろうと思われている・・・のかな?でも、前回は車検前でしたが・・・・。

 帰りに相方はちょっと高いけど、結構いいねと。ゴルフ6梅は車はいいけど、比べると割だかな気がすると。ゴルフ6梅は257万という価格自体は安いものの、今時、ウレタンのステアリングで、マニュアルエアコン、アルミホイールもないので、それを考えると価格差は少ない上に、ホイール以外はオプション設定もないから、我慢しないといけない、というのが気になるようです。
 ただし、それらを気にしなければ、ゴルフ梅は最良の選択だと思います。あの乗り心地は・・・ドイツ車の中で最良のものです。エンジン音もVWらしくなく良いですし。ただ、買う本人が不満が残るとしたら選ばれないでしょう。ただし、うちのなっちゃん(サンクスでディション)のような特別仕様車がでて、問題点が解決されれば、梅で即決だとは思います。

 ま、あわてないので、色々見せていくつもりです。来週はシトロエン!C3に試乗予定です。シートヒーターは純正では設定ありませんが、見た目は相方気に入っていますし、Bセグなので小さいし、安いですから。乗り心地が良ければ、なんと我が家に仏車がくる、ということもある・・かもしれません。

 しかし、最近のVW系は、出来が良いですね。BMWはランフラットのせいでどうもふるいませんし、他メーカーもいまいちなんですが・・・・。先日ちょっと試乗したルノー・ルーテシアは期待に反して乗り心地はそれほどよくありませんでしたし。C3はどうかな?先代はほんわか系で結構良かったですが。

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LFA

 GT-R(R35)との0-400(正確には1/4マイル)対決の映像です。
http://response.jp/article/2010/05/11/140248.html
 素晴らしい!いや、音です、音!まさに、まるでF1みたいです。いやあ、いいなあ。欲しい!ま、買えませんけど(笑)。
 コストパフォーマンスはGT-Rが遙かに上ですけれど、とはいえ、欲しいのは速さではありませんからね。

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藤本正行著「桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった」洋泉社

 たまたま書店で、見かけて、そういえば、正面攻撃説を最初にとなえた藤本氏の桶狭間についての書籍を一つも読んでいなかったことに気が付いて買って読んでみました。
 一言で言えば、ほとんどが自説への反論に対する反論でしめられていて、余り目新しい情報はありませんでした。

 藤本氏は基本的には信長公記の記述から分かることだけを述べている(ただし、そうでない部分もある。例えば、鷲津砦を攻めたのは朝比奈泰朝のはずと記述したりしている。)ので、何故、信長が勝ったのかは詳細に述べていません。部分的には推測や自分の考えも述べていますが、他の説と比べれば、それが占める割合は少ないでしょう。

 取り上げられている自説への反論は・・・ほとんどがまじめに取り合う必要のないようなものばかりです。いちいち反論しなくても、信じられないようなものがほとんどです。

 藤本説への反論が多いのは、「何故、信長が勝利したのか明確にわからない。不明な部分が不明なまま残されている。」ということなのでしょう。そしてもう一つ。なんといっても、通説をひっくり返した藤本氏の功績は大きいのですが、それを素直に認められないまたは自らが真実を見つけだしたいという、気持を持つ持つ人が多いので、単純に同意せず、いや、それは違う、本当はこうだ!と主張する人が多いのかなとも思います。

 勿論、藤本説の問題もあるとは思いますが、とはいえ、他と比べればはるかにましだと思います。藤本氏は、基本的には信長公記に書かれていないことはわからないと割りきって、書かれていることのみをとりあげて構築しています(ただし、例外もある)。

