« 鳩山さん、社民党を切る決意をしたのですか? | トップページ | 甦る零戦? »

倭の大王は百済語で話す

 金容雲著「日本語の正体 倭の大王は百済語で話す」を読了しました。著者は戦前生まれ(1927年)の数学者だそうです。なので日本語も自由に使えて、本書の翻訳ではなく、本人が日本語で書いています。
 以前、大野晋氏の「日本語の起源」でタミール語に由来するという説を読んでなるほどと思ったのですが、韓国語との関係がすっきりしませんでした。何故、文法はほぼ同一なのに単語や発音がこれほど違うのか。しかし、この書がそれをすっきり説明してくれました。
 帯にこう書かれています。「百済語が日本語で、百済語を投げ出したのが韓国語だった。」。この書は一文で言えばこれです。中身はその細かい説明です。
 カラ語という表現を使っていますが、これは北方系ではなく、南方系の言葉で、古代韓国語と言っても良いかもしれません。で、そのカラ語の方がタミール語との関連は深く、タミール語は半島経由で日本に入ったのであろうといっています。そういう意味では、日本語の起源の一つがタミール語であるというのは間違いではないでしょう。

 従来、必ずしも関連性がないとされていきた数詞(これは半分程度は関連性がとなえられていたとうですが)や基本語のほとんどに関連性があることを説明しています。

 ざっくり言えば、最初に半島南部の加邪(かや)の人々が半島から日本列島へ渡り、その後、白村江の戦いの前までに新羅系が東日本に、百済系が西日本に入っており、国家を形成していき、日本では百済系が主導権を握って日本語の原型が成立します。なので、加邪語が原型で、それに百済語と新羅語が混ざり、百済語が中心になって日本語になっていったという訳です。一部には新羅語も主に東日本に残っています。アイヌ系の言葉は半島からきた勢力に駆逐され、東北から北海道にかけてアイヌ系が残存していた地域の地名などを除けば、日本語には残りません。つまり、先住のアイヌ系民族が半島を経て大陸からやってきた民族に駆逐され、半島からきた民族が現代日本人(語)の先祖になったのです。

 だから、紀元7世紀までは半島と倭はほぼ同じ言葉を使っていた、というのが著者の主張です。ただし、新羅語と百済語はまったく同一ではなく、単語や発音に差異があったようです。半島では、新羅が百済を滅ぼし、倭も半島から追い出され、日本列島で孤立というか、半島とは別の歴史を刻みだし、半島は中国=漢字の影響が強くなり、固有名詞の発音まで中国風に変えていき、その結果、音韻が元々の原型から中国風にへ変化していきます。現在、日本語の70程度ですが、現在の韓国語では2000を越えます。これはこの過程で生じたものです。母音と母音が連続する場合、日本語はほとんどそのままですが、韓国語では、それを一つにして合成母音が作られ、結果的に音韻が増加していった、という訳です。
 また、日本語自体の音韻も当然、変化しています。ですから、オリジナルから二つに枝分かれして、それぞれが変化していった結果、現在の枝の両端を比べると欧州での言語の変化のように単純に音韻法則が成立しないのは当然で、音韻法則が成立しないから、対応していないとうのは間違いだというのが著者の主張です。

 著者の主張する主な変化を簡単に並べてみます。

1.南方語と北方語(それぞれは別の言語)が融合し、半島から日本へ渡った。それらの言語間には音韻対応はまたくない。
2.母音変化する。日韓語間だけではなく、日本語間でも生じている。
3.日本語は語頭の母音化傾向がある。日本語の語頭の子音が脱落したり、母音がついたりする。
4.清音が濁音または破裂音に変わりやすい
 例 k->g(カ行ー>ガ行)  

5.母音衝突で変化
6.えびかに現象。一つの単語が二つに分裂。同じ意味の言葉が続いて一つの名詞になっている場合があるが、それが分裂して、現在の日韓語のそれぞのれ名詞になっている
 例 手 : ソンテ => 日:テ、韓:ソン  : ソンテは現代韓国語では「手伝い」の意味
7.r、lの子音が不規則に変化