 まとめると

1.鷲津砦、丸根砦が攻撃されてから清洲を出発
2.熱田神宮で、両砦が陥落したらしい黒煙を目撃してから、丹下砦を経由して善照寺砦へ移動
3.佐々、千秋らが今川勢へ向けて攻撃をしかけて敗北
4.制止する家臣を降りきって中島砦へ移動
5.目の前の敵は大高城へ兵糧を運び込み、砦を攻めて疲れているが味方は疲労していない、数が少ないからと心配する必要はないといい、今川勢への攻撃を命令、首はとらずに打ち捨てを指示
6.山際まで移動したところで雨が降り出す(この時の雨の降り方の記述から今川勢は織田勢の東側に存在と推測)
7.雨があがってから突撃を命令
8.今川勢は崩れる。義元の塗輿を放棄される。
9.退却中の義元を見つけて、これを攻撃せよと追撃を命令
10.織田勢は東へ向けて攻撃
11.義元は約三百(正確な数とはいえない)騎に守られて後退
12.義元の護衛は再三踏みとどまって反撃するも数を減らす
13.義元はついに討ち取られた

という経緯だと主張しています(細かい部分は省略しています)。これらは解釈に違いは出る可能性はあるにしても、信長公記に書かれている記述からそう受け取れることばかりです。

 ただし、不明な点は残ります。それが反論を呼んでいるのでしょうが。反論を呼んでいるのは主要なものを抜き出すと
1.佐々、千秋らは何のために、どこから出撃し、誰と戦ったのか?
2.織田勢は中島砦からどこへ向けて進撃し、どこで今川勢と交戦したのか
3.その相手は佐々、千秋らが戦った相手と同じなのか違うのか
4.義元はどこで討ち取られたのか
だと考えます。一言で言えば何故織田が勝てたのか、その藤本氏の説明になかなか納得しない人が多いからでしょう。藤本氏は説明しているとは言うものの、誰もが素直になっとく出来るものではありませんので(事実はその通りかもしれないにしても、奇襲出来たから勝てた、というほどすっきりするものではないから)。

 東へ向けて進撃したということ以上は記述されていないのでわかりません。藤本氏は佐々、千秋らの相手は義元の本隊よりも前にいた部隊(前軍)であり、信長はこれを撃破し、それが本隊へ向けて敗走したため、混乱に陥ったと主張しているようです。ここが突っ込みところであるため、色々な批判・反論を受けています。

 細かい部分は除いて、私には藤本氏の主張(解釈)は常識的なものに思えます。

 義元のこの段階の目的(長期的な目的は別にして短期的な目的)は、鳴海城の救援と考えられますので、そうであれば、大高城へ向かっていたのではなく、中島砦と善照寺砦を攻略し、鳴海城へ兵糧を運びこもうとしたと考えるのが自然です(前提が正しければ、ですが)。その場合に本隊がそのまま攻撃するのではなく、中島砦攻撃隊と善照寺砦攻撃隊が別に存在(両者は一つかもしれないが)しているでしょう。ですので、前軍と本隊に分かれていたと考えられます。
 佐々、千秋らが戦った相手は本隊ではなく、前軍と考えるのも自然です。鳴海城へ突撃する意味はありませんから(三百で攻めて勝てるならとっくに鳴海城は落ちている)。善照寺砦に信長が到着したのを確認し、抜け駆けしたというのも特におかしな解釈ではないでしょう。

 ただし、義元の兵力が一般的に考えられている二万人程度(日本戦史の二万五千をそのまま肯定しない人でも、だいたい二万前後と考えている人が多い)ではなく、もっと少なかったとすると砦攻撃隊は別途存在せず、義元の本隊がそのまま攻撃する予定であったと考えることも出来ます。その場合には、前軍とは本隊の前衛であったと思われます。

 「義元の短期的な目的が鳴海城の救援だった」という主張を覆すのは難しいでしょうし、それを否定している人はほとんどいないように思います(まったくいない訳ではないですが)。義元自身がやるかどうかは別にして、上洛するにしても、尾張制圧にしても、まずは、織田に包囲されている大高城、鳴海城を救援する必要があるでしょう。それを放置して前進することは出来ません。大高城に兵糧を運びこみ、付け城(砦)を排除しています。当然、鳴海城も同様に付け城を排除し、兵糧を運びこむはずです。藤本氏がこれが出陣の目的だったとするのは自然なことです。