 このような変化の結果、現在の日本語と韓国語の音韻はすっかり異なってしまい、西洋風の音韻法則がほとんど成立しなくなった、というのです。

 もう一つ、熊襲はアイヌ系と私などは思ってしまうのですが、著者は半島の南方系が先に九州に入り、後から更に北方系が入り、南下し、行き場がなくなったので、「東征」したのではないかと考えており、隼人は、南方系の人々だったのではないかといっています。鹿児島弁が現在の日本語よりも韓国語により近いのだそうです。ただ、まあ、熊襲と隼人が同一でないとすると、熊襲はアイヌ系で、隼人は初期に九州に入った半島系ということも考えられそうです。ただ、ちょっと気になるのは、鹿児島弁はかなりユニークですが、それらは土地の民衆の言葉だったのか、それとも東国から入った御家人が持ち込んだ言葉かか、です。著者は東日本には新羅系の人が多くいて、方言にもそれが残っているといっています。であれば、元々その地にあった言葉ではなく、関東から持ち込まれた言葉の可能性もあるかなとは思いました。著者自体も似ているということを「いっぺごっぺさるもしてすったいだれもした」を例に説明していますが、この中の「すったい」=「すっかり」が韓国語の北方の方言「すった」に近いと書いています。南方系の言葉が残ったのなら、これは少しおかしい気もしますが、後述のように言葉の北方・南方と場所は必ずしも一致しないようです。ただ、いくつかは東国に住み着いた新羅系が持ち込んだ言葉を御家人が持ち込んでいる可能性はあるのでしょう。元々の地元の言葉と東国の御家人らが持ち込んだ言葉が融合して出来たのでしょうから、これは逆に一部は東国から持ち込まれた(東国ではその後、使われなくなった)言葉が残っているということかもしれません。ただし、これも私の基礎知識の不足により、そう感じたというだけですが。

 ここの単語の説明で知らなかった・興味深かったことをいくつかあげておきます。

1.カラが国、奈良も国
 加邪語や百済語で国を示すのは「カラ」で、これが
 karaーkona-kuni
 と変化して、クニになったと主張しています。
 一方で新羅で国は「ナラ」です、奈良は先に新羅系の人々が定着し、そこに国を作って、その地を国の意味で、ナラと呼んでおり、後から百済系が入った後、地名として、「ナラ」が残ったのではないかと。ただし、元々は加邪系が先にきていて、国自体を表す言葉は「カラ」が使われていたので、途中で「ナラ」が国を表す言葉にはならなかったようです。

2.村は新羅語
 新羅語では大きい村の意味で、「クンムラ」が首都を意味する言葉だったそうです。ムラ=村ですね。
 韓国語で、「ウル」は日本語の「うち」になったもので、垣の意味だそうです。垣が広がると村になり、これが「マウル」。更に広がると村郡になり「ゴウル」。その上が「ソウル」で、更に上は「ナウル」=国で、更に上は「ソラ」=空だそうです。郡を「ごおり」と発音する場合がありますが、これは「ゴウル」からきているのだといっています。

3.ソウルは固有名詞ではなく、首都の意味?
 京都みたいなものなんでしょうね。元々は、新羅で「ソラボル」、百済で「ソブリ」だったそうで、bが脱落して、「ソウル」になったと。ただ、前述のように新羅語では首都は「クンムラ」だといっていますので、「ソラボル」は固有名詞だったのでしょうか?ただ、「ウル」ー>「ゴウル」->「ソウル」ー>「ナウル」の変化の方が自然ですから、「ソブリ」が「ソウル」だとすると「ゴウル」も元々は違う発音だったのかも?

 なお、背振山という山が福岡と佐賀の間にありますが、これは「せぶり」です。だから、これは首都を意味する「ソウル」がなまったもので、吉野ヶ里遺跡は国の首都であったことを意味するのではといっています。なまりだとすると「ソブリ」ー>「せぶり」な気もしますが?

 

 百済と倭の関係がどうであったか、です。神話の記述から著者は百済の王族の一部が新天地日本へいき倭という国家をつくり、本国百済が滅んで、分国の倭が残ったと歴史的な国家の成立についてもふれられていますが、それらについての評価はここではしません。理由は簡単で、私にその時代の知識が不足しているので評価が出来ないだけです(苦笑)。ただ、倭が半島へ介入したのは本国救援の意味もあるかもしれませんが、ノルマン王朝がフランスの領有権を主張したのと同じような意味合いもあったということも書かれているのは興味深いです。