 その後の戦いは、詳細はよくわからんけど、突撃したら織田が勝った、ということなので・・・明確な反証がない限り、否定しようにも否定出来ないように思います。だって、信長公記そう書いてあるのですから(笑)。

  書かれていないことを主張し、こうだったはずだと言っても、根拠に乏しく、藤本説よりもどうしても弱くなるでしょう。

 ただ、藤本説が完全だと言うつもりもありません。元々資料が乏しいのがいけないのですが、前述のような謎は残りますし、他にも信長公記に書かれておらず、藤本氏も自説で説明していない点は色々ありますので。今日は読書感想文なので、それはまた今度。

 この本で私が重要だと思ったのは桶狭間の戦いがどうだったかよりも、
1.自説に都合の良い資料ばかり採用し、都合が悪い資料を無視する研究者が多い
2.結果からみて勝った側を過大評価する傾向がある
 勝った側の行動は全て計画されていたもので、事前の計画がすばらしく、その通りに実行したから勝てたように考える人が多い

 という二つの指摘です(文章は上記の通り書かれているのではなく、複数箇所に書かれているものを二つに要約しています)。これは確かにその通りだと思いますし、自説を考える際に教訓にすべきだと思います。

 もっとも、藤本氏は1に陥っている面もあるようにも思いますが・・・・。

 あ、もう一つ。p68の進軍ルートの図ですが、
 17日 岡崎発
 18日  知立発 
 19日 沓掛城発

になってますが・・・・信長公記の17日に沓掛へ参陣と明らかに矛盾していますが。まずいでしょう。まさか、岡崎から一度沓掛にいって知立へ一度戻って再度沓掛にいったという訳ではないでしょうから。(^^;

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異物混入

 昨夜、MMにノリントンを聴きに行ってきました。が・・・・・異物が混入していて残念な結果に終わりました。

 サー・ロジャー・ノリントン指揮
 シュトゥットガルト放送交響楽団

 前半:
  ハイドン:交響曲 第一番 ニ長調
   ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77

 後半:
  ドヴォルザーク:交響曲 第七番 ニ短調 作品70
 アンコール
    ワーグナー:「ローエングリン」より第三番 前奏曲

 一曲目は良かったです。少数編成で、指揮台には立たず、指揮していました。御大、まだまだ元気でしたし、あのとにかく楽しい音楽は健在でした。生きてて良かった!(大げさ)。

 でも、二曲目で暗転しました。ヴァイオリン協奏曲なのでわかるようにソリストがいます。こいつが問題です。いや、問題は本当は私の方にあるのでしょう。しかし、私の立場からすると異物混入してせっかくの美味しい料理が台無し、としか思えないのです。
 世間での評価は高いようです(ただし、日本ではまだ無名。今回が初来日のようですし)。1992年生まれで、ミュンヘン国際音楽コンクール史上最年少優勝だそうで。しかし、私には、異音をまき散らす邪魔者にしか思えないのです。こんなに楽しみにしていたのに・・・・。なんでこんなの一緒につれてきたかなあ。

 他の観客は評価したようで、前半の終わりですが、ソリストはそれで退場なのでアンコールまで。この時はソリストだけでオケの演奏はないので、耳をふさいで下を向いていました・・・・前から六列目の席で(苦笑)。

 風邪ひいて調子良くないだけにつらい前半でした・・・・。

 しかし、問題の異物は前半だけです。後半はシュトゥットガルト・サウンドだけです。曲目のせいもあって、いつものとにかく楽しいというのとはちょっと違いましたが(でも、このベートーベンの5番でも楽しくしてしまうのですけどね)、それでも、さすがです。前半のダメージをみるみる回復。いやあ、良かった。
 アンコールは一曲だけでしたし(前半で異物がやってしまったしね)、わりと早めに終わってしまいました。もっとも、無駄な三顧の礼(大概、終わったら指揮者は退場し、拍手で再びでてきてを三回繰り返す)をやるよりはいいと思います。タイミングを見て、演奏者に退場を促し、自信は出口にいて、最後におやすみなさいをしぐさをして退場していきました。さすがは楽しいおじさん(おじいさんか)です。

 ただ、次はもうない可能性が高いようなのです。御大もお年ですし、シュトゥットガルト放送交響楽団の主席指揮者から近い将来退くそうで・・・。来日公演はこれが最後、かもしれません。そう思うとますます異物が憎いです。異物無しに聴きたかったです。

 しつこいようですが、異物、と感じたのはおそらく当日、あのホールの中にいた観客の中で私だけでしょう。私はあの手のヴァイオリンの音が駄目なんです。どういう音かというと、私がバリと呼び捨てるストラディバリウスの音です。今回の楽器がバリだったかどうかはわかりません。わかりませんが、私が嫌いなバリの音そのものでした。

 でも、バリであったとしても・・・・。ああ、ソリストが諏訪内氏でドルフィンだったら、ああ、もし、ソリストが千住氏でデュランティだったら、きっともっともっとすてきな時間を過ごせたでしょう。この二つのバリはバリであってバリではないので・・・・。

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ドルフィン

金曜日にMMでのコンサートにいってきました。今回は

 国立ノーヴォヤ・ロシア交響楽団
  指揮:ユーリー・バシュメット

 です。演目は
前半
ショスタコーヴィチ:祝典序曲 Op.96:ロシア革命30周年記念式典のために作曲されたもの
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第一番 イ短調 Op.77:

後半
チャイコフスキー:交響曲第六番 ロ短調 Op.74「悲愴」

アンコール
ブラームス:ハンガリー舞曲第一番
オリヴェラ:ティコティコ

でした。が、正直に言えば、我が家は、ドルフィンを聴きにいったのであり、他はおまけです。二曲目のヴァイオリン協奏曲で、ヴァイオリンをひいたのは、諏訪内 晶子氏で、その楽器がドルフィンです。ご存じの通り、ヴァイオリン界のフェラーリとも言えるのが、ストラディバリウスです。その中でも三大ストラディバリウスと言われるのが、アラード、メサイア、そしてドルフィンです。
 ま、フェラーリというよりも、HM(MH)という感じもしますね(笑)。オリジナルHMというところでしょうか。前にも書いたように我が家ではストラディバリウスは、バリと称され、私は本来はバリの音は嫌いでした。
 しかし、初めてドルフィンの音を聞いた時に、これが本当にバリなのか!という音に感動しました。そして、
デュランティ(300年寝ていたという幻のバリとも言われるもの。)の音を聞いて、これもまた従来のバリとは違う素晴らしい音で、なんだ、バリでも良い音を出すものがあるのではないかと感心しました。ヴァイオリンマニアが聞いたら卒倒しそうなことを言っていますね(笑)。
 まあ、でも、好みの問題なので仕方ありません。名無しのバリの音はとにかく私は嫌いなのですから。

 で、ドルフィン。今回は素晴らしい音色を聞かせてくれました。もっとも、奏者の違いもあるのかもしれませんね。諏訪内氏が他のバリをひいたらどういう音になるのかも興味はあります。

 オケですが、おまけというのは失礼でした。こちらも良かったです。相方はここならまた聴きにいきたいといっていましたし、私も同感です。

 ただ、お客の入りが少し寂しかったですね。前面の高い席はうまっていましたが、二階、三階は空席が目立ちました。うーん、なんででしょう?もったいない。でも、客質は良かったですから、これでもいいのかな?アンコールも二曲やってくれましたし。

 さて、明日は、いよいよノリントンです。久しぶりに生で聞けます。楽しみです。(^^)

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某所で

 某衆議院議員に遭いました。GW中に某公園の温室で撮影していたら、相方が国会議員のAがいると言ってきました。見ると確かにAです。Aは一度引退したBの地盤を引き継いで前回の選挙で現職のCを破って初当選しました。Bはその前の選挙では選挙区ではCに破れたものの、比例代表で復活しており、引退したはずの前回もまた比例代表で当選しています。その前に破れたとはいえ、長年の地元に地盤を築いており、血縁関係などはないものの、AはBの国会議員の地位を世襲したに等しい存在です。