 半島の歴史に詳しくない(半島どころか日本の戦国時代よりも前の時代の歴史自体に詳しくなく、一桁世紀はさっぱり)なので、わかりにくい部分も多いのですが、著者の説明を読んだ成り立ちについての私の理解は以下の通りです。
 新羅は半島の東南部にあり、百済は西南部、北部に高句麗がありました。百済と高句麗は言葉は同じ系統のようで、北方系です。百済と新羅の間に加邪があり、これは南方系の言葉だそうです。高句麗はともかく百済は南方系に思えますが、これは高句麗は北方の所謂騎馬民族系でそれが南下していって、百済をつくったということなのでしょう。言い換えると加邪や新羅の方が元々の原住民ということでしょう。ただし、支配者階級は加邪も新羅も北方系らしいので、住民は南方系、それらが北方系に征服されて出来た国。高句麗や百済は北方系の民族ごと南下(原住民は南へ駆逐?)した国ということでしょうか?場所柄百済の住民は現住の南方系も相応に含まれていたのでしょうけど。
 言語だけみれば、百済は北方系、新羅や加邪は、南方系の言語に北方系の構造が融合したもの、だったと言っているように理解出来ました。なので、構造はいずれも同じ=アルタイ語系ということのようです。

 最初に日本へ渡ったの場所から考えても当然の話ですが、加邪系だったようです。半島南部、対馬、北九州一帯に加邪国家群が成立し、新羅としばしば戦っていたようです。金印の時代ですね。で、次に邪馬台国が登場します。これは今度は新羅と結んで、魏(三国志の)に朝貢しています。当時、百済は呉に朝貢していますから、百済と対立していたということです。百済は狗奴国を支持しており、これは邪馬台国と対立していますから。続いて歴史の空白期間があり、親百済の応神朝が登場します。
 日本の神話と半島の神話を交えて考察し、天孫光臨の神話をもたらしたのは加邪の傍流の王子らで九州南部から瀬戸内海を経て大和に入り、王朝を樹立します。これが神武天皇。
 ただ、それとは別に新羅系の物部氏が先に大和に入っていたようで、奈良=ナラ=国の語源となった国は彼らが作ったのでしょう。
 その後、百済系の応神が加邪系を征服してこれにとって代わり、以降、百済系が中心になって倭から日本へと成長していったと、と以上が著者の説明・主張と理解しました。

 新羅系は九州には行けず、日本海経由で山陰などへ渡ったのでしょうか?ある時期は中国(山陰)以東の地域に先住のアイヌ系を駆逐しつつ広く広がっていたのは、加邪系?新羅系?先に奈良地方に国を作ったのは新羅系でしょうか?新羅系は加邪系に東国へ追いやられ、東国の言葉に新羅系の語彙が残った、とまあそういうことなんでしょう。

 だから、結果的に言えば、半島では一時北方系に征服されかけたものの、最終的には南方系が中国と手を結ぶことにより、盛り返して半島を統一し、現代韓国語の元になり、日本は北方系が南方系を駆逐して、現代日本語の元になった、と、まあ、そういうことでしょうか。ただし、両者も両方の言葉が混ざり合っているので、新羅語=現代韓国語、百済語=現代日本語、とは言えないのでしょうけど。
 日韓がもっとも近い国・民族でありながら、仲が悪いのは昔からの歴史的な流れ?韓国=新羅=南方系から見れば、日本=百済=北方系に半島でも列島でも何度も侵略されたことになるので。(^O^;

 それから、著者の主張が正しいとすると邪馬台国は親新羅ですから、奈良にあった新羅系の国家であると考えられますが、ただ、そうだとすると対立していた百済が支持する狗奴国は熊本にあったのだろうとしている訳ですが、この時、先からいたはずの加邪系の国はどこにあったのでしょう?それもふまえると、邪馬台国は北部九州に存在しており加邪系で、それに対抗して九州のどこかに百済系の狗奴国があったと考えた方が自然ではないかと思えます。
 もしかすると百済系に押されて、北部九州から南下して瀬戸内海へ進出というか脱出し、大和へ到達し、先住の新羅系を駆逐し、勢力を確立、反撃に転じて九州の百済系国家を征服、そういうことかもしれません。そうすると隼人は意外にも百済系?そうすると大和説の人達がいっている国家は新羅系の国だったということになりますね。出雲も新羅系でしょうか?言葉を調べればわかるのでしょうけど。

 基本知識不足の上に長文癖がでたのでわかりにくい文章になってしまいましたが、著者の主張に同意する・しないは別にして、一度、読んでみることをお勧めします。日本語から従来余り興味のなかったこの時代の歴史に私が大いに興味をそそられましたし。
 ただ、こうなると次は、カラ語、百済語や新羅語の起源が気になってきます(笑)。

日本語の正体 倭の大王は百済語で話す
著者 金容雲
出版社 三五館
ISBN978-4-88320-476-2 

P.S.繰り返し述べているようにこの時代についての知識は不足しているので、著者が明らかに事実と異なる主張をしていても気がついていないかもしれません。著者の主張を全て認めている・同意したという訳ではないこともここにお断りしておきます。ただし、日本語の起源の説明としては、過去読んだもののなかで(後から出てきたものであるので当然ですが)、もっともすっきり納得出来るものでした。

|

« 鳩山さん、社民党を切る決意をしたのですか? | トップページ | 甦る零戦? »

歴史」カテゴリの記事

コメント

こちらをご参照ください。

この本は韓国の学界ではまったく相手にされていません。

http://paekjedaewang.jugem.jp/

むしろ百済語の実像をねじまげる書です。

投稿: 尼尊太郎 | 2011年12月 6日 (火) 00時19分

 なるほど、そうですか。ただ、素人にはおもしろく納得しやすいものでした。書いているようにそのまま正しいと受けれるものではないですが。
 わかりやすいというか、納得出来る真説が出てくるのを期待しています。

投稿: MOY | 2011年12月15日 (木) 08時21分

韓国語の文法が日本語の文法によく似ているのは、韓国語を確立したのが併合時代の日本で、その際に日本語の文法を当てはめたからです。それ以前の韓国語は八つの方言に分かれ、互いに通じることも難しかったそうです。ハングルもこの時代に、日本が仮名にあたるものとして小学教育に採用して普及したのです。韓国の文化の多くは併合時代に日本の手によって収集、整理されたものであることを忘れて、三国時代の日本との交流を基本に置くのは大きな間違いです。なお、百済の少なくとも支配階級は扶余族の系統で、朝鮮半島を統一した新羅人とは言葉が通じませんでした。従って、韓国語と日本語を同系統の言語とみなすことがそもそも間違いです。かつて万葉集を韓国語で読み解くという本が2種類出ましたが、それが可能だったのは万葉集が漢字で書かれていて、発音だの意味だのからこじつけやすかったからです。
ついでに、単語の相似について言えば、英語のbone(骨)は日本読みするとボネ、即ちホネの訛音で、英語と日本語は同祖であるという議論がかつてありました。こうした相似については、日本語は韓国語よりもヘブライ語にはるかに近いようです。天皇=すめらみこと=シュメールの王だとかで。

投稿: | 2014年2月28日 (金) 08時54分

一番つじつまが合う人の流れは、日本から半島南部へ倭人が渡って住み着き、そこに大陸側からツングース系が侵入してきたと見るほうが矛盾ないです。

半島の古代は無人だから、半島から人骨がでないんですよ

投稿: 実は | 2017年8月11日 (金) 04時39分

はじめまして、最近ケイマン981を中古で買ったことから、MOYさんのブログをずっと拝見していました。(まだ全て読めてません)

ふと見ると上記の面白そうな記事がありましたので、興味深く読ませてもらいました。(半分も理解できませんが)

私は倭の五王の古墳の中心付近にに住むものです。(古くからの地元民です)
付近には、辛国神社・土師氏・朝鮮人が祭られているという大津神社など、朝鮮半島を由来とする神社が多くあり、また、堺港から飛鳥に続く竹ノ内街道なども近所を通ってます。
また、私は神道であるので、近畿各地の多くの神社に参っています。

それがどうしたの?と思われそうですが、そういう遺跡に囲まれてたり、そのような環境で育ってますと、なんとなく感じるものがあります。

朝鮮民族が渡ってきたことは確かだろう。
小競り合いもあっただろう。
しかし、いきなり先住民族と渡来人の団体同士の大きい争いは無かったんじゃないか。

先住民族に渡来人が新しい技術を持ち込む。
技術を持つ渡来人がリードする形が出来上がる。
何世代かするうち、混血が多くなる。
技術を持った集団だから、構成員も多くなる。

ここから大きな集団同士の争いがあったのではないかと思います。

なぜそう思うか?
先ほど申しましたが、近くには朝鮮人の祭られてる神社や遺跡も多くありますが、それ以外の神社や遺跡は地元の神々や先住民族の遺跡ばかり。
先住民族をすべて殺し、又は従属させ、渡来人ばかりで世を治めたなら、その功績を残したいはず。

私の住んでいる周囲にはそのような感じを受ける遺跡は無いように思います。
渡来人から学び、渡来人がリードした。
それ以上の激しい争いは感じられません。

投稿: 今安 | 2017年10月11日 (水) 21時46分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/528857/47151845

この記事へのトラックバック一覧です: 倭の大王は百済語で話す:

« 鳩山さん、社民党を切る決意をしたのですか? | トップページ | 甦る零戦? »