 Bは若さと清潔さを売り物にして当選しており(と我が家では解釈している)、ポスターの写真の印象も若くさわやかな感じです。しかし、実物は・・・相方に言わせると、土建屋のおやじみたいで、嫌だだと。相方には嫌なオーラを漂わせているように見えるようです。短髪で日焼けしているせいで、そういう印象を受けたのかもしれませんが・・・確かに見た目では、なんか腹黒そうな印象を受けます。言いかえるとポスターはうまく撮影したのですね。
 実際にBがそうかどうかはわかりません。分かりませんが、政治家は見た目も大事ですからね。
 誰かに似ているなあと思ったら、昔の上司の上司です。えっと、弊社の管理職の役職名は、「組織名前」+「担当」で階級(課長だ部長だ)というのがないので説明しにくいのですが・・・まあ、当時は部長相当でしょうか?
 陸上自衛隊の普通科師団に例えると私が分隊長だとすると当時の中隊長でした。その後、連隊長に昇進し(普通科には大隊はないので)、師団長目前というところです。方面総監になれるかどうかはわかりませんが、師団長までは確実でしょう。
 自信家で、上昇志向が強く、口がうまくて、頭の回転が早く、上司としては厳しい人です。もっとも頭は良いし、考え方はまともなので、優秀な人物で、決して困った上司ではありませんでした。強いて言うのなら、頭の回転が早過ぎて暴走する時がある位。1を聞いて10を知るのですが。時々違う10を間の2から9まで考えて思い浮かべてしまって、全然違う指示・要求をしてくることがあるので、その都度2から説明しないといけない場合がありました(苦笑)。
 今は違う組織へ異動したので、仕事上の直接のつきあいはなくなりましたが、問題が起きた時にお客様訪問に同行したことが何度かあります。

 見た目だけなら、その連隊長殿に良く似た印象を受けます。さて、本人はどうなんでしょうね?同様に優秀なら、まあ、見た目はあれでも良いのですが??

 その後、市議会議員Dもやってきたそうです(私は直接みていない)。Dはこれまた父親の地盤を受け継いだ世襲議員です。これまた若さをうりにして前回の選挙で当選しています。そういえば、Dはどういう感じだったのか、相方に聞き損ねました。

 なお、同じ世襲議員でも、元総理大臣の息子は、相方の評価が非常に高いです。実際に、父親並の政治家になれるかどうかはわかりませんが、相方の評価は父親よりも上だそうです・・・見た目の魅力が(笑)。 

 ついでに書くと、最近、鳩山小沢批判を私がまったくしないのは、批判するに値しないと考えるからです。だって、自分で自分がやると言ったことを実行しなくてもいいのだという人を批判しても時間の無駄以外の何物でもないでしょう(苦笑)。

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GW

 皆様、いかが過ごされましたか?それともまだ連休中でしょうか?我が家は人混みが嫌いなので、GWは遠出はせず、近所の公園巡り(笑)。精々、ぴー次郎の散歩に山中湖に行ってきた位でした。
 でも、道路は意外とすいていましたね?すいていたは言い過ぎかもしれませんが、最近の良いお天気の週末並だったように思います。東名も3日と4日は結構混雑していたようですが、昨日は大した渋滞もなかったようですし。分散傾向なんでしょうか?
 写真はばらばら撮影してはいるのですが、なんか、こう、いまいち。これぞというのが撮れませんね。山中湖は桜系の花がまだ咲いていました。薄曇りで光がいまいちで、写真もいまいち。

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 最終日は出かけても良かったと思うのですが、相方が翌日仕事だからやめようといい、特別でかけませんでした。で、なっちゃんとぴー次郎の洗車をしたら・・・・疲れ果ててしまいました。一日二台の洗車はもう無理ですね(苦笑)。

 

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